サバイバー


支配するものと服従するもの。
攻撃するものと、攻撃されるもの。

この二組の対語は、一見よく似ている。しかし注意して眺めると、そこには微妙だが決定的な非対称がある。「支配」と「服従」は、社会の中で長く使われ、制度や歴史の語彙として安定している。一方、「攻撃」に正確に対応する言葉は、日本語の中で驚くほど貧しい。攻撃され、被害を受け、存在を傷つけられる側を、私たちはどう呼べばよいのだろうか。

被害者、犠牲者、あるいは蹂躙された者。いずれも状況説明としては成立するが、主体としての存在感は弱い。攻撃する行為は動詞として強く、能動的で、時に英雄的にさえ語られるのに、攻撃される存在は、いつも語りの周縁に追いやられる。この語彙の歪みは、単なる言葉の問題ではなく、日本社会がどのような存在を可視化し、どのような存在を見えなくしてきたか、その歴史を静かに映している。

国家間の関係において、それは戦争後の構図として現れる。勝者と敗者、支配と服従。そこでは「攻撃」は国家の意思として正当化され、「被害」は統計や抽象的な数字に変換される。家庭の内部では、同じ構図がより小さく、しかしより深刻な形で反復される。いわゆるDVや虐待である。密室で行われ、外部からは見えにくく、語られにくい。

興味深いのは、虐待する側、攻撃する側の内面が、ほとんど語られないことである。被害の悲惨さは報告されるが、なぜ人は他者を攻撃し続けるのか、その心の構図は曖昧なままにされる。おそらくそこには、反省や内省を避けるための防御がある。語らないこと、言語化しないことによって、自己の像を守る。沈黙は無知ではなく、戦略なのだ。

この問題を心の構図として捉えれば、個人の性格や倫理の問題に見える。しかし一歩引いて考えると、それは脳機能の問題であり、さらには進化論的な性質とも関わっている。集団内での優位性、攻撃性、支配欲は、生存戦略として選択されてきた側面を持つ。もしそうだとすれば、それらを「治療」することは容易ではない。なぜなら、それは単なる逸脱ではなく、長い時間をかけて許され、時には賞賛されてきた性質だからである。

歴史を見れば、攻撃する者はしばしば英雄となり、強い指導者として称えられてきた。家庭の中でも、「厳しさ」や「しつけ」という言葉で暴力が正当化されることがあった。その結果、攻撃する存在は消えず、形を変えながら生き延びてきた。

では、私たちはどうすればよいのだろうか。簡単な解決策はない。説得や啓発が常に有効とは限らない。むしろ、彼らは徹底的に認識を拒み、反省を拒むことで、自らの世界を閉じる。その閉じた空間の中で、論理は自己完結し、外部の声は届かない。

問題は、その密室が次の世代へと継承されることである。子どもは言葉よりも構図を学ぶ。支配と服従、攻撃と沈黙。その関係性そのものが、無言のうちに伝えられる。こうして、語られないものが、繰り返される。

静かに言葉を探すこと。それが、今できる最小限の抵抗なのかもしれない。攻撃される存在に、名前を与えること。沈黙を当然としないこと。語彙を増やすことは、世界の見え方を変える。すぐに何かが変わるわけではない。しかし、見えなかったものが見えるようになる。その小さな変化が、支配と攻撃の構図に、かすかな亀裂を入れる可能性は、まだ残されている。

私たちにできるのは、その可能性を、手放さずにいることだけなのだろう。

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