誤差修正知性によって美を考えてみた。
音楽の場合、二通りがある。
一つは、音自体が物理的エネルギーとして人間の感覚に与える影響。原始的なリズムとか、覚えやすいメロディとか。規則正しい屋根からのしずくの音とか。予想通りの音楽。
もう一つは、作曲家や演奏者が、聴く者に問いかける音楽で、ここでこうしたら気持ちいいでしょうとか、ここでこう来ると思ったでしょう、でもこっちがきれいだよねとか、つまり、予想を少し裏切って、新しい展開を提示するもの。それもいいねとなれば、次からは、予想できるようになり、心地よく進行する。こちらは、最初は予想を裏切るが、次からは心地よくなる。つまり、脳内の世界モデルが少しだけ修正された。これは誤差修正モデルの一つである。
世界内モデルの通りの音楽と、世界内モデルの修正を迫る音楽がある。
前者は、思った通りだから美しい。後者は、修正した後に、予想通りになるから美しい。
絵画の場合はどうか。
モネは、現実の睡蓮の沼と比較すると、少しの情報しか描いていない。鑑賞する人は、それでも十分に、モネの頭の中にある睡蓮の沼を感覚できる。モネは、自分の脳の中の睡蓮の沼を正確に描いた。それは他人の脳の世界モデルへの刺激として、必要十分である。モネは何が必要十分かを証明した。実際に見る色彩と光よりもかなり少ないが、脳内モデルには十分な情報。
マティスはモネとは別の仕方で、脳内世界モデルへの信号として必要十分を提示した。単純化、リズム、その面から、必要十分を示した。
誤差修正知性としては、予想が正当に評価されて心地よい。
ピカソの場合は、かなり違う。視覚世界のパラダイムチェンジを求められる。最初は戸惑うが、理屈を聴いて、だんだん納得する。それはピカソの提示する世界と、自分の世界モデルとの誤差として検出される。自分の世界モデルを修正したのちは、ピカソの絵が美しく心地よく感じる。
例えば、ピカソが書いた一筆書きのような素朴な鳩の絵がある。これはただ昔通りの美しい絵だ。世界モデルの修正を迫るものではない。そのような技術はすでに獲得したのちの、観念的なパラダイムチェンジを提示した。このコンセプトは見るものすべてに適用可能であるから、多産だった。
つまり、世界内モデル通りの絵がモネとマティスであり、世界内モデルの修正を迫るのがピカソである。
前者は世界内モデルを肯定してくれるから美しい。後者は世界内モデルの修正を迫り、修正したのちには、予想とピカソの提出する現実が一致するから、美しい。
芸術家が提示する新しいコンセプトが広く追認される、つまり、多くの人の世界内モデルの修正が完了する、そうなる前は、ベートーベンも当時は前衛音楽だった。芸術家は常に常識に対しての誤差を提出している。
現代芸術は、コンセプトの展示会である。絵画も、音楽も。ただ、工芸の世界だけは、コンセプトよりも、技術が競われている。どれだけ精密か、どれだけの回数反復するか、それはコンセプトの次元の話ではなくて、肉体的反復の話である。工芸は明らかに強迫的世界だ。
人間の祈りというものが、宗教とも、芸術とも関係している。祈りの形として音楽があり、絵画があったと思う。もちろん、彫刻も踊りも。その場合は、水平方向の思考感情だけではなく、垂直方向にもジャンプする。世俗の感情と、神との対話の感情は水平と垂直の違いである。
祈りがあるということは、現実と、希望に誤差があるはずだ。誤差を検出していて、世界モデルを書き換えるには苦痛が大きすぎるから、現実を変更したくて、祈るのだろう。だから祈りは誤差とかかわりがある。
現実と希望の誤差を修正するには、現実場面で動く、つまり、水平方向と、神と語る、つまり垂直方向とがあり、さらに別の形式として強迫的反復がある。反復もまた宗教に深くかかわりがある。水平方向の動きは病理的には躁うつの動きである。垂直方向の動きはシゾフレニーの動きである。反復強迫は、反復を通して現実を変えたいと願い、また、反復を通して神と通話したいと願う動きである。
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「誤差修正知性」という視点から見ると、私たちが「美しい」と感じる経験は、脳が持つ「世界モデル」(=こうあるべきという予測)と、実際に知覚するものとの関係によって、二つのタイプに分けられるのではないか。本稿では、この仮説をもとに、音楽、絵画、そして芸術の歴史、さらには祈りや宗教に至るまで、美と人間の認知の関係を探ってみたい。
1. 音楽における二つの美
私たちが音楽に美しさを感じる時、そこには大きく分けて二つのメカニズムが働いているように思う。
① 予測を満たす音楽(世界モデル肯定的)
一つは、雨だれの音のように規則正しいリズムや、一度聴いたら忘れられないような覚えやすいメロディーを持つ音楽だ。これらの音楽は、私たちの脳が無意識に予測する「次はこうなるだろう」という期待を、裏切らずに満たしてくれる。予測通りの展開は、脳に安心感と心地よさをもたらす。これは、既存の世界モデルが正しく機能しているという「肯定」の感覚であり、そこに美が生まれる。
② 予測を更新する音楽(世界モデル修正的)
もう一つは、聴き手に「問いかける」ような音楽だ。例えば、名曲とされる楽曲の多くは、単に予測通りの展開をするだけではない。ここでこう来るだろうという予想を、あえて美しい方向に少しだけ裏切る。そして、その新しい展開が「なるほど、それもいいね」と納得できた時、私たちの脳内の世界モデルはわずかに更新され、その音楽の「次の展開」を予測できるようになる。
