第十八章 黒人神学・フェミニスト神学——周縁からの問い返し(20世紀後半)
- 「神学は誰のための・どこからの思考か」
- コーンの問い——「白人の神学への根本的批判」
- 「黒人神学」の核心——「キリストは黒人だ」
- 「奴隷の霊歌(Negro Spirituals)」——神学の源泉
- コーンの神学的発展——「マルコムXとキング牧師」
- ジェームズ・コーンへの批判——多様な声
- フェミニスト神学の爆発——「神学は誰が作ったか」
- ローズマリー・ラドフォード・ルーサー——「神学の家父長制批判」
- エリザベス・シュスラー・フィオレンツァ——「フェミニスト聖書解釈学」
- レティー・ラッセル——「フェミニスト教会論」
- 「神(God)」の言語問題——「父なる神」への挑戦
- 「ウーマニスト神学(Womanist Theology)」——黒人女性の声
- 「アジア系フェミニスト神学」——チョン・ヒョン・キョン
- フェミニスト神学と聖書の権威——最も深い問い
- フェミニスト神学の貢献——正当な評価
- 黒人神学・フェミニスト神学とカトリック——何を共有し何が異なるか
- この章から学ぶこと——「周縁は中心を問い直す」
「神学は誰のための・どこからの思考か」
1968年、アメリカ。
4月4日、マーティン・ルーサー・キング・ジュニアが暗殺された。
テネシー州メンフィスのホテルのバルコニーで。ゴミ収集労働者のストライキを支援するために来ていた。
その夜、黒人教会のコミュニティは問うた——「神はどこにいるか。私たちの指導者が殺された。私たちの人権運動が攻撃される。白人キリスト教文化はこの暴力を支持し、正当化してきた。「神への信仰」と「人種差別への抵抗」の関係は何か。」
同じ年、ユニオン神学校の若い黒人神学者**ジェームズ・コーン(1938〜2018年)**は——これまでにない論文を書き始めた。
「黒人神学・黒人権力(Black Theology and Black Power、1969年)」——この著作の冒頭の言葉は爆弾だった。
「キリスト教神学は「黒人神学(Black Theology)」でなければならない——そうでなければ、それはキリスト教ではない。」
これは挑発ではない——論理的帰結だった。「キリストは抑圧された者と共にいる」という確信から、「アメリカの抑圧された黒人の現実から語られない神学は「キリスト教の神学」ではない」という命題が導かれた。
カトリック神学との比較から始めよう——コーンの黒人神学とカトリックの解放神学(第十四章カトリック)は、ほぼ同時に生まれた(グティエレスの「解放の神学」1971年・コーンの「黒人神学」1969年)。両者は「周縁からの神学」「「貧者・抑圧された者」への神の優先的関与」という確信を共有する。しかし文脈・方法論・強調点において異なる——コーンはラテンアメリカの貧困より「人種的抑圧(Racism)」の問いを中心に置いた。
コーンの問い——「白人の神学への根本的批判」
コーンの神学的出発点は——**「西洋キリスト教神学は「白人の神学」だ」**という告発だ。
「アウグスティヌス・トマス・ルター・カルヴァン・バルト・ブルトマン——これらの「偉大な」神学者たちは——黒人の奴隷化・植民地支配・人種差別についてほとんど語らなかった。彼らの「普遍的神学」は実は「白人ヨーロッパ男性の経験」を普遍化したものだ。」
この批判は——第十四章カトリックで論じた解放神学の「神学の社会的位置づけ(Social Location)」という問いと同型だ——「どこから神学するかが、何を神学するかを決める。」
「白人の神学者は黒人の現実を「神学的問い」として認識しなかった——なぜなら彼らには「その現実が見えなかった」から。
具体的——「バルトは「神の言葉の神学」を書きながら——アメリカの黒人奴隷制について、一言も書かなかった。「神の言葉」が「すべての人間への語りかけ」なら——なぜ「鎖に繋がれた黒人への語りかけ」として展開されなかったか。」
「黒人神学」の核心——「キリストは黒人だ」
コーンの最も論争的な命題——「キリストは黒人だ(Christ is Black)。」
これは「歴史的にナザレのイエスは黒い肌を持っていた」という人種的主張ではない——「神学的・象徴的主張」だ。
コーンの論理——
