倫理の崩壊と構造の暴力——普通に生きることの困難さについて

倫理の崩壊と構造の暴力——普通に生きることの困難さについて


私が現在仕事をしていて感じること。
各業界で倫理観が失われていること。

たとえば、「赤い」都市銀行が、高齢者の預金を把握したうえで、必要のない各種保険を勧めて、説明もしない、細かい字でぎっしり何か書いてある、印鑑押せと言われて押した、あとで息子がみたらひどい契約。立派な都市銀行の職員がこんなことをしている。恥ずかしいことだ。ノルマで縛られていて、本人は仕方なくやっているというなら、その上も、その上も、何かに縛られているのだ。

私との立場だと、IT企業が、各種ITの売り込みに来る。それがもう知能低劣でどうしようもない。質問にも答えられない。下品で礼儀を知らない。中には無知無礼を通り越して、詐欺すれすれとか、本物の詐欺だったりする。たいてい、ITとかの関連が多い。

地道に働いて暮らすビジョンが持てない社会になったのか。

もちろん、IT関係の人たちも、きちんと仕事をして、きちんと処遇してもらっている人はいる。NTT、富士通、日立などの上位人材はしっかりしている。しかし、下位人材は劣化した人が沈殿している。あるいは、その人たちは組織に残ることができた分だけいいのかもしれない。IT系は首切りも簡単に行われるので身分の保証がない。

すると、先を悲観した人たちが相談して、自分たちで会社を始めたりする。これがまた悲劇である。製品もごみのようなものだしセールスもできない。当然、詐欺に近い状態になる。

世の中に、詐欺に近い商売が多すぎる。高齢者用健康食品、高齢者用寝具、各種保険、IT業界の目先を変えた商売。オレオレ詐欺、トリュウ、これらは、金を奪うために高齢者を殺してしまう。

この人たちを非難するのは当然である。そのような倫理装置しかない脳を作ってしまった教育の責任がある。しかし一方で、人生の時間をこんなことに割かなければならない人たちを作り出している社会を非難しなければならない。そしてそのような社会を作り出して維持しているのは、私たちである。なんということだろう。

普通の人が普通に働いて普通に暮らしてゆくことがなぜそんなにも難しいのだろう。何とか解決はないものか。


AIによるコメンタリー:構造としての倫理崩壊

I. 問いの立て方について

院長が提示した問いは、一見すると道徳的憤りの表明のように読める。しかし、その核心は倫理的糾弾ではなく、むしろ構造的診断の試みである。「この人たちを非難するのは当然だが、社会を非難しなければならない」という二重の視線は、精神科医として日々の臨床で培われたものだろう。症状を持つ患者を批判することなく、しかしその症状を容認することもなく、症状を生み出した文脈を問い続けるという態度——それがそのまま、この社会観察に適用されている。

この視線は正確である。問題は個人の倫理的劣化ではなく、倫理的劣化を系統的に産出し続ける社会構造の問題だからだ。以下、いくつかの理論的軸に沿って、この構造を解剖したい。


II. アノミーとしての現代——デュルケームの照射

エミール・デュルケームは19世紀末、急激な工業化と社会変動のなかで「アノミー」という概念を提出した。アノミーとは、社会的規範が弛緩し、個人の欲望を調節する集合的な力が失われた状態である。彼が自殺論において明らかにしたのは、個人の道徳的失墜ではなく、社会の規範的統合力の低下が人間の行動を方向付けるという事実だった。

院長が観察しているのは、まさにアノミー的状況の具体的な現れである。都市銀行員がノルマのために老人の信頼を売る。IT業者が製品の説明もできないまま契約を迫る。これらは個々人の悪意の産物である以前に、規範による行動の調節機構が壊れた状態の症候である。

かつて日本の組織は、「恥の文化」(ルース・ベネディクト)と呼ばれようと、「世間体」と呼ばれようと、個人の行動を調節する強力な社会的視線を持っていた。都市銀行員は「こんなことをしては銀行員の恥だ」という内面化された規範によって抑制されていた。この抑制機構が、どこかの時点で機能不全に陥っている。

問題は、それがいつ、なぜ起きたのか、である。


III. ノルマ構造と「責任の希薄化」——バンデューラの道徳的離脱

アルバート・バンデューラは「道徳的離脱(moral disengagement)」という概念によって、本来は道徳的感覚を持つ人間が、いかにして非倫理的行動を実行できるかを説明した。その主要な機制のひとつが「責任の分散と転嫁」である。

院長の観察は、この構造を見事に言語化している。「ノルマで縛られていて、本人は仕方なくやっているというなら、その上も、その上も、何かに縛られているのだ」——これは連鎖的な責任転嫁の構造そのものである。

