現代日本では、選挙では、政策を選ぶのではなく、人を選ぶ。
地域の小さな王様を選んでいる。
王様は嫌だと思ったはずなのに、小さな王様を選んで、その結果、非常にみっともないことになっている。
だからと言って、直接民主主義で、なんでも具体的問題に直接投票して、多数決で決めるのも、実際の話、問題がある。
間接民主主義は小さな王様を選んでしまう。そしてそれが何世代も続いて、そのようなが若いころから代議士で、当選回数を重ねる。二世三世議員が総理大臣になったりしている。なんだこれ?
当選回数補制限したとすれば、専門的判断が難しい。勉強しただけ、官僚から講義を受けただけで、任期を終わる。
官僚出身者、弁護士関係、議員秘書などが多いと思うが、立法府だから、そのような人たちが専門と言えば専門だから、勢い、そのようなことになる。専門家だろうという安心感はあるだろうが、専門家だからこそ、悪に染まりやすい。むしろ、悪に染まっているから、代議士を目指したいと思う人もいるのだろう。
というような、絶望的な状況に至り、代議士はくじ引きで選んだらいいのではとの意見が出る。
陪審員裁判のように、素人が勉強して、素人なりの判断を下す。長く勤めないで、いつでもフレッシュ。陪審員でさえ時間の都合は難しい。きちんとした仕事をもって、人生計画をしている人が、3年なり4年または6年をくじ引きで任命されても、困るだろう。
しかし常識を忘れないことは制度化できるのではないだろうか。
くじ引きで代議士になったら、利益団体からの利益供与にどっぷりはまってしまう人も出る。しかし人気が短いから、秘密を守れず、ばらしてしまう人もいる。それはそれで透明性につながるのかもしれない。
マンションの自治会の役員を待ちまわりでやっていて、ひどいなあと思うけれど、国会よりはいいのかもしれないと、どっちがひどいか比べたりしている。
困ったものだ。
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「抽選制間接民主主義(抽選制民主主義/ソートクラシー)」への問題意識は、現代の議会制民主主義が抱える「専門性の代償としての世襲化・硬直化」に対する問題提起です。
「小さな王様」の時代を終わらせるために
――抽選制民主主義(ソートクラシー)という処方箋の考察
1. 現代日本における「代表」の機能不全
現代日本の選挙制度は、本来の「政策の選択」という機能を失い、「地域の小さな王様」を選ぶ儀式へと変質している。有権者は、自らの意思を代弁する者ではなく、地域への利益誘導や顔を売ることに長けた名望家を選び続けてきた。
その結果が、二世、三世といった世襲議員の跋扈である。若い頃から「代議士」という職業にのみ従事し、当選回数を重ねることを自己目的化する彼らは、国民の生活実感から乖離した特殊な特権階級を形成している。我々が選んでいるのは、国民の代表ではなく、議会という城に住まう「身分」となってしまった。
2. 「専門性」という名の免罪符とその限界
こうした現状に対し、「任期制限(多選禁止)」を設けるべきだという議論がある。しかし、そこには「専門性」という壁が立ちはだかる。
立法府は本来、法を作る高度な専門組織である。官僚出身者や弁護士、議員秘書といった「法律のプロ」が議席を占めるのは、一見すると合理的だ。しかし、この専門性こそが「悪に染まる」温床ともなる。利権構造に精通し、官僚機構と阿吽の呼吸で動くプロフェッショナルたちは、国民の常識よりも組織の論理を優先するからだ。
一方で、任期を極端に短くすれば、代議士は官僚から講義を受けるだけで任期を終える「素人の集まり」になり、実質的な権力は官僚機構に完全に掌握される。この「専門性と腐敗」のジレンマが、現代民主主義を絶望的な膠着状態に追い込んでいる。
3. 抽選制民主主義(ソートクラシー)の再評価
この閉塞感を打破する劇薬として浮上するのが、古代アテナイでも行われていた「くじ引き(抽選)」による代表選出である。陪審員裁判のように、市民の中から無作為に選ばれた者が、一定期間、国政を担うという発想だ。
抽選制の最大の利点は、それが「フレッシュ」であり続ける点にある。
第一に、選挙運動が不要になるため、特定の利益団体への恩義や世襲という呪縛から解放される。第二に、任期が限定されているため、その場に居座るための腐敗が起こりにくい。たとえ利益供与を受けたとしても、任期が短かければ秘密を守り通すメリットが薄く、むしろ内部告発的な透明性が期待できるかもしれない。
4. 実現への課題:人生の断絶をどう克服するか
もちろん、抽選制には現実的な高いハードルがある。
最も深刻なのは、選ばれた個人の「人生設計」との衝突である。キャリアの絶頂期にある市民が、突然数年間の公務を強制されることは、現代社会において極めて負担が大きい。
マンションの自治会役員ですら「押し付け合い」になる現状を鑑みれば、国家の意思決定という重責をくじ引きで担うことへの心理的・物理的抵抗は計り知れない。
しかし、この「マンションの自治会」という比喩は示唆に富んでいる。自治会はひどく非効率で面倒なものだが、少なくともそこには、国会が失ってしまった「当事者意識」と「生活実感」が存在する。
5. 「常識」を制度化する:ハイブリッド型の模索
解決策は、プロの政治家をすべて排除することではなく、制度の中に「市民の常識」を強制的に組み込むことではないだろうか。
例えば、二院制の一方を「抽選議院」とし、専門家集団であるもう一方の議院を監視・抑制する機能を待たせる。あるいは、特定の重要政策についてのみ、抽選で選ばれた市民会議が決定権を持つ。
専門的な実務は補佐する専門スタッフや官僚が担い、選ばれた市民は「それは我々の感覚からして、本当におかしくないか?」という最後の一線を判断する。これこそが、陪審員制度が法廷で果たしている役割そのものである。
結論
現代の選挙が「小さな王様」の再生産装置と化している以上、我々は「選ぶ」という行為の限界を認めるべき時期に来ている。
「自分たちの中から、誰かが交代でやる」という抽選制の精神は、政治を特権階級の手から引き剥がし、我々の手に取り戻すための唯一の道かもしれない。
「素人の判断」を恐れるよりも、「腐敗したプロの判断」を放置し続けることのほうが、この国にとってははるかに致命的なリスクなのである。
「私の家では、親が教育勅語が大好きで、私も暗唱し、いまでも大好きです。」と公言するような政治家が、一人だけではない、複数人いるのだが、もう、明らかに、国民意識の縮図になっていない。歪んでいる。
これは選挙制度の害悪である。
