第十七章 プロセス神学・開かれた神学——神の変化可能性(20世紀〜現在)
- 「神は本当に変わらないのか」
- アルフレッド・ノース・ホワイトヘッド——プロセス神学の哲学的基礎
- チャールズ・ハーツホーン——プロセス神学の神学的展開
- プロセス神学の主要な神学者たち
- プロセス神学への批判——神学的問題の整理
- 「開かれた神学(Open Theism)」——福音主義内部からの挑戦
- 「開かれた神学」の核心主張
- 「開かれた神学」への批判
- 「中間知(Middle Knowledge)」——古典的有神論の修正的試み
- カトリック神学との深い対話——「神の苦しみ(Divine Suffering)」
- 「関係の神(Relational God)」——現代的統合
- プロセス神学と宗教間対話——「唯一性の問い」
- 「悪の問題」への応答——プロセス神学の最強の主張
- この章から学ぶこと——「哲学的誠実さと聖書的忠実さの緊張」
「神は本当に変わらないのか」
アウシュヴィッツの後。広島の後。
神学者たちは問うた——「神はこれらの出来事を「知って」いたか。知っていたなら、なぜ「止めなかった」か。「全知全能の神」という概念は、20世紀の暴力の前で維持できるか。」
この問いは「悪の問題(Theodicy)」という古い問いだ——しかし20世紀の規模の悪は、この問いに新しい緊急性を与えた。
ある神学者たちは、この問いへの応答として——**「神についての伝統的な概念そのものを問い直す」**という方向に向かった。
「神は全知全能で不変だ」——これは本当に聖書的か。それとも「ギリシア哲学(プラトン・アリストテレス)の影響を受けた神概念」が「聖書の神」に投影されたのではないか。
「古典的有神論(Classical Theism)」への挑戦——
ギリシア哲学から来た神の属性——
不変性(Immutability)——神は変化しない。 不動性(Impassibility)——神は感情に動かされない。 永遠性(Eternity)——神は時間を超えた存在だ。 全知(Omniscience)——神はすべてを知る——過去・現在・未来を含めて。 全能(Omnipotence)——神はすべてを行える。
これらの属性が本当に「聖書の神」を記述しているか——
創世記6:6——「主は地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた。」 出エジプト記32:14——「主は、御自分の民に下そうと言われた災いを思い直された。」 ヨナ書3:10——「神はモーセに「あなたを煩わせよう」と言われたが、思い直された。」
「神は後悔し・思い直す」——これは「不変・不動・全知の神」と一致するか。
この問いへの二つの応答が——「プロセス神学(Process Theology)」と「開かれた神学(Open Theism)」だ。
カトリック神学との比較から始めよう——カトリックはトマス・アクィナスの「純粋現実性(Pure Actuality)」という神概念を通じて「古典的有神論」を維持してきた(第七章)。プロセス神学はこのトマス的神観への直接の哲学的挑戦だ。カトリック神学者の中にもプロセス神学と対話する者が現れた——しかし「教導職(Magisterium)」はプロセス神学を承認していない。「開かれた神学」はプロテスタント内部の問いとして展開されたが、カトリックの「神の摂理と人間の自由の関係」という問いと深く共鳴する。
アルフレッド・ノース・ホワイトヘッド——プロセス神学の哲学的基礎
**アルフレッド・ノース・ホワイトヘッド(1861〜1947年)**はイギリス生まれの数学者・哲学者。バートランド・ラッセルとともに「プリンキピア・マテマティカ(Principia Mathematica)」を著し、数学の論理的基礎を研究した。後にハーバード大学で形而上学的宇宙論を発展させた。
「過程と実在(Process and Reality、1929年)」——ホワイトヘッドの主著。「有機体の哲学(Philosophy of Organism)」と呼ばれる宇宙論を展開した。
ホワイトヘッドの根本的転換——「実在の基本単位は「実体(Substance)」ではなく「出来事・過程(Events / Processes)」だ。」
アリストテレス以来の西洋形而上学は「実体(Substance)」を存在の基本単位として来た——「変化しない本質を持つ「もの」が存在する。」
