魔術から理性を引き算して残ったものを大切に扱おうではないか

伝統的宗教の存在意義について精神病やその他障害との関連で考える 魔術から理性を引き算したもの
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躁うつ病は、地上での水平運動である。1ミリも地上には飛び上がらない。

シゾフレニーは、地上からジャンプする力がある。

最近はシゾフレニーと躁うつ病が近縁で、うつ病は別のものだと、遺伝子研究が言っている。

つまり、私の立場でいえば、躁うつ病とみられる症状を呈している場合でも、地上に何ミリかでもジャンプする成分があれば、本質的にはシゾフレニーなのである。

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伝統宗教の活動を考えてみれば、精神障碍者を含めて、病気や障害やさまざまな、一見生産活動には役に立たない存在を吸収して、存在意義を与える、重要な機能を持っていると思われる。

シゾフレニー系の人は地上の空気とは別の原理で動いて、垂直にジャンプするから、神と直接交信できる。聞くこともできるし、告げることもできる。

その貴重な体験を、集団の原理に翻訳意訳するのが躁うつ系の人の役割である。シゾフレニー系の人からもたらされる、超越者からの情報を集団統合の情念に変換する。

てんかんの人は超越体験、至高体験、ピーク・エクスペリメントを体験する。身体的発作を起こす。それは超越者からの信号である。

広くいろいろな病気や障害、たとえば先天性疾患なども、神からの一種のお告げ、例えば、神が怒っていることの信号、あるいは天罰、そのような解釈を与えられる。どんな人でも生きていれば罪を犯すもので、その罪と、今目の前にある障害の因果を突き付けられれば、それは説得力のある宗教的啓示となる。

食料にもならない、暖房にもならない、そのようなことについての役割を与えられる。それでも、集団の情念の養成と発散のために、不可欠のものである。

進化論的にいろいろな「有利さ」が言われているが、そしてそれももっともなことであるが、神との交信、集団の統合、因果の啓示、反省の契機、そのような機能を伝統的宗教は荷ってきた。

最近の新宗教は、集団心理学の応用である。自己啓発セミナー、新宗教、ネットビジネス、政治の場面での新党、どれも集団心理学の応用で、生き残った集団は生存を続け、負けた集団は別の領域に手を伸ばすが、用いる手法は同じである。

だから、どこかで聞いたような話が反復している。

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キリスト教で使っている聖書は、実に「聖書」であって、すべての要素が盛り込まれている。
それを全てというのは、人間の脳が考えられる限りでのすべてと言っていいのかもしれないし、
聖書がすべての範囲を規定していると言っていいのかもしれない。

最初に目立つのは、シゾフレニー系の話である。ありえないような話が次々に語られる。
そして一方で、明らかに躁うつ系の話が語られる。単極性のうつも、反応性のうつも、その他、人間において観察されるほぼすべての要素が語られている。

このようにして、垂直方向に統合し、水平方向に統合している。
様々な宗教はあるだろうが、勝ち残るのはこのような宗教だろうと思う。

個人的には垂直方向の祈りだけに価値があると思う。
水平方向の運動は、集団統合であり、情念の支配である。世俗の集団運営そのものである。

とはいうものの、水平運動は、垂直運動を巧妙に利用している。それが世俗の知恵である。

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魔女狩りとか、贖宥状とか、いろいろと長い歴史があった。

数学や物理、化学、などはその萌芽期には魔術であり、秘薬であった。いかがわしい点では新興宗教と同じ立場であった。

魔術的な思考があり、超越的な感覚があった。

それが今では、なんとも素晴らしいことになっている。

条件を同じにして、実験すれば、誰でも、どこでも、いつでも、同じ結果が出る。そこに至れば、魔術を卒業して、自然科学になる。

そうなると、その前提条件中には、精神機能も入っているのだろうかとの議論になる。

物理的前提条件を同じにしても、観測して思考する脳機能が同じでなければ、同じ結果にはならない。

脳のどこを使うか、脳をどう使うか、その点までを含めて、全体条件であって、その時点で、自然科学が成立する。

そのようにして自然科学が成立すると同時に、精神病が成立する。排除されたものが、精神病である。

まとめると、
魔術が発達して、その中から、自然科学と精神病が分岐した。
自然科学に適した脳機能は理性と呼ばれた。
理性ではない部分はまとめて精神病として分類された。

そののち、理性は、理性以外の部分を、理性の働きによって、分類し、理解しようとした。

しかし、説明はできるが、了解はできないなどという事態に至った。

勿論である。精神病は理性以外の部分だったのだから、当然なのだ。
理性ではないとして分離されたものを、どうして理性が了解できるだろうか。

精神病はいまだに測定さえ拒んでいる。自然科学的に思考されることを拒んでいる。
原理的に、理性ではない部分なのだから、理性が理性の作法で測定しようとしても、うまくいかない。

理性の方法で測定して、数学に表現できるものは、理性の側のものなのだから。



Ⅰ.基本構図の整理

――「垂直」と「水平」という二軸モデル

人間の精神運動を二軸で捉えてモデル化する

  • 水平軸
    社会的・集団的・地上的な運動
    → 適応、役割分担、生産、集団統合、情念の調整
  • 垂直軸
    超越的・非日常的・跳躍的な運動
    → 神的経験、啓示、意味の断絶、存在論的飛躍

