記憶の免疫学――戦争という名のウイルスについて
一
二〇二六年の今日から振り返れば、一九四五年八月の敗戦が日本社会に与えた衝撃は、単なる政治的転換点ではなく、一種の苛烈な「初期感染」であったと言える。
あの大戦というウイルスは、日本列島の隅々にまで浸透し、数百万の生命を奪い、国土を灰燼に帰した。しかし、その未曾有の苦痛は、同時に強力な「免疫」を社会の内に形成した。生き残った人々が抱いた、理屈以前の、生理的なまでの「反戦平和感情」こそが、それである。それは知的な確信というよりは、一度高熱に浮かされた身体が獲得した、二度と同じ毒素を浴びることを拒絶しようとする生物学的な防御反応に近いものであった。
戦後、この免疫は、朝鮮戦争という「再感染」の危機においても、冷戦下の緊張やベトナム戦争の影においても、かろうじてその機能を果たしてきた。平和憲法という法的な装置は、いわばこの社会的な免疫を維持するための補助的な投薬のようなものであったと言えるだろう。
二
しかし、免疫学の常識が教えるように、感染の記憶は時間の経過とともに減衰する。抗体価が低下し、かつての苦痛を直接知る細胞(すなわち人間)が消滅していくとき、社会は再び感染に対して脆弱な状態へと回帰する。
今日の事態を端的に定義するならば、「戦争に対する社会的免疫の完全なる消失」である。
一九四五年の記憶を持つ世代が去り、その「語り」を血肉化できない新しい世代が社会の多数を占めるようになった。彼らにとって、戦争はもはや肉体的な痛みではなく、スクリーンの向こう側の視覚情報、あるいは抽象的な論理の遊戯に過ぎない。
かつての反戦平和思想が今日において無力であるのは、それが「理性の言葉」として洗練されすぎた一方で、それを支えていた「痛みの記憶」という土台を失ってしまったからである。免疫のない身体に、かつてと同じウイルスが侵入しようとしている。それも、以前よりもさらに巧妙に変異を遂げた姿で。
三
ここで、われわれが直視すべきは、人間という生物が持つ「自然状態」の性質である。
私はかつて、日本人の行動様式の中に、状況に対する極めて高い適応能力と、それゆえの主体性の欠如を見て取った。しかし、事態はそれ以上に根深いかもしれない。
人間は本質的に攻撃的で、好戦的な側面を抱えた動物である。集団のアイデンティティを維持するために、外部に敵を設定し、それとの闘争に昂揚感を見出す。この「闘争の興奮」もまた、生存に有利に働いた古い本能の一部なのだ。
最も恐ろしいのは、この本能が「道徳」の仮面を被って現れることである。
歴史を紐解けば、母親が息子を戦場へ送り出すとき、そこには悲しみだけでなく、ある種の「崇高な喜び」が混在していた。集団の正義に寄与しているという満足感、自己犠牲の美徳、そして日常の倦怠を突き破る非日常の輝き。ウイルスは、宿主が最も「善いこと」をしていると信じている隙に、その精神を乗っ取るのである。
「息子を喜んで戦争に送り出す」という不条理な情熱は、免疫を欠いた社会において、再び「国民的道徳」として復権しつつあるのではないか。
四
ウイルスとしての戦争は、常に「感情」という受容体を通じて感染する。
不安、憎悪、そして奇妙な正義感。これらは理性の防波堤を容易に乗り越え、人々の意識を均質化していく。かつての免疫が「戦争の悲惨さ」という負の感情に立脚していたのに対し、現在のウイルスは「守るべき誇り」や「敵への制裁」という正の感情を偽装して増殖する。
反戦平和の論理が現代において弱いのは、それが単なる「防御」に終始し、人間の攻撃的本能が提供する「生の充足感」に対抗するだけの強度を持ち得ていないと考えられているからだろう。光線主義者によって、そのように定義されてしまっている。それに対して、反応できていない。
五
では、われわれに術はないのだろうか。
自然免疫が失われたのであれば、われわれは「獲得免疫」としての知性を再構築しなければならない。それは、もはや直接の経験には頼れない。想像力という名の、極めて人工的な抗体である。
他者の痛み、遠く離れた戦場での死、そして自らを煽り立てる正義がもたらす結末。それらを、あたかも自分の皮膚が焼かれるかのように想像すること。これは、生物学的な本能に逆らう、極めて困難な作業である。しかし、人間を他の動物と分かつものが、この「抽象的な想像力によって、直接経験していない苦痛を分かち合う能力」であるとするならば、そこにこそ唯一の希望が残されている。
状況は楽観を許さない。社会は再び熱に浮かされ、津波のような感情の濁流が押し寄せている。われわれが今、為すべきは、その濁流に身を任せて「正義の快楽」に浸ることではない。むしろ、自らの中に潜む「好戦的ウイルス」の兆候を冷静に観察し、言語という名のメスで、それを一つずつ摘出することである。
人間が再び、自らの息子を「喜んで」死地へ送るような野蛮へと退行することを防ぐ唯一の道は、この冷徹な自己観察の持続以外にはないのである。
(了)