ホワイトヘッドは逆転した——「存在するものはすべて「過程(Process)」だ。「なること(Becoming)」が「あること(Being)」より根本的だ。」
「現実的出来事(Actual Occasions)」——宇宙を構成する最小単位は「瞬間的な体験の出来事」だ。これらの出来事は「過去から受け取り(Prehension)」「未来へ向けて創造する」という構造を持つ。
「神(God)」の役割——ホワイトヘッドの神は「古典的有神論の神(超越的・全能・不変)」とは根本的に異なる。
「神には二つの性質がある——」
「原初的性質(Primordial Nature)」——神はすべての可能性(永遠的客体:Eternal Objects)を把握している。神は宇宙のすべての「創造的可能性の源泉(Divine Lure)」だ。
「結果的性質(Consequent Nature)」——神は世界のすべての出来事を「受け取る(Prehend)」——世界の体験が神に「影響を与える」。神は世界とともに変化し成長する。
「神は世界を「強制(Coerce)」するのではなく「誘惑・説得(Lure / Persuade)」する。」——これが「古典的有神論の全能(Omnipotence)」との最大の違いだ。
チャールズ・ハーツホーン——プロセス神学の神学的展開
**チャールズ・ハーツホーン(1897〜2000年)**はホワイトヘッドの哲学を神学的に発展させた、最初の系統的プロセス神学者だ。103歳まで生きた哲学者として知られる。
「双極的有神論(Dipolar Theism)」——ハーツホーンの神観。
神には「二つの極(Poles)」がある——
「抽象的極(Abstract Pole)」——神の変化しない属性——存在そのもの・善性・愛。
「具体的極(Concrete Pole)」——神の変化する側面——世界の出来事に応答して変化する神の「具体的な状態」。
「神は「抽象的に」完全だが——「具体的に」はまだ成長している。」
これは「古典的有神論の不変の神」でも「完全に世界に依存する神」でもない——「神は変化しない本質的属性を持ちながら、世界との関係において動的に変化する。」
「感情に動かされる神(Passible God)」——ハーツホーンはギリシア哲学的「不動の神(impassible God)」を拒否した——「神は世界の苦しみに「共苦(Compassion)」できる。アウシュヴィッツの苦しみは神に影響を与える。」
プロセス神学の主要な神学者たち
ホワイトヘッド・ハーツホーンの哲学を神学に応用した主要な人物たちを見てみよう。
ジョン・B・コブ・ジュニア
**ジョン・B・コブ・ジュニア(1925年〜)**はプロセス神学の最も多産な神学者の一つだ。
「キリスト・聖霊の生の過程神学(Christ in a Pluralistic Age、1975年)」——「キリストはすべての存在における「創造的変容へのロゴス(Logos)」として理解できる——「ヨハネ1章のロゴス」の過程神学的再解釈。」
「生態神学(Ecological Theology)」——コブはプロセス神学を「環境倫理・エコロジー」と結びつけた——「神は世界とともに存在する。世界の生命体は「神の身体(Body of God)」の一部——したがって環境破壊は「神への傷つけ」だ。」
「経済神学」——晩年のコブは「成長依存型経済」への批判として「定常経済(Steady-State Economy)」への神学的支持を展開した——「「永遠の成長」という経済モデルは「過程(Process)」の本質を誤解している。」
サリー・マクファーグ——「神の身体としての世界」
**サリー・マクファーグ(1933〜2019年)**はプロセス神学とフェミニスト神学を結びつけた。
「神の身体(The Body of God:An Ecological Theology、1993年)」——「世界は「神の身体(Body of God)」だ——神は世界から分離した超越的存在ではなく、世界と深く「内在(Immanent)」している。世界の苦しみは「神の苦しみ」だ。」
「神を「父(Father)」と呼ぶ「父権的言語」への批判——「母(Mother)・愛人(Lover)・友(Friend)」という代替的メタファーの神学的根拠。」
カトリック神学との対話と緊張——マクファーグの「神の身体としての世界」はカトリックの「創造の神学」との接触点を持つ——「世界は神の創造であり、神の良さを反映する」というトマス的確信と共鳴する。しかし「世界=神の身体」という汎神論的傾向は、カトリックの「神と被造物の区別」という確信と緊張する。