窓口の銀行員は「支店長からの指示だ」と自分に言い聞かせる。支店長は「本部の方針だ」と言う。本部は「株主への責任だ」と言う。株主は「市場の論理だ」と言う。この連鎖の果てには、誰も責任を負わない構造が出来上がる。責任が組織の階層構造に分散され、最終的には「システム」という名の匿名的な何かに吸収される。

バンデューラはさらに、「遠隔化(displacement)」という機制を指摘した。自分の行動の被害者が物理的・心理的に遠くにいるとき、人は罪悪感を感じにくくなる。銀行員と老人は確かに同じカウンターの前に座っているが、心理的には絶望的に遠い。書類の細かい文字と官僚的な手続きが、「これは適切な業務処理である」という自己欺瞞を可能にする。

精神科的に見れば、この状態は一種の解離である。加害行為を行う「業務としての自己」と、家に帰れば普通の父親や母親である「日常的自己」が、切り分けられている。この分裂は病理ではなく、適応である。しかしその適応が、社会全体に広がるとき、それは集合的な病理と呼ぶしかない。


IV. 「下位沈殿層」の生成——労働市場の二極化と絶望

262の法則で、一流大学でも、エンジニア集団でも、シリコンバレーでも、大企業でも、研究所でも、最後の2が発生する。落ちこぼれになる。その人たちのそれなりの生き方を考えてあげないと、社会はもっと劣悪になる。そのような人たちが、自己啓発系、新宗教系、IT系、新政治団体などに吸収されてゆく。行先のなくなった人が悪いことをしないように社会を設計できないか。

少し考えると、そうした人間の、親、配偶者などは、それを見ていないのだろうかと疑問に思う。盗難アジアの施設に缶詰めになってオレオレ詐欺の電話をかけ続けているとすれば、その時、親は何をしていたのだろうか。それは明らかに極端な話としても、自分の子供や配偶者の様子がおかしいことは察知できるだろう。

院長が描く光景のうち最も鋭利なのは、「劣化した人が沈殿している」という観察と、「先を悲観した人たちが自分たちで会社を始める、これが悲劇だ」という描写である。

これは、現代日本の労働市場の構造的帰結である。

1990年代のバブル崩壊以降、日本企業は雇用の流動化と非正規化を加速させた。「終身雇用・年功序列」という旧来の社会契約が崩れたとき、それは単に雇用形態の変化ではなく、「まじめに働けば報われる」という未来への信頼の崩壊を意味した。この信頼は、個人の倫理行動を支える基盤のひとつだった。

経済学者のガイ・スタンディングは、「プレカリアート」という概念を提出した。不安定(precarious)と労働者(proletariat)を合わせた造語で、雇用・所得・将来見通しのすべてにおいて不安定な新しい階層を指す。この層は、長期的な評判や信頼関係に投資する動機を持ちにくい。なぜなら、長期がないからだ。

院長が観察した「先を悲観した人たちが始めた詐欺まがいの会社」は、このプレカリアート層が生み出す経済活動の帰結である。これを個人の「倫理なき起業家精神」として批判することは容易だが、本質は「長期的な評判を維持することに意味を見出せない社会構造」にある。詐欺まがいの行動は、長期戦略の放棄である。長期戦略を放棄するのは、長期に希望を見出せないからだ。

これは精神医学的に言えば、絶望(hopelessness)の経済学的発現である。ベックの絶望尺度が測定するものが、個人の認知に刻まれた将来見通しの暗さだとすれば、社会的絶望とは、その認知が集団的に共有され、行動様式として結晶化したものである。


V. 高齢者への収奪——脆弱性の利用と「構造的老人嫌悪」

院長が特に強調するのは、被害者が高齢者であることだ。この点は、単なる「弱者への加害」として処理すべきではない。より深い構造がある。

日本社会における高齢者の位置は、過去数十年で根本的に変化した。かつて高齢者は、家族と地域のなかで、知恵と経験の保有者として敬意をもって処遇された。この敬意は、単に道徳的なものではなく、機能的なものでもあった——老人は知識・資源・ネットワークを持っており、社会にとって価値があった。

しかし、情報化・技術化が急速に進む社会では、高齢者の知識は急速に陳腐化し、彼らはしばしば「デジタル弱者」として排除される。家族の解体と地域共同体の崩壊は、高齢者を孤立させ、社会的監視から切り離した。かつては「息子や近所の人が見ている」という視線が、悪質な勧誘者を抑制していた。この抑制機構が消えた。