①「イエスは常に「抑圧された者・周縁化された者・社会の底辺」の側に立った——マタイ25章「最も小さい者に仕えること」・ルカ4章「貧者への福音・捕らわれた者の解放」。」
②「アメリカで「最も抑圧された・周縁化された」人々は——黒人だ。人種差別・奴隷制の遺産・制度的暴力の下に生きる黒人。」
③「したがって——「今日のアメリカで、イエスはどこにいるか」——「最も抑圧された者の側に」。それは「黒人の側に」だ。」
④「「キリストは黒人だ」——これは「今日のアメリカの文脈で、キリストは黒人の解放のために立っている」という「文脈的(Contextual)」主張だ。」
カトリック神学との比較——コーンの「キリストは黒人だ」は、カトリックのラーナーの「匿名のキリスト者(Anonymous Christian)」(第十三・十四章カトリック)の逆方向の運動として理解できる。ラーナーは「キリストの普遍性が他の宗教にも及ぶ」と言った。コーンは「キリストの具体性が「最も抑圧された者」の解放として現れる」と言った。「普遍性への拡張」と「具体性への集中」——両方が「キリストの働きの範囲」を問う。
「奴隷の霊歌(Negro Spirituals)」——神学の源泉
コーンの神学的方法の独自性——「黒人の経験・黒人教会の伝統・奴隷の霊歌(Negro Spirituals)」を神学の源泉として使う。
伝統的プロテスタント神学は——「聖書・教会の伝統・哲学的概念」を神学の源泉としてきた。コーンは「黒人の苦しみの体験と表現」を加えた——いや、それを中心に置いた。
「スウィング・ロウ、スウィート・チャリオット(Swing Low, Sweet Chariot)」——この霊歌の「天国への移送(Jordan crossing)」のイメージは——「死後の救済」の表現だが同時に「自由への逃亡(Underground Railroad)」への「暗号(Code)」として機能した。
「ゴ・ダウン、モーゼス(Go Down, Moses)」——「エジプトから「私の民」を解放せよ」——これは「奴隷主のキリスト教」への直接の挑戦として歌われた。
コーンの神学的洞察——「奴隷たちは「白人主人の神学」によって抑圧されながら——聖書から「解放の神」を発見した。「同じ聖書から」——全く異なる神が読み出された。」
これは第三章のプロテスタント聖書論——「「聖書のみ」の解釈は誰が行うか」——への最も鮮明な応答だ。「奴隷たちは「誰にも教えられなかった聖書解釈」によって「解放の神」を発見した——これは「聖霊の内的証言(Inner Witness of the Holy Spirit)」の最も純粋な例だ。」
コーンの神学的発展——「マルコムXとキング牧師」
コーンの神学的発展は——「マルコムX(1925〜1965年)」と「マーティン・ルーサー・キング・ジュニア(1929〜1968年)」という二つの人物への対話として展開された。
著書**「十字架と木——リンチの木(The Cross and the Lynching Tree、2011年)」**——コーンの最高傑作と評価される。
「リンチの木」——1865年から1950年までの間、3000人以上の黒人がリンチによって殺された。白人の「キリスト教徒」たちが、時に祭り的な雰囲気の中で黒人を「木に吊るした。」
コーンの問い——「「キリストの十字架」と「リンチの木」の関係は何か。」
「「十字架」はローマ帝国の支配下の「最も下賤な者への処刑手段」だった——「呪われた者の死」。アメリカにおける「リンチの木」は——白人支配下の「最も下賤な者(黒人)への処刑手段」——「黒人を「人間未満(Subhuman)」として扱う白人社会の象徴」。」
「バルトは「十字架の神学」を書いた。ブルトマンは「十字架の非神話化」を試みた。しかし誰も「十字架」と「リンチの木」の関係を神学的に問わなかった——「これが「白人神学」の「見えなさ(Blindness)」だ。」」
「「十字架の神学」を真剣に取れば——「リンチの木」が神学的問いでなければならない。そしてこの問いを真剣に取れば——アメリカの白人キリスト教の歴史的共犯関係への告発は不可避だ。」
ジェームズ・コーンへの批判——多様な声
コーンへの批判は多方向から来た。
白人神学者からの批判——「「キリストは黒人だ」という「人種的特定化」は「キリストの普遍性」を損なう——「キリストはすべての人のために死んだ」という確信と両立するか。」