マージョリー・スコッキ——過程神学と赦し
マーカレット・ファーレイと並ぶカトリック寄りの神学者として——**マージョリー・ヒューウィット・スコッキ(1933年〜)**は「プロセス神学と社会的罪(Social Sin)」「プロセス神学と赦し(Forgiveness)」を結びつけた。
「赦しはどのように可能か——被害者が「加害者のために赦しを選ぶ」という「意志的行為」として。これはプロセス神学的「創造的応答(Creative Response)」の具体例だ。」
プロセス神学への批判——神学的問題の整理
プロセス神学への批判は多方向から来る。
批判①:「聖書的根拠の薄さ」
「プロセス神学の神はホワイトヘッドの哲学的必要性から構築された——聖書の神を「哲学的に説明すること」ではなく「哲学的に置き換えること」になっていないか。」
「「全能の神(Omnipotent God)」を「誘惑する神(God who Lures)」に置き換えることは——「神はすべての上に主権を持つ(All Authority has been given to me in heaven and on earth:マタイ28:18)」という聖書的確信と整合するか。」
批判②:「神の超越性の喪失」
「汎神論(Pantheism)」への接近——「世界と神が相互依存するなら——神は世界なしには「完全な神」ではないのか。これは「神は世界に依存する」という汎神論的結論につながらないか。」
「「万有在神論(Panentheism)」——世界は神の「内にある(in God)」が、神は世界を「超越する(beyond the World)」——というプロセス神学の自己理解は、この批判への応答だ——「汎神論(世界=神)」ではなく「万有在神論(世界は神の内に、しかし神は世界を超える)」。」
批判③:「悪の問題への不十分な応答」
プロセス神学は「全能の神」を否定することで「悪の問題(Theodicy)」を「解決しようとする」——「神は強制できないから、悪を防げなかった。」
しかし批判者は問う——「「強制できない神」は「礼拝に値するか」。「アウシュヴィッツを止められなかった神」は「救済者(Savior)」として信頼できるか。」
バルトの批判(第十一章)——「プロセス神学の神は「キリストの復活によって死に勝った神」ではない——「説得する神」は「死者を復活させる神(神の全能)」ではない。「神の愛の力(Power of Divine Love)」は「強制しない」のではなく「十字架と復活において「暗闇に打ち勝つ」」——これがバルト的応答だ。」
批判④:「祈りへの影響」
「「誘惑する神」に「祈ること」の意味は何か——神が「強制できない」なら、「奇跡を求める祈り」は何を求めているのか。」
プロセス神学の応答——「祈りは「神の誘惑への人間の開放性の高まり」として機能する——祈ることで「神のlure(誘惑)への感受性」が高まる。」
「開かれた神学(Open Theism)」——福音主義内部からの挑戦
プロセス神学が主に「主流プロテスタント・学術神学」の文脈で展開されたのに対して——**「開かれた神学(Open Theism)」**は「福音主義(Evangelicalism)」の内部から生まれた。
「開かれた神学」はプロセス神学とは異なる——「聖書の権威・キリストの受肉・復活・最終的な神の主権」を保持しながら、「神の全知(特に「将来の自由な選択の先知」)」を問い直す。
主要な人物——
クラーク・ピノック(1937〜2010年)——カナダの福音主義神学者。著書「神の優しい顔(The Openness of God、1994年)」——共著——で「開かれた神学」の体系的提示を行った。
グレッグ・ボイド(1957年〜)——著書「神・時間・知識(God of the Possible、2000年)」。「「開かれた神学」は聖書的・哲学的に最も一貫している」という主張。
リチャード・ライス——著書「神の先知(The Openness of God:Relationship as a Model for Divine Knowledge)」。
「開かれた神学」の核心主張
「開かれた神学」の核心的主張を整理しよう。
①「神は将来の自由な選択を予め確実には知らない」
「将来の「自由な選択」は——「まだ存在していない」。「まだ存在しないもの」は知ることができない——これは「神の知識の欠如(Lack of Knowledge)」ではなく「知識の対象そのものの問い(Question of Object)」だ。」
