昔からの議論で、
仮に、人格水準低下という用語を使うとして、
知性、感情、その他多面において、躁状態もうつ状態も低下するのではないか。
また、躁状態では、双極Ⅱ型のように、機嫌よく過ごしたり、場合によっては業績を上げたりとか、人格水準が上昇していると見える場合もある。
しかしそのことの考慮したうえで、子細に観察すれば、その個人の通常状態に比較して、やはり人格水準低下がみられるのではないかと言われている。
そして、同一個人内で、躁状態とうつ状態のどちらが人格水準低下が大きいかと言えば、躁状態の場合が人格水準低下が大きいと言われる。
さらに、病相を反復するごとに、人格水準低下が大きくなる傾向があると指摘されている。
これは、クレペリンの頃、躁うつ病は循環病であり、病相期が終わればすっかり元に戻ると考えられていたが、実は、躁うつ病も病相期を反復するごとに、長期崩壊傾向を呈すると観察されていた。
これは、シゾフレニーとバイポーラーのFinal Commmon Pathway は人格の全体的水準低下であるとの、 単一精神病説(独:Einheitspsychose)につながるものである。
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同一個人内で、躁状態とうつ状態のどちらが人格水準低下が大きいかと言えば、躁状態の場合が人格水準低下が大きいと言われる
この辺りについて観察はあるか。
躁状態における人格水準低下の優位性について
この問いは、臨床的に非常に鋭い観察点を含んでいる。私なりの考察を以下に述べる。
一、なぜ躁状態のほうが人格水準低下が大きく見えるのか――現象学的考察
うつ状態においては、患者は自己の変化に苦しんでいる。すなわち、自己観察能力(自己モニタリング)は相対的に保たれており、「以前の自分とは違う」という感覚が明確に存在する。この苦悩そのものが、人格の核心部分の一定の保存を示唆している。
ところが躁状態では、この自己観察能力そのものが障害される。
患者は自己の変化を変化として認識しない。むしろ「今こそ本当の自分だ」「以前は抑圧されていた」という確信を持つ。これはただの否認ではなく、自己参照的認知の構造的変容である。
人格水準の低下を測る一つの基準が「その個人の通常状態との乖離に対する認識能力」だとすれば、躁状態ではその基準軸そのものが移動してしまっている。うつ状態では基準軸は保たれたまま現実の自己が落下するが、躁状態では基準軸ごと浮上してしまい、乖離が見えなくなる。
これは、ジャクソン的な溶解の観点からも整理できる。高次の統制機能(自己批判、衝動抑制、時間的展望、他者視点の取得)は、まさに最も高次の皮質機能であり、溶解において最初に失われる。躁状態ではこれらが優先的に障害されるため、失われているものが見えないという構造になる。うつ状態では、高次機能は一定程度残存しつつも、駆動力・エネルギーが失われる。どちらが人格の「核」により深く触れているかと言えば、認識の枠組みそのものを変容させる躁状態のほうが、根本的な意味での水準低下が大きいと言える。
二、具体的な臨床観察の次元ごとの比較
知性の水準について
躁状態では、思考は加速し、連合は豊富で、一見して知性の昂進に見える。しかし仔細に観察すれば、抽象化能力と論理的一貫性が損なわれている。観念奔逸は連想の豊富さであって、論証の精密さではない。概念の輪郭がぼやけ、論理の跳躍が多くなり、批判的思考が後退する。
これに対してうつ状態では、思考は遅滞するが、論理の構造自体は比較的保たれる。思考制止は量的な問題であり、質的な歪曲とは異なる。うつ状態の患者の論述は遅く、乏しく、悲観的であるが、しばしば内的一貫性を保っている。
感情の水準について
感情の精妙さ、文脈への適合性、微細な情動の調整能力という観点では、躁状態のほうが著しく低下している。躁状態の感情は強烈だが粗雑であり、易刺激性・高揚・怒りが混在し、状況に応じた細やかな感情調整ができない。