コーンの応答——「「普遍性」は「具体性」を通じてのみ機能する——「すべての人のための神」は「すべての特定の抑圧された人々への神」として具体化される。「普遍性を抽象として守ること」は「現実の不正義への無関心」に帰結する。」
黒人フェミニスト神学者(ウーマニスト:Womanist)からの批判——「コーンの黒人神学は「黒人男性の経験」を中心に置いた——「黒人女性の経験」は周縁化されている。人種的抑圧と「性別抑圧(Sexism)」の交差する黒人女性の経験に向き合っていない。」
これが「ウーマニスト神学(Womanist Theology)」の起源だ——デロレス・ウィリアムズ・ジャクリーン・グラントらが「ウーマニスト神学」を展開した——「黒人女性の経験から神学する」という試み。
解放神学との対話——グティエレス(カトリック解放神学)との対話で——「人種的抑圧と「経済的抑圧」の関係はどうか——ラテンアメリカの「貧困」とアメリカの「人種差別」は同じ「帝国主義的資本主義」の異なる表れか」という問い。
フェミニスト神学の爆発——「神学は誰が作ったか」
黒人神学とほぼ同時期——1960〜1970年代に——**「フェミニスト神学(Feminist Theology)」**がプロテスタント神学の中で爆発した。
その爆発の背景——
第二波フェミニズム(Second Wave Feminism)——ベティ・フリーダンの「フェミニンの神秘(The Feminine Mystique、1963年)」から始まる「女性解放運動(Women’s Liberation Movement)」——「家庭・職場・法律における女性差別への批判」。
女性神学者の台頭——プロテスタント神学校への女性の参入が増加——「神学を学んだ女性が「神学を問い直す」という必然的帰結。
フェミニスト神学の根本的問い——
「二千年の神学は「誰が行ったか」——ほぼ全員が「男性」だった。男性の経験が「人間一般の経験」として普遍化された。女性の経験は「特殊・周縁的・非標準」として扱われた。この「男性中心性(Androcentrism)」が神学の内容・方法・言語に何をしたか。」
ローズマリー・ラドフォード・ルーサー——「神学の家父長制批判」
ローズマリー・ラドフォード・ルーサー(1936〜2022年)——カトリック出身だが、プロテスタント神学校(ガレット神学校)で長年教えた——フェミニスト神学の最も体系的な神学者の一つだ。
主著**「性差別主義と神についての語り(Sexism and God-Talk、1983年)」**——フェミニスト組織神学の最初の体系的著作の一つ。
ルーサーの核心的方法——「預言的・批判的原則(Prophetic-Critical Principle)」。
「キリスト教の伝統全体を批判する基準は何か——「女性を含むすべての人間の完全な人間性(Full Humanity of Women)」の促進だ。女性の人間性を否定・軽視・周縁化するものは——「不完全に伝達されたか歪められた伝統」だ。女性の完全な人間性を肯定するものが「福音の本来の核心(Genuine Kernel of the Gospel)」だ。」
「神学の批判的基準として「女性の完全な人間性」——これは聖書の権威・教会の伝統より「根本的な基準」として機能する。
批判——「これは「聖書の基準をフェミニスト的基準に置き換えること」ではないか——「聖書もアウグスティヌスも女性差別的だから退ける」という論理は、「聖書の権威」を事実上否定することにならないか。」
ルーサーの応答——「私は「聖書の反する」のではなく「聖書の最深の預言的伝統(Prophetic Tradition)——特に「抑圧された者への神の解放」——に従って、聖書の「家父長制的外皮」を批判する。」
エリザベス・シュスラー・フィオレンツァ——「フェミニスト聖書解釈学」
エリザベス・シュスラー・フィオレンツァ(1938年〜)——ハーバード神学大学院の教授。フェミニスト聖書解釈学(Feminist Biblical Hermeneutics)の確立に最も貢献した神学者だ。