「神が「まだ存在しない将来の自由な選択」を「確実に知っている」とすれば——その「自由な選択」は本当に「自由」か——「知られている」ということは「すでに決まっている」ということではないか。」
これはカルヴァン主義的「予定論(Predestination)」への、福音主義内部からの批判として機能する——「完全な予知(Complete Foreknowledge)は自由意志と両立しない」という主張。
②「神は「関係的(Relational)」だ——本当に応答する」
「「古典的有神論」の神は「不変・不動」だ——しかし聖書の神は「後悔し・悲しみ・喜ぶ。」これは「比喩(Metaphor)」ではなく「神の実際の応答性(Real Responsiveness)」の表現だ。」
「「本当の関係(Real Relationship)」には「双方向性」が必要だ——「神は人間に完全に応答するが、人間は神に全く影響を与えない」という「一方通行の関係」は、「本当の関係」ではない。」
③「神の計画は「大まかに確定(Generally Settled)」だが「詳細は開かれている(Specifically Open)」」
「「開かれた神学」は「神の計画の究極的成就(Ultimate Victory)」を否定しない——「神は最終的に善に勝つ」というキリスト教的確信は保持する。」
「しかし「その成就への道程の詳細」は「開かれている(Open)」——「神は創造的に・応答的に働く」中で、「最終的な目的」へと向かう。」
「開かれた神学」への批判
「開かれた神学」はプロセス神学より「保守的」だが——やはり多くの批判を受けた。
批判①:「聖書の「神の後悔」はどう解釈するか」
伝統的解釈——「神の後悔・悲しみ」は「擬人法(Anthropomorphism)」——「神が人間の感情の言語で記述される」が、これは「文字通り」ではなく「類比的(Analogical)」に理解すべきだ。
「開かれた神学」の応答——「「擬人法」として退けることは——聖書テキストの「字義的意味(Literal Meaning)」への不誠実だ。「神が後悔した」とテキストが言うなら——それは「本当に後悔した」と理解すべきだ。」
批判②:「予知(Foreknowledge)への聖書的反証」
「イザヤ書・ダニエル書・黙示録の「予言(Prophecy)」——これらは「将来の具体的出来事」を「確実に予告している」——これは「神が将来の自由な選択を知っている」ことを示す。」
「開かれた神学」の応答——「「予言」は「神の確実な予知」を意味しない——「神の意図(Intention)と力(Power)によって確実に実現されること」として理解できる。「神は将来を「知っている」のではなく「実現する力を持っている」。」
批判③:「礼拝の根拠への影響」
ジョン・パイパー(Calvinist)の批判——「「将来を完全には知らない神」は「礼拝に値するほど「偉大」か——「アウシュヴィッツがどう終わるか知らなかった神」は「全能の主(LORD)」か。」
「開かれた神学」の応答——「神の「偉大さ(Greatness)」は「すべてを予め知ることが」ではなく「どんな状況にも創造的に応答できること」にある。」
批判④:「ウェスタミンスター神学校(Westminster Theological Seminary)による批判」
2002年、ウェスタミンスター神学校の複数の教授が「開かれた神学は改革派・福音主義の正統主義から逸脱する異端的傾向を持つ」と声明した。
「神の完全な予知の否定は——「神の全知(Omniscience)」という神的属性の否定であり、これは「聖書的神観」とは相容れない。」
「中間知(Middle Knowledge)」——古典的有神論の修正的試み
プロセス神学・開かれた神学への「代替的応答」として——**「中間知(Middle Knowledge)」**の神学(第十一章カトリック神学でも触れた「モリニズム(Molinism)」)がプロテスタント神学者の間でも注目された。
ルイス・デ・モリーナの概念のプロテスタント的受容——
ウィリアム・レーン・クレイグ(1949年〜)——「モリニズム(Molinism)」の現代的擁護者。著書「中間知・モリニズム(Divine Foreknowledge and Human Freedom)」。
