人間の垂直方向の跳躍について
民主主義は水平の制度である。資本主義もまた水平の制度である。いずれも人間と人間の関係を、地上において、横に広がる平面の上で組織する。誰が誰を支配するか、誰が誰より多くを所有するか——これらはすべて、同じ次元の問題である。
だが人間には、この水平面を突き破って、垂直方向に跳躍する瞬間がある。
ドストエフスキーの小説を思い起こせばよい。そこでは淫らな欲望と乱暴な衝動が渦巻き、乱痴気騒ぎが繰り広げられる。登場人物たちは嫉妬し、憎悪し、殺意さえ抱く。しかし同時に、彼らは驚くべき知性を持ち、神について、罪について、救済について語り続ける。『カラマーゾフの兄弟』のイワンは神を否定しながら神に取り憑かれ、ドミートリイは放蕩の果てに聖なるものを幻視する。アリョーシャは修道院にいながら俗世に生きる。
このドストエフスキー的世界の本質は、人間が水平方向にどれほど堕落しようとも——あるいは堕落するがゆえに——垂直方向への志向を失わないという点にある。娼婦も殺人者も、神の前では対等である。いや、むしろ彼らこそが、安全な中産階級の人々よりも、神に近いのかもしれない。
人間には、民主主義の外側にいる部分がある。選挙によっても、多数決によっても、国民投票によっても触れることのできない領域が、人間の内部に存在する。資本主義の外側にも、人間は立つ。貨幣によっても、市場によっても、効用によっても計測できない何かを、人間は抱えている。
それを「魂」と呼んでもよいし、「実存」と呼んでもよい。あるいは「尊厳」でも「聖性」でもかまわない。名前は重要ではない。重要なのは、そこに何かがあるという事実である。
民主主義は制度として必要である。資本主義は経済として機能する。どちらも否定すべきではない。しかし、それらが人間の全体を覆い尽くすことはできない。人間の本質は、制度の外側にある。
「食って寝て生活することなど召使に任せておけ」——この一見傲慢な言葉は、しかし真実を突いている。もちろん、現実には誰もが自分で食い、自分で寝なければならない。召使などいない。だが、人間が単に食って寝るだけの存在であるなら、人間と動物の区別はどこにあるのか。
人間は、生存を超えたところで人間になる。パンだけでは生きられない。パンを得るための制度——民主主義も資本主義も——は、パンを配分する。しかしパン以外のものは配分できない。
垂直方向への跳躍とは、この「パン以外のもの」を求める運動である。
それは祈りであるかもしれない。神を信じるか否かにかかわらず、人間は何かに向かって祈る。祈りとは、水平の関係から離れて、垂直の関係に入ることである。誰かに何かを要求するのではなく、ただ祈る。取引ではなく、委ねること。
それは芸術であるかもしれない。芸術は市場で売買されるが、芸術の本質は売買されない。ベートーヴェンの後期弦楽四重奏曲は、誰のためでもない。作曲家自身さえ、聴衆として想定していない。それは垂直方向に向けて書かれた音楽である。
それは思索であるかもしれない。哲学も科学も、有用性を離れたところで本来の姿を現す。真理は民主的に決定されない。真理は資本主義的に生産されない。真理は、ただそこにある。
あるいはそれは、涙であるかもしれない。理由なく流れる涙。説明できない感動。論理を超えた共感。これらは水平の次元では理解できない。
ドストエフスキーの登場人物たちが、あれほど饒舌に語りながら、結局のところ言葉にならないものを抱えているように、人間もまた、制度の言葉では語り尽くせない何かを内に秘めている。
民主主義を信じすぎてはならない、と私たちは言った。資本主義を絶対化してはならない、とも言える。なぜなら、人間の本質はそれらの制度の外側にあるからである。
制度は必要である。しかし制度は、人間を包み込むことはできない。人間は制度からはみ出す。そのはみ出した部分こそが、人間を人間たらしめる。
そして、その「はみ出し」は、水平方向へのはみ出しではない。より多くの自由、より多くの富、より多くの権利——これらはすべて水平の拡張である。そうではなく、人間は垂直方向にはみ出す。上へ、あるいは下へ。天へ、あるいは地獄へ。