主著**「彼女を記念して(In Memory of Her、1983年)」**——「初期キリスト教は「平等の弟子共同体(Discipleship of Equals)」だった——しかし「家父長制化(Patriarchalization)」のプロセスで女性のリーダーシップが周縁化された。」
「危険な記憶(Dangerous Memory)」——「マルコ14:9「この人が行ったことも、彼女を記念して語り伝えられるだろう」——しかし「彼女の名前」は語り伝えられなかった。女性たちの「危険な記憶」——「平等の弟子共同体」という初期教会の実践——が「家父長制化」によって「消去」されてきた。それを「回復すること」がフェミニスト聖書解釈学の課題だ。」
「疑いの解釈学(Hermeneutics of Suspicion)」——「聖書テキストそのもの——特に「女性を沈黙させ・従属させる」テキスト——が「家父長制的編集の産物」だという「疑い(Suspicion)」から読み始める解釈学」。
批判——「「疑いの解釈学」は「反聖書的テキスト」の廃棄につながらないか——「家父長制的と判断されたテキスト」を「神の言葉ではない」と退けることは、「聖書の権威」そのものを否定することになるか。」
レティー・ラッセル——「フェミニスト教会論」
**レティー・ラッセル(1929〜2007年)**はイェール大学神学大学院で教えた——「フェミニスト教会論(Feminist Ecclesiology)」の先駆者だ。
主著**「教会の丸テーブル(Church in the Round、1993年)」**——「「教会(Church)」の伝統的な「階層的モデル(Hierarchical Model)」——上から下への権力構造——への批判として「丸テーブル(Round Table)」のモデル」。
「イエスの食卓(Table Fellowship)——イエスは税吏・罪人・女性・子供——「正しい人々から排除された者」とともに食卓につかれた。この「包括的な食卓(Inclusive Table)」が「教会の根本的モデル」だ。」
「権威の神学(Authority as Partnership)」——「権威は「上から下への強制(Imposition)」ではなく「相互的奉仕(Mutual Service)」として機能すべきだ——これは「三位一体の相互内住(Perichoresis)」のモデルを反映する。」
カトリック神学との比較——フランシスコ教皇の「シノダリティ(Synodality:共同歩調、第十五章カトリック)」はラッセルの「丸テーブルの教会論」と方向性を共有する——「上から下への決定ではなく「共に聴き・共に識別する」プロセス」。
「神(God)」の言語問題——「父なる神」への挑戦
フェミニスト神学が最も根本的な問いを立てた領域——**「神言語(God-Language)」**だ。
「神は「父(Father)」と呼ばれる——「父・子・聖霊」の三位一体。聖書は繰り返し「父なる神」を語る。主の祈りは「天の父よ」と始まる。」
フェミニスト神学の問い——「この「父なる神」という言語は——神の本質を記述しているか、それとも「家父長制的文化の産物」として「神に男性的属性を投影」しているか。」
「メアリー・デイリー(1928〜2010年)」の急進的挑戦——著書「神を超えた神(Beyond God the Father、1973年)」。「「父なる神」は「家父長制の象徴」だ——キリスト教を「改革」するのではなく「根本的に離脱すること」が必要だ。」デイリーは最終的にキリスト教を離れた——「「父なる神」というシンボルは改革不可能なほど男性中心的だ」という判断から。
これはフェミニスト神学の「急進的分離主義(Radical Separatism)」だ——多くのフェミニスト神学者はこの方向を取らなかった。
「サリー・マクファーグ(前章)」の「代替メタファー」戦略——「神を「父」と呼ぶことは「模範メタファー(Root Metaphor)」として機能してきた。しかしこれは「唯一の」メタファーではない。「母(Mother)・愛人(Lover)・友(Friend)」という代替メタファーは——「父」では見えない「神の性質の側面」を照らし出す。」
聖書的根拠の問い——「聖書には女性的な神のイメージがある——「産む女性としての神(イザヤ66:13)」「雌鳥としての神(詩篇91:4)」「家の失われた銀貨を探す女(ルカ15:8-10)」。これらは「比喩的」として常に軽視されてきたが——「父」という言語と「同等の正当性」を持つ。」