「中間知」の論理——「神は「自由な状況下でどの自由な行為者がどう選択するか(Counterfactuals of Creaturely Freedom)」を知っている——これは「自然的知識(Natural Knowledge)」と「自由な知識(Free Knowledge)」の間の「中間(Middle)」に位置する知識だ。」
「この中間知によって——神は人間の「自由な選択」を強制することなく、「確実に」ご自身の目的を達成できる——「섭理(providence)」の両立論的説明。」
批判——「中間知は「自由な選択以前の条件反事実(Counterfactuals)」を神が「知っている」と主張するが——「まだ存在しない選択」の「真理値(Truth Value)」はどこから来るのか——これは「開かれた神学」が指摘した問いの別形式として残る。」
カトリック神学との深い対話——「神の苦しみ(Divine Suffering)」
プロセス神学・開かれた神学が最も深くカトリック神学と対話する領域が——**「神の苦しみ(Divine Suffering / Divine Passibility)」**という問いだ。
于君方(ユルゲン・モルトマン)の「十字架の神(The Crucified God)」
ユルゲン・モルトマン(1926年〜)——プロセス神学者ではないが、「古典的有神論」の「神の不動性(Impassibility)」への批判として——著書**「十字架の神(Der gekreuzigte Gott、1972年)」**を書いた。
「アウシュヴィッツの絞首台に吊るされた子供を見て「神はどこにいるか」と問う人に——神はあの絞首台に吊るされた子供の中にいる。」——エリ・ウィーゼルの問いへの神学的応答として。
「十字架において——神は苦しんだ(God suffered)。「苦しまない神(Impassible God)」ではなく——「苦しみの中に参与する神(God who participates in Suffering)」が「十字架の神」だ。」
これはプロセス神学の「苦しむ神(Passible God)」と構造的に近いが——「キリストの十字架という具体的・歴史的出来事」に根拠を持つ点でプロセス神学と異なる。
カトリック神学との共鳴と緊張
カトリック神学は伝統的に「神の不動性(Impassibility)」を維持してきた——トマスの「純粋現実性(Pure Actuality)」には「感情に動かされる可能性」はない。
しかし第二バチカン公会議後のカトリック神学は「神の苦しみへの参与」という問いに開かれていった——
ハンス・ウルス・フォン・バルタザール(第十三章カトリック)——「三位一体の神の内的な「悲劇的次元(Tragic Dimension)」——「父の愛が子を死に渡す(ヨハネ3:16)」——これは三位一体の神の内的生命の問いとして展開された。
ラーナーの「神の不変性の再解釈」——「神は変化しない「抽象的に(abstractly)」——しかし「具体的に(concretely)」世界との関係において「なる(become)」——これはカトリック神学がプロセス神学の問いに応答した重要な試みだ。」
「関係の神(Relational God)」——現代的統合
プロセス神学・開かれた神学の問いへの一つの方向として——**「関係の神学(Relational Theology)」**がある。
「「古典的有神論」の「完全に自己充足した神(Self-Sufficient God)」でも「世界に依存するプロセス神学の神」でもなく——「三位一体の神は「本来的に関係的(Essentially Relational)」だ——「父・子・聖霊の相互関係(Perichoresis)」が「神の本質的存在様式」として。」
「ペリコーレーシス(Perichoresis)」——三位一体の「相互内住(Mutual Indwelling)」という古い概念——「父は子の中に・子は父の中に・聖霊は双方の中に(ヨハネ14:10-11)」——が「関係の神学」の中心概念として再評価された。
「「関係的に内省的(Relationally Immanent)」でありながら「世界を超越する(Transcendent)」神——これが「古典的有神論の不変の神」でも「プロセス神学の変化する神」でもない「三位一体的関係の神」だ。」
ミロスラフ・ヴォルフ(第二十章で詳述)——「三位一体の「ペリコーレーシス」が「教会・社会・個人の関係性」の範型となる」という「三位一体的社会倫理」を展開した。
カトリック神学との深い共鳴——カトリックの「三位一体的神学(Trinitarian Theology)」との収斂——「神の本質は「関係(Relation)」だ(父・子・聖霊の相互関係として神は存在する)」というカトリック三位一体論と、「関係の神学」は深く共鳴する。
