単なる個人の道徳心の欠如ではなく、社会の構造的変化(下部構造)が私たちの精神(上部構造)を根底から作り替えてしまった結果である

匿名・流動型犯罪集団(トクリュウ)は、SNSや闇バイトで実行犯を募り、離合集散を繰り返す組織的犯罪集団である。
秘匿性の高い通信アプリを使い、組織を動かしたりしていて、IT活用しているように見える。

犯罪すれすれの経済活動をする人が増えたように思う。全く反省していない。詐欺的な契約を押し付けて正当な契約だと居直る。

兵庫県知事選挙で、二馬力選挙が行われる、犬笛が吹かれる、命を落とす人まで現れる、それでも反省の色はない。

その他、いくらでもあげられるように思う。

つまりは、法律で明文として禁止されていない限りは、ぎりぎりのことをする自由があると考えるらしい。

法律も警察も裁判も、事後的にしか動かないわけだから、被害者が明確になり、ある程度の被害が堆積するまで、その者たちは利益を得ることになる。法的に明確に禁止されたら、別の活動を考える。法律の隙間をついて利益を上げる。裁判や法改正で隙間がふさがれれば、別の隙間を探す。

しかし、現実と法律は、それほど密着しているわけではないので、隙間ができてしまうのは、法技術として仕方がない。あまりに予防的になれば、それも危うい。

法と現実の隙の間部分は常識や倫理や習慣が埋めてきた。しかしそれを感覚しない人間、または、感覚していないふりをする人間に、社会は被害を受けている。

多分、それぞれの時代に、このような感覚はあったのだろう。そして、法の不備を突くにあたっては、新技術が関与していただろう。自動車、バイクとか、通信技術とか、薬剤とか。現代では、ネット、携帯、IT技術など。また、国家が取り入れた新制度などは狙われやすい。マイナンバーカードやネット銀行、クレジットカード、防火点検や水道検査など。

なぜ平気で人をだませるのか分からない。なぜそれで平気なのか分からない。なぜそれほどまでに共感性がないのか分からない。

例えば、スマホ中毒の人間は、対人交流が少なくなり、倫理感情の発達が阻害される可能性はある。しかしまた逆に、倫理感情の発達不全があるからで、スマホ中毒になる可能性もある。そのあとは悪循環する。

IT土方も同様で、最初からアスペルガー傾向だったのか、IT土方をやっているうちに、アスペルガー傾向になってゆくものなのか、よく分からない。

感情発達が十分ならば、犯罪もしないし、共感もできると言えるのかも、分からない。

さて、以上長々と書いたけれども、こうした動向は、なぜ生じているのか。人々の精神に何か変動が生じているのだろうと、自然に思うが、よく分からない。

新聞紙上で社会風潮などといわれるものの次元でいえば、新自由主義・ネオリベは、関係しているかもしれない。ネオリベは、自分の利益のためなら、人のいい消費者や利用者をだましても、仕方がないと考え、だまされた側の自己責任もあるだろうと主張する事態にさえ至る。

新自由主義は倫理の話でも精神構造の話でもなくて、経済制度として、企業や個人の金もうけの活動をなるべく邪魔しないとの考え方だろう。そのことが、まわりまわって、現在のような新科学技術利用型・共感欠如型の犯罪と関係しているだろうか。

下部構造が上部構造を規定するのだから、新自由主義と新技術の下部構造は、それにふさわしい上部構造を出現させるだろう。

人格的に偉大な人ではなく、隙間を狙って稼ぐ卑小な人のイメージ。儲けるには、勤勉・節約・蓄財ではなく、狡いこと。
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こうした感じ方は果たしてどの程度正しいものなのか。新自由主義はどの程度精神の変化に影響しているものなのか。
立証する方法もよく分からないし、実地に測定する方法も分からない。

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現代社会が直面している「倫理の空白」と「技術の悪用」、そしてそれらを加速させる「新自由主義(ネオリベラリズム)」の本質を描いている。

「法に触れなければ何をしてもいい」「騙される側にも責任がある」という風潮は、単なる個人の道徳心の欠如ではなく、社会の構造的変化(下部構造)が私たちの精神(上部構造)を根底から作り替えてしまった結果であるという視点で、論を構成・補強してみます。


「隙間」を狩る者たちの時代:新自由主義と技術革新がもたらした精神の変容

序論:常識という「緩衝材」の消滅

かつて、社会には「法」と「個人」の間に、習慣、倫理、地域共同体といった「常識」という分厚い緩衝材が存在していた。法が明文化される以前に、私たちは「それはお天道様に顔向けできない」「卑怯な真似はするな」という無言の規律によって自らを律してきた。
しかし現代、匿名・流動型犯罪集団(トクリュウ)や、法の隙間を突く詐欺的ビジネスの台頭に見られるのは、この緩衝材の完全な消失である。彼らにとって、法に書かれていないことは「自由」であり、法の不備は「チャンス」でしかない。この精神の変容は、いかにして成し遂げられたのか。