この二軸は、単なる比喩ではなく、精神病理・宗教・自然科学の分化史を説明するための基礎座標として機能している。


Ⅱ.精神病理の再配置

――「障害」ではなく「機能分化」としての理解

1.躁うつ病と統合失調症の再定義

精神疾患を次のように再配置する。

  • 躁うつ病
    水平運動の極端化
    • 社会的情念の増幅と減衰
    • 集団との同調・離脱の振幅
    • 地上からは「飛ばない」
  • 統合失調症(シゾフレニー)
    垂直運動の発生
    • 現実の座標系からの跳躍
    • 神・超越者との直接交信という形式
    • 社会的合理性からの逸脱

ここで重要なのは、症状の重さや病理性ではなく、運動方向の違いとして捉えている点である。
したがって、「躁うつ的に見えるが、わずかでも垂直跳躍があるなら本質は統合失調症的である」という主張が成立する。

これは診断論というより、存在論的分類である。


Ⅲ.伝統宗教の存在意義

――「排除しない装置」としての宗教

1.近代社会との決定的な差異

近代社会(とくに自然科学と合理主義に基づく社会)は、

  • 生産性
  • 合理性
  • 予測可能性
  • 再現性

を価値基準とする。

その結果、

  • 生産に寄与しない
  • 理解不能
  • 制御不能
  • 測定不能

なものは周縁化・病理化・排除される。

これに対し、伝統宗教は逆の機能を担ってきた。

2.伝統宗教の中核機能

伝統宗教の機能は、次の通りである。

  1. 垂直経験の収容
    • 統合失調症的体験を「神との交信」として意味づける
  2. 水平翻訳の媒介
    • 躁うつ的資質をもつ者が、啓示を集団倫理・儀礼・物語に変換する
  3. 因果の付与
    • 病気・障害・不幸を「罪」「罰」「試練」と結びつけ、意味を与える
  4. 集団情念の調整
    • 恐怖・罪責・希望・服従・連帯を循環させる

重要なのは、真偽ではなく機能である。
それが事実かどうかではなく、「生きられる意味」として機能するかが問題なのだ。


Ⅳ.てんかん・先天性障害・病の宗教的意味

――「身体的異常」は超越の記号となる

てんかんや先天性疾患も、

  • 超越者からの信号
  • 神の怒り
  • 天罰
  • 罪との因果関係

として解釈される。

ここで行われているのは、身体的事実の象徴化である。

  • 医学的には「説明不能な発作」
  • 宗教的には「意味をもつ出来事」

この変換によって、

  • 無意味な苦痛
  • 偶然の不運

は、

  • 反省の契機
  • 集団への警告
  • 生の物語

へと変換される。

それが「残酷」であるかどうかとは別に、意味の生成装置としては極めて強力であった。


Ⅴ.聖書という「全脳的テキスト」

聖書を次のように捉える。

  • 統合失調症的物語(幻視・奇跡・神の声)
  • 躁うつ的物語(熱狂・絶望・回復)
  • 抑うつ・罪責・倫理
  • 家族、政治、戦争、法

これらがすべて含まれている点で、聖書は

人間の脳が取りうるすべての精神状態を包含するテキスト

である。

つまり、

  • 垂直方向に統合
  • 水平方向に統合

することに成功した宗教だけが、歴史的に生き残る。


Ⅵ.魔術・自然科学・精神病の分岐史

――「理性」が生まれた瞬間

1.魔術から自然科学へ

  • 魔術:
    再現性がないが、意味がある
  • 自然科学:
    再現性があり、意味を排除する

実験条件を揃えれば、誰でも同じ結果が出る。
ここで初めて「理性」が成立する。

2.同時に成立した「精神病」

しかしこのとき、

  • 再現不能
  • 主観依存
  • 垂直跳躍的
  • 非合理

な精神機能は、自然科学の前提条件から排除される。

その排除された残余が、

精神病

である。

つまり、

  • 自然科学が成立した瞬間に
  • 精神病というカテゴリーが成立した

精神病は「発見」されたのではなく、切り捨てられた結果として生まれた


Ⅶ.なぜ精神病は「理解不能」なのか

理性は、理性に適合するものしか測定できない。

  • 数学化できるものは理性の側
  • 数学化できないものは理性の外

したがって、

  • 精神病を説明できても
  • 精神病を了解できない

という事態は必然である。

理性ではないとして分離されたものを、
どうして理性が理性の作法で了解できるだろうか。

ここに、精神医学の自然科学としての根源的限界がある。


結論

――伝統宗教とは何だったのか

以上を総合すると、次の結論が導かれる。

  1. 伝統宗教は
    理性以前の精神機能を包摂する巨大な意味生成装置であった。
  2. 精神病は
    自然科学成立の副産物として切り捨てられた領域である。
  3. 新宗教・自己啓発・政治運動は
    宗教機能の水平的再利用にすぎない。
  4. 垂直方向の祈りだけが
    本質的な意味をもつが、それは常に社会に利用される。

魔術から理性を分離して、自然科学を成立させた。
そのとき排除されたものとして、精神病が同時に生まれた。

この理解に立つとき、
精神病は「治すべき異常」ではなく、
人間が理性になるために切り捨てた影として、
あらためて思考され直されるべき存在となる。

――それならば、精神科医療は、排除された部分、昔は伝統宗教に包摂されていたものを、再度切り捨てることなく、大切に扱う営みである。

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