最初は裏切られた驚きがあるが、その後は予測通りに進行する心地よさが訪れる。この一連のプロセス——「予測の誤差」を検出し、モデルを修正し、再び予測可能な状態になる——は、脳の学習そのものであり、その快感が「美」として感じられるのだ。
2. 絵画における三つのアプローチ
この視点は絵画にも適用できる。画家がキャンバスに描くものは、決して現実そのものではなく、画家の脳内にある世界モデルを元にした「信号」である。鑑賞者はその信号を受け取り、自身の世界モデルの中でそれを解釈する。
① 印象派 モネのアプローチ:必要十分な信号
モネの睡蓮の絵は、現実の沼と比べると、色彩や形態の情報量ははるかに少ない。しかし、私たちはそれを見て「本物の睡蓮の沼を見ているかのようだ」と感じる。つまりモネは、鑑賞者の脳内にある「睡蓮の沼」の世界モデルを刺激するために、何が「必要十分な情報」であるかを突き止めたと言える。現実よりも少ない情報で、脳内モデルを完全に起動させる。鑑賞者は「思った通りの睡蓮だ」という予測の一致による美しさを味わう。
② 野獣派 マティスのアプローチ:別の形での必要十分
マティスもまた、必要十分な情報を追求した点ではモネと同じだ。しかし、その手法は異なる。彼は形態の単純化や色彩のリズムといった要素を強調することで、現実とは異なる形で、鑑賞者の脳内に美の感覚を直接呼び覚ました。こちらも、モネと同じく、提示された世界が(現実とは違っても)作品として一貫していれば、鑑賞者はその作品世界のルールに従って予測を働かせることができ、心地よさを感じる。
③ キュビスム ピカソのアプローチ:世界モデルのパラダイムシフト
ピカソの絵画、特にキュビスムの作品は、最初に見た時、ほとんどの人が戸惑う。なぜなら、それは私たちが普段使っている「物は一つの視点から見える」という世界モデルを完全に破壊するものだからだ。しかし、そこに「一つの物を多角的な視点から同時に描く」というコンセプト(理屈)を知ると、徐々に納得が生まれる。私たちは、ピカソの作品を見るための新しい世界モデルを獲得するのだ。そして、その新しいモデルを使って作品を鑑賞すると、初めてその造形のリズムや美しさが理解できるようになる。ピカソは私たちに世界モデルの修正を迫り、その修正が完了した先にある美を提示したのである。
もちろん、ピカソが描いた一筆書きのシンプルな鳩の絵のように、誰もが美しいと感じる作品もある。彼は従来の美を描く技術も持った上で、あえて新しいコンセプトを提示し続けた。そのコンセプトは多くの芸術家に影響を与え、後の世代の世界モデルそのものを変えていった。
3. 芸術の歴史と現代アート
このように考えると、芸術の歴史とは、既存の世界モデルを肯定する作品と、その修正を迫る作品がせめぎ合いながら、徐々に私たちの美の概念そのものを拡張してきたプロセスと言える。ベートーヴェンの音楽は当時「前衛的」と言われたが、今ではクラシックの範疇だ。つまり、彼が提示した世界モデルの修正は、社会全体に共有されるに至ったのである。
現代アートは、この傾向が極度に進んだものだ。絵画や音楽を含め、現代アートの多くは「コンセプト(概念)」そのものを鑑賞する場となっている。一方で、工芸の世界は少し違う。そこで評価されるのは、新しいコンセプトよりも、どれだけ精密な技術を反復できるかという「強迫的なまでの技の追求」である。これは、より肉体的で、反復そのものに美を見出す、別の次元の美意識と言えるだろう。
4. 祈りと強迫的反復:芸術の源泉
ここで、芸術のより根源的なところにある「祈り」について考えてみたい。音楽も絵画も、その起源には人間の祈りの行為があったのではないか。
祈りが生まれる時、そこには必ず「現実」と「希望」の間に誤差(ギャップ)があるはずだ。病気が治ってほしい、大切な人が無事でいてほしい——その願いと現実の間の誤差を前に、私たちはどうすればいいのか。一つは、現実世界で実際に行動して問題を解決することだ(水平方向の動き)。もう一つは、神などの超越的存在に語りかけ、現実の変更を願うことだ(垂直方向の動き)。
そして、もう一つ、興味深い方法がある。それが「強迫的反復」だ。同じ祈りを何度も唱える、同じ動作を繰り返す。これは一見非合理的に見える。しかし、反復には、行為を安定させ、変数をそぎ落とし、純粋な形に近づける力がある。反復を通して、人は現実を変えたいと願い、あるいは反復そのものが神との通話回路になると信じたのかもしれない。
この視点から見ると、工芸における技術の反復も、祈りにおける念仏の反復も、同じ人間の根源的な行動様式に根ざしている可能性が見えてくる。水平方向の活動(躁うつ的な現実行動)、垂直方向の活動(統合失調症的な神との対話)、そして反復強迫的な活動。これらは時に病理として語られるが、同時に、芸術や宗教という人間の最も深い営みを生み出す原動力でもあるのだ。
私たちは「美しい」と感じる時、無意識のうちに自分の脳内にある世界モデルと向き合っている。それは、馴染み深い世界に安らぐか、新しい世界を学ぶ喜びか、あるいは反復という行為そのものに根源的な何かを感じるか。美の経験は、私たちがこの世界と、そして自分自身の内面と対話する、最も豊かなコミュニケーションの一つなのかもしれない。