1. 新自由主義という「下部構造」:市場論理の全域化

新自由主義は単なる経済政策ではない。それは、あらゆる人間活動を「市場原理」に置き換える統治技術である。
マルクス主義的な視点に立てば、新自由主義という「下部構造」は、それに適した「上部構造(精神・文化)」を要請する。そこでは、人間は「市民」ではなく「自己資本を最大化する経営者」として定義される。

  • 自己責任論の武器化: 「個人の成功も失敗も自己責任」という教義は、弱者を切り捨てる論理としてだけでなく、加害者が自らを正当化する論理としても機能する。「騙される方が情弱(情報弱者)であり、自己責任だ」という居直りは、新自由主義が社会に植え付けた究極の毒杯である。
  • 利得の最大化とコストの外部化: 企業が環境汚染や労働搾取を「外部コスト」として押し付けるのと同様に、現代の「隙間を狙う人々」は、他者の精神的・経済的苦痛を考慮すべきコストから除外する。

2. IT技術による「共感」の遮断と組織の流動化

IT技術(SNS、秘匿性の高い通信アプリ)は、この新自由主義的精神を加速させる強力なアクセラレーターとなった。

  • 記号化される被害者: 画面越しのやり取りにおいて、他者は「操作対象のデータ」や「収益の源泉」へと記号化される。対面コミュニケーションが持っていた「相手の痛みを感じ取る」という生物学的なブレーキが機能しなくなる。
  • 離合集散の合理性: トクリュウに象徴される「使い捨ての実行犯」と「匿名の指示役」という関係は、組織の維持コストを最小化し、摘発リスク(コスト)を回避するための、極めて「効率的な」ビジネスモデルである。ここには、かつての任侠組織のような擬似的家族関係(情緒的結合)は存在せず、あるのはドライな利益分配のみである。

3. 「勤勉・蓄財」から「狡智・収奪」への価値転換

かつての資本主義は、マックス・ウェーバーが指摘したように「勤勉に働き、節約し、蓄財する」というプロテスタント的な倫理に支えられていた。しかし、現代の新自由主義的環境下では、真面目に働くことは「搾取される側」に回ることを意味しかねない。

  • 裁定(アービトラージ)としての犯罪: 法の隙間や新制度(マイナンバー、ネット銀行等)の不備を突く行為は、彼らにとっては「情報の非対称性を利用した賢い取引」に過ぎない。
  • 「偉大さ」の喪失と「卑小な成功者」: 社会に貢献して尊敬を集める「人格的に偉大な人物」ではなく、システムの裏をかいて素早く稼ぎ、逃げ切る「狡賢い者」が、SNS等を通じてSNS上の「勝者」として可視化される。このロールモデルの変容が、若層の倫理観を浸食している。

4. 精神の変容:共感不全と「アスペルガー的」社会への適応

ご質問にある「IT土方とアスペルガー傾向」の相関については、因果関係は複雑だが、一つの仮説を立てることができる。
現代の高度情報化社会は、「ハイパー・ラショナル(超合理的)」であることを求める。感情や倫理といった「計算不能なノイズ」を排除し、目的達成のために最短距離を走る精神構造は、ある種の自閉傾向や共感欠如の状態と親和性が高い。
社会全体が「システムに適応するために共感をオフにする」ことを強いているのだとすれば、それは環境適応の結果としての「後天的な精神変容」と言えるかもしれない。

5. 政治における「犬笛」と倫理の崩壊

兵庫県知事選挙の例に見られるような「二馬力選挙」や「犬笛(特定の層にだけ届く扇動的な合図)」は、民主主義というシステムさえも、ハック(改ざん)の対象になったことを示している。
そこでは「何が真実か」や「何が公徳か」は重要ではない。「いかにして大衆の情動をハックし、勝利という利得を得るか」というゲーム理論のみが支配している。勝利すれば、その過程での嘘や他者の死さえも「結果論」として正当化される。


結論:失われた「隙間」の倫理をどう取り戻すか

新自由主義と新技術が結託した現代において、私たちは「法に書いていない悪意」に対して無防備になりつつある。
「下部構造が上部構造を規定する」という法則が正しいならば、この精神の荒廃を止めるには、単なる個人の道徳教育では不十分である。

  1. 「自己責任論」の解体: 人間は一人では生きられない存在であり、相互扶助は「コスト」ではなく「生存戦略」であることを再定義する必要がある。
  2. システムの設計変更: 効率性のみを追求するシステム(マイナンバーやネット銀行の急速な普及など)に対し、あえて「倫理的・人間的なブレーキ」を組み込む法技術的工夫が求められる。
  3. 「恥」の文化の再構築: 「損か得か」という新自由主義の評価軸とは別に、「美しいか、醜いか(卑怯か)」という審美的な倫理基準を、社会的な共通資本として取り戻さなければならない。

「隙間を狙って稼ぐ卑小な人」が跋扈する時代は、社会の成熟が止まり、腐敗が始まっている兆候である。私たちがこの事態に「違和感」を持ち続けること自体が、かつての上部構造(常識や倫理)を繋ぎ止める最後の砦となるだろう。

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