この垂直方向への志向性を失った社会は、どれほど民主的であろうと、どれほど豊かであろうと、息苦しい。なぜなら、そこでは人間が平面に押しつぶされているからである。
ドストエフスキーの世界が、あれほど混沌としていながら、読者を惹きつけるのは、そこに垂直の次元が常に開かれているからである。登場人物たちは地上で這いずり回りながら、同時に天を見上げている。あるいは地獄を覗き込んでいる。彼らは二次元の存在ではない。
現代の民主主義社会は、しばしばこの垂直性を忘れる。すべてを水平の関係に還元しようとする。権利と義務、契約と交換、多数決と少数意見——これらはすべて重要だが、それだけでは足りない。
人間は、ときに民主主義の外側に立たなければならない。資本主義の外側に立たなければならない。そして神の前で——あるいは何か絶対的なものの前で——涙して祈らなければならない。
その祈りは、非合理的かもしれない。非生産的かもしれない。しかしそれは、人間が人間であることの証である。
召使に任せるべきは、食うことや寝ることだけではない。民主的決定も、市場的取引も、ある意味では「召使に任せる」べきものである。それらは手段であって、目的ではない。
人間の目的は、垂直方向にある。跳躍すること。飛翔すること。あるいは墜落すること。いずれにせよ、平面に留まらないこと。
ドストエフスキーは、この真理を小説という形で示した。彼の登場人物たちは、社会的には失敗者であることが多い。しかし彼らは、垂直方向においては成功者である——あるいは少なくとも、挑戦者である。
私たちもまた、民主主義と資本主義という水平の制度の中で生きながら、垂直方向への跳躍を忘れてはならない。その跳躍なしには、人間は制度の部品に成り下がる。
制度は人間を守る。しかし制度は人間を完成させない。人間の完成は——もし完成などというものがあるとすれば——垂直方向にしかない。
これは神秘主義ではない。むしろ、人間についての冷静な観察である。人間は、どの時代においても、どの社会においても、水平の次元に満足できなかった。常に何か「それ以上のもの」を求めてきた。
その「それ以上のもの」は、より良い制度によっては得られない。完全な民主主義も、完璧な市場も、それを与えることはできない。なぜなら、それは制度の外側にあるからである。
人間の本質は、この外側性にある。制度に収まりきらない部分にある。垂直方向に跳躍しようとする衝動にある。
そしてこの衝動は、ドストエフスキーが示したように、淫らな欲望や乱暴な衝動と矛盾しない。むしろ、人間の全体性は、地上的なものと超越的なものの両方を含む。聖なるものは、俗なるものの対極にあるのではなく、俗なるものの只中に現れる。
民主主義を縛る倫理について、私たちは語った。その倫理の根拠もまた、この垂直性にある。人間を手段化してはならないという原則は、人間が単なる水平的存在ではないという認識に基づく。
もし人間が完全に水平的な存在であるなら——つまり、制度によって完全に記述可能な存在であるなら——手段化も正当化されうる。しかし人間は、記述不可能な剰余を持つ。その剰余が、垂直の次元を構成する。
したがって、民主主義も資本主義も、この垂直性を尊重しなければならない。制度は、人間の水平的な関係を組織するが、垂直的な次元に介入してはならない。
神の前で祈る自由。美を追求する自由。真理を探求する自由。理由なく涙する自由。これらは、民主的多数決によっても、市場の効率性によっても、侵されてはならない。
人間は、食って寝て生活する。しかしそれだけではない。人間は垂直方向に跳躍する。その跳躍において、人間は初めて人間になる。
ドストエフスキーの登場人物たちのように、私たちもまた、地上で這いずり回りながら、天を仰ぐことができる。その両義性こそが、人間の条件である。
そしてその両義性を守ることが、政治の最終的な目的でなければならない。またそれが精神医学者が守りたいものである。