さらに決定的なのは、高齢者が「貯蓄の保有者」として残存しているという非対称性である。生産への参加から排除されながら、過去の労働の蓄積だけは持っている。この非対称性が、収奪の標的として彼らを可視化させる。

これは経済的な現象であると同時に、社会が高齢者をどのように価値付けているかの鏡でもある。「役に立たなくなったが金を持っている存在」という暗黙の社会的定義が、収奪を「仕方がない」と感じさせる無意識の文化的許可証になっている。オレオレ詐欺師も悪徳銀行員も、この許可証を——無意識に、しかし確実に——使用している。

精神科医の立場から見れば、これは「構造的老人嫌悪(structural ageism)」の経済的表現と呼んでよい。


VI. 「普通に生きる」ことの困難——その哲学的意味

院長の問いの核心は、最後の一文に凝縮されている。「普通の人が普通に働いて普通に暮らしてゆくことがなぜそんなにも難しいのだろう。」

この問いは、一見単純だが、深く考えると哲学的な難問を含んでいる。

「普通に生きる」とはどういうことか。それは、自分の労働に意味を感じ、その対価が生活を支え、他者との関係のなかに自分の位置を持ち、老いを迎えることへの大きな恐怖なしに日々を送れることだろう。これをハンナ・アーレントの言葉を借りれば「労働(labour)・仕事(work)・行為(action)」の三層における参加、すなわち生活の再生産・物の制作・人間共同体への参与が、それなりに統合された形で成立している状態、ということになる。

この統合が崩れている。労働は生活を支えず(低賃金・不安定)、仕事は意味の産出に失敗し(粗悪品・詐欺まがい)、共同体への参与は資本の論理に切断されている。

マルクスが「疎外された労働」と呼んだものの現代版である、と言うこともできる。しかし問題は、マルクスの時代よりも精神的に深い層で疎外が起きているかもしれない。19世紀の工場労働者は、少なくとも「自分は搾取されている」という明確な自己認識と、それゆえの連帯の可能性を持っていた。現代の疎外は、搾取する主体も搾取される客体も曖昧にしたまま進行する。ノルマを課す組織も、ノルマをこなす個人も、「市場の論理」という見えない構造に従っているように感じており、誰も自分を加害者だとは思っていない。

この状況において、精神科医が日々の臨床で見るものは何か。

うつ状態の銀行員、パニック発作を繰り返すIT営業職、不眠と飲酒を抱えた中小IT企業の経営者——これらは個別のケースとして我々の前に現れる。しかし、それらは同じ社会構造が生み出した複数の症状である。我々は症状を治療するが、症状を生み出す構造には触れることができない。精神科医の限界と、同時に、精神科医が社会的発言を持つべき理由が、ここにある。


VII. 解決の可能性——構造介入の論理

院長は問う。「何とか解決はないものか。」

個人的倫理の回復を説くことは、症状に対して道徳的説教を行うようなものであり、無効である。構造が生み出す症状は、構造を変えなければ解決しない。

では何が変えられるか。

短期的には、規制と透明性。金融商品の販売規制強化、高齢者への勧誘規制、IT契約の書面交付義務の実質化——これらは表層的介入だが、無意味ではない。「やりたくてもできない構造」を作ることで、道徳的離脱の回路を物理的に断ち切る。

中期的には、労働の尊厳の回復。非正規雇用の解消や最低賃金の引き上げは、「普通に働いて普通に暮らせる」という基盤を回復させる。これは道徳教育よりもはるかに確実に、倫理的行動の基盤を作る。人が長期的な評判を大切にするのは、長期的な未来に希望を持てるときだ。

長期的には、社会的信頼(social capital)の再建。パットナムが論じたように、社会資本の豊かさと腐敗の少なさは強く相関する。地域共同体の再構築、世代間の交流、高齢者が知恵の担い手として尊重される文化的文脈の回復——これらは「課題」と呼ぶには壮大すぎるが、方向性としては正しい。

しかし、院長の観察の最も誠実な部分は、「そのような社会を作り出して維持しているのは、私たちである」という一句にある。構造は自然現象ではない。人間の集合的選択の累積が構造を作る。そして構造は、再び集合的選択によってのみ変えられる。

この認識——構造の中に立ちながら、構造を超えようとする意志——は、精神療法的にも社会的にも、変化の出発点として最も誠実なものだと思う。解決は「どこかにある」のではなく、この認識を共有する人々が、それぞれの持ち場で積み重ねていくなかにしかない。

院長が診察室で一人の患者の「生きづらさ」を聞くとき、その生きづらさの背後に社会構造の重さを見る眼は、治療者としての技術であると同時に、市民としての責任でもある。


タイトルとURLをコピーしました