民主主義という道具——手段の目的化という陥穽
かつて人々は、自分より賢明な誰かが決定してくれることを望んだ。愚かな自分が決めるより、立派な人に委ねる方がましだと考える時代があった。しかし今、私たちは「自分で決めたい」と願う。間違えたら自分で責任を取るから、自分に決定権を与えてほしいと。だが、その時代はまだ完全には到来していない。
現代の間接民主主義は、この過渡期の産物である。各国の議会制民主主義には明確な限界がある。資本主義という毒が、民主的制度の隅々にまで回り込んでいる。間接民主主義という、ある意味では反民主主義的な仕組みは、資本主義にとって格好の獲物なのだ。代表を選ぶという一段階の隔たりが、資本の介入を容易にする。
こうした問題意識から、テクノロジーを活用して直接民主主義を実現しようという声が上がっている。実際、一部の地域では実験的な取り組みも始まっている。しかし、ここで根本的な問いを立てなければならない。より完全な民主主義の実現は、政治の最終目標たりうるのだろうか。
答えは否である。民主主義は、政治的決定の方式の一つでしかない。それは政策の内容ではない。料理に例えるなら、民主主義は鍋やフライパンといった道具である。食材は野菜か肉か魚か。熱源はガスか電気か炭火か。これらを組み合わせて料理ができる。だが、鍋そのものが人々の最終的な希望となるはずがない。同様に、民主的な決定プロセスという道具が、それ自体として理想となることはない。
重要なのは、民主主義的作法を保ちつつ、「何を選ぶか」である。なぜなら、民主主義と資本主義と軍国主義は、何の矛盾もなく同時に成立しうるからだ。国民が熱狂的に支持して、資本主義体制のもとで軍国主義を推し進めることは、論理的に十分可能である。したがって、完全な民主主義の実現が人間の究極の理想だとは言えない。それはせいぜい、とりあえずの、第一段階の理想でしかない。
政治スローガンとして「より成熟した民主主義の実現」を訴えたとして、それが票になるだろうか。おそらく人々は、手段の洗練よりも、実質的な結果を求めている。王政であろうと、平和主義で福祉国家であるならば、それはそれで何も問題はない。決定手段が目的になることは、やはり納得できない。
人間の本性を見つめれば、この問題はさらに深刻になる。人類は太古の昔から殺し合いをしてきた。発見される古い化石には、たいてい不自然な打撃の跡がある。優秀さを競ったのではなく、殺し合ったのである。そんな人類が、いまも戦争を続けている。商売目的で開発される戦争ゲーム、「反戦」を謳いながら戦闘の迫力を描く映画——人間の闘争本能は、形を変えて現代にも息づいている。
戦争を推進する者たちでさえ、平和のために戦うと主張する。彼らは平和が嫌いなわけではないと言う。だが、民主主義的決定によって戦争を選び、他国を侵略し、自国民を虐げることは許されない。民主主義という道具は、このような結果を正当化するものではない。
資本主義は舞台全体を構成している。その舞台の上で、役者たちがライトを浴びて、「平和のため」と称して戦争をし、血を流している。資本主義と軍国主義は実体として明確である。一方、民主主義は舞台を眺めて拍手している観客のようだ。舞台上で何が演じられるかに関わらず、観客が拍手すれば、それが「民意」となる。
私たちが目指すべきは、民主主義という手段の完成ではない。平和、福祉、人間の尊厳——これらの実質的な価値こそが、真の目標でなければならない。民主主義は、それらを実現するための道具として機能する限りにおいて価値がある。道具を磨くことに夢中になって、何を作るべきかを忘れてはならない。