カトリック神学との比較——カトリックはトマス的に「神は性を超えた存在(Asexual)」という立場を取る——「神を「父」と呼ぶことは「性別的(Gender)」ではなく「関係的(Relational)」だ——「産みの親」という意味での「父性(Paternity / Fatherhood)」。」しかしカトリックも「神の母性的属性」を認めた実績がある——特にマリア神学(第十五章カトリック)において「神の母性的側面」が「マリア」に投影されてきた、という批判もある。
「ウーマニスト神学(Womanist Theology)」——黒人女性の声
フェミニスト神学への黒人女性の批判——「「フェミニスト神学」は「白人中産階級の女性」の神学だ。黒人女性は「人種的抑圧」と「性差別的抑圧」の「交差(Intersection)」の中に生きる——「人種だけを問う黒人神学」にも「性別だけを問うフェミニスト神学」にも、私たちの経験は収まらない。」
アリス・ウォーカー(1944年〜)——小説家。著書「カラーパープル(The Color Purple)」——「ウーマニスト(Womanist)」という言葉を導入した——「黒人女性の特有の精神性と抵抗の伝統」を指す。
デロレス・ウィリアムズ(Sisters in the Wilderness、1993年)——「ハガルの物語(創世記16・21章)——奴隷の女性ハガルがサラに虐待され、荒野に追い出される——しかし神はハガルとともにいた。」「ハガルの経験は「黒人女性の経験」の聖書的原型(Archetype)だ——「奴隷化・性的搾取・周縁化」——しかしその中で「神の臨在(Divine Presence)」を経験した。」
「贖罪論(Atonement)」への挑戦——「「キリストの代理的苦しみ(Substitutionary Suffering)」という贖罪論は——「他者のための苦しみ」の神学的正当化として、黒人女性の「服従・苦しみの受け入れ」を強化するために使われてきた——「苦しむことが「神の意志」だ」という論理で。これは「贖罪論の解放神学的再審査」を必要とする。」
「アジア系フェミニスト神学」——チョン・ヒョン・キョン
周縁神学の中で、アジアの声も重要だ——特にチョン・ヒョン・キョン(鄭炫敬、1956年〜)——韓国のフェミニスト神学者。
1991年のWCC総会(カンバラ)での演説は歴史的だった——「ハン(韓)(Han)」という韓国的概念——「怨恨・苦しみ・限界への深い感情」——を中心に「アジア的文脈での聖霊論」を展開した。「コンフォーター(慰め主)としての聖霊は——「ハン」を持つすべての被抑圧者の霊(Spirit)として働く。」
これは「フィリオクエ問題(聖霊は父と子から出るか)」より「聖霊は被抑圧者とともにいるか」という問いを前景化した——「正統主義的神学論争より「生きた苦しみへの神学的応答」を優先する」という方法論の表れ。
フェミニスト神学と聖書の権威——最も深い問い
フェミニスト神学が最も根本的に立てた問いは——**「「家父長制的」な聖書テキストをどう扱うか」**だ。
コリント第一14:34——「女性は教会では黙っていなさい。」
テモテへの第一2:12——「女性が教えたり、男性の上に立ったりすることを私は許さない。」
これらのテキストをどう読むか——プロテスタント神学は大きく分かれた。
①伝統主義的立場(Complementarianism:相補主義)——「これらのテキストは文字通りに適用される——「女性の叙階」は聖書的に許されない。」——改革派保守派・多くの福音主義教会。
②エガリタリアン(平等主義:Egalitarianism)——「これらのテキストは「特定の文化的文脈(First-Century Corinthian Church)」への特定の指示だ——「普遍的規範」ではない。ガラテヤ3:28「男も女もない」が「普遍的原則」だ。」——多くの主流プロテスタント・一部の福音主義。
③フェミニスト神学的立場——「これらのテキストは「家父長制的編集」の産物——聖書の「核心的メッセージ(解放・平等・愛)」と矛盾する。これらは「神の言葉」として機能させるべきではない。」
