第10章 支援が制度に回収される瞬間
――善意が管理に変わるとき
一人の精神保健福祉士の話を聞いたことがある。
彼女は学生時代、精神科病院の長期入院患者たちと出会い、「この人たちが地域で生きられるよう支援したい」という強い思いで福祉の道に入った。就職した相談支援事業所では、当初、一人一人の生活に丁寧に関わることができた。利用者と一緒に買い物に行き、話を聞き、その人が本当に望んでいることを探ろうとした。
しかし数年が経つうちに、仕事の中心は書類作成になっていった。個別支援計画の作成、モニタリング記録、サービス利用計画の更新、実績報告。これらは制度上必要なものだ。しかし書類に費やす時間が増えるにつれて、利用者と向き合う時間は減っていった。
ある日、彼女は利用者の一人から言われた。「最近、先生と話せてないね」。
彼女はその言葉が刺さったと言った。「支援しているつもりだったのに、いつの間にか制度を回していた」と。
この言葉の中に、本章が論じることの核心がある。
制度とは何か――善意を形にするもの
支援の制度は、善意から生まれる。
精神科医療制度は、精神疾患で苦しむ人を助けたいという社会の意志の制度的表現だ。生活保護制度は、生活に困窮した人を社会全体で支えるという理念を形にしたものだ。障害福祉制度は、障害を持つ人々が地域で生きられるよう、社会が支える仕組みだ。
制度は、善意を持続可能にする。個人の善意は、その人の体力・時間・財力によって限界がある。しかし制度化された善意は、特定の個人に依存しない形で、より多くの人に届く可能性を持つ。制度は、スケールと持続性を善意に与える。
しかし制度は同時に、善意を変質させる。
なぜか。制度は、複数の目的を同時に持つからだ。支援の目的と、管理の目的と、コスト抑制の目的と、政治的な目的が、制度の中に重なっている。これらの目的は常に一致するわけではない。そして多くの場合、管理とコスト抑制の論理が、支援の論理を押しのける。制度は、支援の言語を語りながら、管理の論理で動く。
「測定できるもの」への収斂
現代の支援制度が持つ最も強力な変質の力は、「測定できるもの」への収斂だ。
制度は説明責任を要求する。税金が使われている以上、その効果を示さなければならない。効果を示すためには、測定が必要だ。測定するためには、数値化が必要だ。こうして、支援の成果は数値で語られるようになる。
精神科医療でいえば、入院日数の短縮、再入院率の低下、GAF(全体的機能評価)スコアの上昇、就労率の向上――これらが成果指標として使われる。障害福祉でいえば、サービス利用率、就労移行者数、地域定着率などが指標になる。
数値化には、正当な理由がある。「何となく良くなった気がする」では、資源配分の根拠にならない。制度の効果を客観的に評価し、より効果的な支援に資源を振り向けるためには、測定が必要だ。この論理は正しい。
しかし測定できることと、重要なことは、しばしば一致しない。
前章で論じた「存在の承認」は測定できない。「この人と話すことで、自分が人間として扱われていると感じた」という体験は、指標に現れない。「何年もかけて、この支援者との関係の中で、少しずつ自分を信頼できるようになった」という変化は、モニタリング記録には書けない。
測定できないものは、制度の中では「ないもの」として扱われる。すると、支援者の行動は自然に測定できるものへと向かう。書類を充実させ、指標を達成し、記録に残るものを増やす。測定できないが重要なことに使う時間は、制度的には「何も生産していない時間」として扱われる。
こうして、支援の質の核心が、制度の論理によって周縁化される。
「ニーズ」から「サービス」への変換
支援の制度化が引き起こす、もう一つの重要な変質がある。
「その人のニーズ」が「利用できるサービスの種類」に変換される過程だ。
人のニーズは、複雑で個別的で、しばしば言語化が難しい。「誰かにそばにいてほしい」「自分が意味のある存在だと感じたい」「この混乱した気持ちを受け止めてほしい」――これらは切実なニーズだが、制度的なサービスのカテゴリーには収まりにくい。
制度は、予め定められたサービスのメニューを持っている。就労支援、生活訓練、居宅介護、相談支援、グループホーム入居――これらのサービスは、特定のニーズに応えるよう設計されている。しかし人のニーズがこれらのカテゴリーと一致するとは限らない。
この不一致を解決する方法は、二つある。一つは、ニーズに合わせてサービスを作ること。もう一つは、サービスに合わせてニーズを記述すること。前者は理想だが、制度的・財政的なコストが高い。後者は現実的だが、ニーズの歪曲をもたらす。
実際の制度の場では、後者が多く行われる。「この人が本当に必要としているのは誰かと話すことだが、制度上は居宅介護として申請する」という形の読み替えが、日常的に起きる。ニーズが制度の言語に翻訳されるとき、翻訳の過程で何かが失われる。
さらに深刻なのは、この変換が繰り返されることで、支援者自身がニーズを制度のカテゴリーで考えるようになることだ。「この人には何が必要か」ではなく「この人にはどのサービスが使えるか」から思考が始まる。制度の言語が、支援者の認識そのものを変えていく。