プロセス神学と宗教間対話——「唯一性の問い」
プロセス神学は「宗教間対話(第十五章カトリック)」への独自の貢献を持つ。
「宗教的多元主義への開放性」——ホワイトヘッドの「神的lure(誘惑)」はすべての宗教的伝統の中で働く——「キリスト教・仏教・ヒンドゥー教・イスラム教は「神のlure」への異なる応答として理解できる。」
コブの「仏教・キリスト教対話」——「仏教の「空(Śūnyatā)」とプロセス神学の「神の原初的性質(Primordial Nature)」の対話」——これは20世紀の最も深い宗教間哲学的対話の一つだ。
カトリックの立場との緊張——カトリックの「イエス・キリストの唯一の普遍的媒介性(Dominus Iesus、2000年)」はプロセス神学的「宗教多元主義への開放性」と緊張する——「神の働きがすべての宗教に等しく働く」という主張は「キリストの独自性・唯一性」と矛盾しないか。
「悪の問題」への応答——プロセス神学の最強の主張
プロセス神学が「最もよく機能する」問いは——**「悪の問題(Theodicy)」**だ。
「古典的有神論の悪の問題」——「全知・全能・全善の神が存在するなら——なぜ悪・苦しみ・大量殺戮が存在するか。神は悪を止めることができたが止めなかった——したがって「善い神」ではない。または神は止めたかったが止められなかった——したがって「全能の神」ではない。」
プロセス神学の応答——「神は「強制する全能(Coercive Omnipotence)」を持たない——神は「説得する(Lure / Persuade)」のみだ。したがって「悪を止めなかった」のではなく「止める力を持っていない」——しかしこれは「神の弱さ(Weakness)」ではなく「神の愛の性質(Nature of Divine Love)」だ。「本当の愛は強制しない。」」
批判への応答の評価——この「解決」に多くの批判者は「不満」を表明した——「「止められない神」に「礼拝の価値」があるか。」
プロセス神学の応答——「神の価値は「力(Power)」ではなく「愛・美・創造的可能性の源泉(Source of Creative Possibilities)」にある——「最終的勝利」は保証されないが「最善の可能性への誘惑」は常に提供される。」
この答えへの最終的評価——多くの神学者は「プロセス神学は「悪の問題」を「解決」するが、そのコストとして「聖書的な神」を失う」と判断した。
この章から学ぶこと——「哲学的誠実さと聖書的忠実さの緊張」
プロセス神学・開かれた神学から学べる最も深い問いは——
「「聖書的に描写された神」と「哲学的に整合した神概念」の関係はどうあるべきか。」
「古典的有神論(不変・全能・全知の神)」は「ギリシア哲学的影響」を持つ——しかしそれは「聖書の神を歪めた」か、それとも「聖書の神を適切に概念化した」か。
プロセス神学は「聖書の神の動的・応答的性格」を真剣に取った——しかしそのためのホワイトヘッド的枠組みは「聖書から」ではなく「哲学的宇宙論から」来ている。
「開かれた神学」は「聖書への忠実さ」から出発したが——「将来の自由な選択の予知の否定」という帰結は「多くの聖書テキストの伝統的解釈」と緊張する。
「神学は常に哲学的概念を使う——問いは「どの哲学的概念を使うか」だ」——カトリックのトマスはアリストテレスを使った。ラーナーはカントを使った。ブルトマンはハイデガーを使った。プロセス神学者はホワイトヘッドを使った。
「どの哲学的概念が「聖書の証言」に最もよく奉仕するか」——これはプロテスタントとカトリックが共有する持続的な神学的課題だ。
そしてプロセス神学・開かれた神学が残した最も重要な遺産は——「神の苦しみへの参与(Divine Suffering)」という問いだ——「アウシュヴィッツの絞首台に吊るされた子供とともにいた神」——これはバルト・モルトマン・ラーナー・バルタザールが異なる方向から同じ問いに応答した問いとして、今日も神学の中心に立っている。
次章では、プロテスタント神学の中で「周縁から問い返す」二つの重要な流れを見ていく——ジェームズ・コーンの「黒人神学」と、ローズマリー・ラドフォード・ルーサーらの「フェミニスト神学」だ。「神学は誰のための・どこからの思考か」という問いは、カトリック神学の解放神学(第十四章カトリック)と並行して、プロテスタント神学の中でも周縁から爆発した。