この立場への批判——「「自分が同意するテキストだけを「神の言葉」とし、同意しないテキストを「家父長制的編集」として退ける」——これは「「聖書の権威」を事実上否定することだ。」
フェミニスト神学の貢献——正当な評価
フェミニスト神学への批判は多い——しかし正当な貢献を認めることが誠実さだ。
第一の貢献:「神学の「社会的位置づけ」への意識化
「誰が神学するかが、何を神学するかを決める」——この認識は今日の神学の共有された洞察だ。「中立の神学」は存在しない——すべての神学は「どこかから」語られる。フェミニスト神学はこの認識を神学に定着させた。
第二の貢献:「聖書の女性たちの再発見
ルツ・デボラ・フルダ・막달라 마리아(マグダラのマリア)・プリスカ——聖書の女性たちへの新しい注目は、聖書理解を豊かにした。「マグダラのマリアは「最初の復活の証人」だった——「使徒たちへの使徒(Apostle to the Apostles)」——この認識の回復はカトリック神学にも影響を与えた。ヨハネ・パウロ2世はマリア・マグダレナを「使徒たちへの使徒」と公式に称した。
第三の貢献:「神のイメージの豊かさへの注目
「神の父性的イメージ」のみならず「母性的イメージ・友としての神・愛人としての神」——聖書の神についての豊かな言語への注目は、神学を深めた。ノリッジのジュリアン(第八章カトリック)の「神の母性」が再発見されたのも、この流れの中でだ。
第四の貢献:「教会の実践への批判的吟味
「女性のリーダーシップ・女性の神学的声」への神学的根拠が問われたことで——多くのプロテスタント教会が「女性牧師・女性長老」への神学的根拠を真剣に考えるようになった。
黒人神学・フェミニスト神学とカトリック——何を共有し何が異なるか
共有するもの——
「神学は「苦しむ者・抑圧された者」への神の関与を中心的テーマとして持つ」——これはカトリックの解放神学との深い共鳴。
「「普遍的」と主張してきた神学が、実は「特定の集団(白人・男性・エリート)の経験」の普遍化だった」——この批判はカトリックの「欧州中心主義的神学」への批判とも共鳴する。
「「危険な記憶(Dangerous Memory)」——「忘れられてきた周縁の声」の回復」——カトリックの「殉教者の記憶(Memoria Passionis)」とも構造的に近い。
異なるもの——
「聖書の権威」の取り扱い——フェミニスト神学(特に急進的立場)の「家父長制的テキストの拒否」はカトリックの「聖書と伝承の権威」との根本的緊張を生む。
「「女性叙階」問題」——プロテスタントの「女性牧師」はカトリックの「女性司祭否定」との根本的差異として今日も立つ——これはエキュメニカル対話(第十五章)の最大の障壁の一つだ。
この章から学ぶこと——「周縁は中心を問い直す」
黒人神学・フェミニスト神学から学べる最も深い洞察——
「周縁は中心を「問い直す」だけでなく「豊かにする」。」
「黒人神学が「リンチの木と十字架」という問いを立てたとき——「十字架の神学」は新しい深みを得た。」
「フェミニスト神学が「神の母性的イメージ」を回復したとき——「神学の言語」は豊かになった。」
「ウーマニスト神学が「ハガルの物語」を中心に置いたとき——「聖書の読み方」が拡がった。」
これはカトリック神学第十四章で論じた「解放神学の貢献」と同じ洞察——「周縁からの問いは「中心の神学」が見落としてきたものを見ている。」
バルトは「神の言葉は「教会の自己批判の鏡」として機能する」と言った——黒人神学・フェミニスト神学は「神学そのものの「自己批判の鏡」」として機能した——「私たちの「普遍的神学」は本当に普遍的か、それとも「特定の人々の神学」を「普遍」として押しつけてきたか」という問いを投げかけた。
この問いは——神学の誠実さの問いとして、今日も立っている。
次章では、ポストモダンの時代に「聖書の物語(Narrative)」を神学の中心に置く「ポストリベラル神学(Postliberal Theology)」と「ナラティブ神学(Narrative Theology)」を見ていく。ジョージ・リンドベック・ハンス・フライ・スタンレー・ハワーワスらが提唱した「物語としての神学」——「命題的真理」でも「体験的表現」でもなく「共同体を形成する文法」としての教義——という理解は、20世紀末のプロテスタント神学に新しい活力をもたらした。