うつ状態の感情は乏しく、あるいは苦悩に満ちているが、対人関係の文脈への応答性はある程度保たれていることが多い。感情の「量」が減っても、「質」の精妙さは躁状態ほど損なわれていないことが多い。
倫理的・社会的判断について
ここが最も鮮明な差異が出る領域であろう。躁状態では、倫理的抑制の解除が生じる。これは単なる脱抑制ではなく、倫理的判断の基準軸そのものの変容である。「なぜそれが問題なのか理解できない」という状態であり、知的には理解できるかもしれないが、感じられない。
うつ状態では倫理的抑制はむしろ過剰になることが多く、過度の罪責感・自己批判が前景に出る。これは人格の倫理的核が過剰に作動している状態であり、水準低下とは異なる方向の変容と言える。
三、「業績を上げる」という現象の解釈
先生が挙げられた双極Ⅱ型の軽躁状態における業績向上という現象は、この議論において重要な試金石である。
私の考えでは、これは特定の認知的・創造的機能の一時的な解放であって、人格水準の全体的上昇ではない。
正常状態では、人格の高次機能(自己批判、慎重さ、疲労感、完璧主義的抑制)が創造的産出を抑制していることがある。軽躁状態ではこれらの抑制が部分的に解除されることで、産出量が増し、社会的評価が上がることがある。しかしこれは、高次機能の解除による一部機能の見かけ上の亢進であり、人格全体の水準上昇とは本質的に異なる。
アナロジーとして言えば、前頭葉が損傷した患者がある種の検査で「正常者より高得点」を出す場合があることと構造的に類似している。抑制の除去が産出を増やすことと、水準が上がることは別の事態である。
さらに決定的な点は、その「業績」の内容の質的検討である。躁状態・軽躁状態での創造的産出を後から見返すと、しばしば連想の豊富さはあるが、論理的精緻さ・批判的修正・完成度において通常状態に劣ることが、当人も含めて確認されることが多い。
四、Einheitspsychoseへの接続における意味
単一精神病説の観点からこの観察を位置づけると、興味深い論点が浮かぶ。
クレペリンが躁うつ病と早発性痴呆を二分したときの根拠の一つは、まさに人格水準の長期的保存の有無であった。しかし先生が挙げられているように、躁うつ病も病相反復により人格水準の漸進的低下を呈するとすれば、この二分法の根拠は連続性の中に溶解していく。
その際に注目すべきは、躁状態での人格水準低下が大きいという観察が、病相反復による累積的損傷の主要な担い手が躁状態であるという仮説を示唆する点である。うつ状態は苦痛だが、脳の組織的・機能的再編という観点では、躁状態のほうがより大きな嵐を内部にもたらしている可能性がある。
これはグルタミン酸興奮毒性、神経炎症、睡眠剥奪による神経損傷といった神経生物学的仮説とも接続できる。躁状態における睡眠の著しい減少、代謝の亢進、ストレス応答系の過活動が、累積的な神経回路の劣化をもたらすという観点は、病相反復による人格水準低下という臨床観察と整合している。
五、私見の総括
「同一個人内で躁状態のほうがうつ状態より人格水準低下が大きい」という臨床観察は、以下の複数の論拠から支持されると考える。
第一に、自己観察能力の障害が躁状態でより深い。人格水準を測る鏡そのものが歪むため、水準低下が見えにくいが、それゆえにより根本的である。
第二に、倫理的判断・批判的思考・感情の精妙さという、人格の最高次機能が躁状態でより選択的に障害される。
第三に、長期的な累積損傷の主役が躁状態である可能性。これは病相反復による人格水準低下の漸進性と整合する。
そして、この観察が持つ理論的意義は、単に症状論的比較にとどまらず、人格水準低下のメカニズムの中心に、エネルギーの欠乏ではなく統制の崩壊があることを示唆する点にある。うつ病は欠乏の病であり、躁病は崩壊の病である。そして崩壊のほうが、欠乏よりも人格の構造的損傷として深い——これがこの臨床観察の含意ではないかと考える。