「支援者」が「管理者」になる瞬間
個人の支援者が制度の論理に飲み込まれていく過程には、段階がある。
最初の段階は「適応」だ。制度のルールを覚え、書類の書き方を習得し、制度の中で動けるようになる。これは当然必要なことだ。
次の段階は「内面化」だ。制度の論理が、支援者自身の思考の枠組みになる。「この人には何が必要か」を考えるとき、無意識に制度的な実現可能性を計算するようになる。「本当はこうすべきだが、制度上できないから」という思考が常態化する。
そして問題の段階は「代替」だ。制度の要求が、支援者の倫理的判断を置き換える。「これは人として正しいか」ではなく「これは制度上正しいか」が判断の基準になる。記録に残すことが目的になり、支援そのものが手段に変わる。利用者は「ケースの数」になり、「個別支援計画の対象」になる。
この段階への移行は、劇的に起きるわけではない。少しずつ、気づかないうちに進む。一つ一つの妥協は小さく、その都度合理的な理由がある。しかし積み重ねると、出発点から大きく離れた場所にいる自分に気づく。冒頭の精神保健福祉士が経験したことは、まさにこれだ。
「コンプライアンス」という概念の政治性
精神医療の制度の中で、「コンプライアンス(compliance)」という言葉が長らく使われてきた。服薬遵守・治療遵守という意味で使われるが、原語のcompliance は「従順さ」「服従」を意味する。
患者が医師の指示通りに薬を飲み、指定された通院を守り、推奨された生活習慣を実行すること。これをコンプライアンスと呼ぶとき、そこには明確な権力関係が内在している。医師が決め、患者が従う。患者が「従わない」場合は、治療への抵抗として扱われ、問題のある患者として記録される。
近年、コンプライアンスに代わって「アドヒアランス(adherence)」という言葉が使われるようになった。これは、患者が主体的に治療に参加することを意味し、より対等な関係を前提にしている。言葉は変わった。しかし実際の制度の中での力学は、どれほど変わったか。
「治療に従わない患者は管理が難しい」という認識は、制度の中に根強く残っている。強制入院・強制治療の制度は、この認識の制度的表現だ。「患者のために、患者の意志に反して治療を行う」という論理は、善意の顔をした管理だ。このことは、精神医療制度の持つ根本的な緊張の一つとして、常に問われ続けなければならない。
「支援の産業化」という問題
二〇〇〇年代以降、日本の障害福祉は大きく変化した。
支援費制度の導入(二〇〇三年)、障害者自立支援法(二〇〇六年)、障害者総合支援法(二〇一三年)という流れの中で、障害福祉サービスは「市場」として整備された。事業者が参入し、利用者が選択し、費用が支払われる。福祉の「準市場化」だ。
この変化には、利用者の選択肢を増やし、サービスの質を競争によって高めるという目論見があった。それは一定程度実現した。多様なサービスが生まれ、以前は存在しなかった支援の形が作られた。
しかし同時に、支援が「産業」になったことの問題も生まれた。
事業者は経営的な持続可能性を考えなければならない。利用者数を確保し、報酬を得て、人件費・運営費を賄う。この経営論理は、支援の論理と常に一致するわけではない。「この利用者には、今は距離を置くことが大切だ」という臨床的判断は、「利用回数を増やして報酬を確保する」という経営的要請と矛盾する。
また、競争の中で差別化を図ろうとする事業者は、「回復率が高い」「就労実績がある」という成果を前面に出す。これは「回復しやすい利用者」を集め、「回復が困難な利用者」を遠ざけるインセンティブを生む。最も支援を必要とする人が、最も支援から遠ざかる構造だ。これを「クリームスキミング」と呼ぶ。福祉の市場化が引き起こす、この逆説的な排除は、制度設計の根本的な問題だ。
それでも制度の中で働くこと
ここまで、支援が制度に回収される過程を批判的に描いてきた。しかしここで立ち止まる必要がある。
制度の問題を指摘することは、制度の中で働く人々を批判することではない。制度の中で、その限界と緊張を抱えながら、それでも誠実に支援しようとしている人々が無数にいる。冒頭の精神保健福祉士も、その一人だ。書類作成に追われながらも、「利用者と話せていない」という違和感を持ち続けた彼女は、制度に完全には飲み込まれていない。
その違和感こそが、倫理の萌芽だ。
制度に完全に適応した支援者は、制度を問わない。「決まっていることだから」「ルールだから」「書類が必要だから」という理由で動き、その理由を問わない。しかし違和感を持ち続ける支援者は、「本当にこれでいいのか」と問い続ける。その問いが、制度の変革の小さな種になる。
制度の中で働きながら、制度を問うこと。従いながら、抵抗すること。これは矛盾しているように見えるが、実践の倫理としてはこの矛盾を抱えることが必要だ。完全な制度への服従でも、制度からの完全な離脱でも辿り着けない場所に、倫理的な実践はある。
「関係」が残るとき
制度が支援を変質させる力は強い。しかしそれでも、制度の隙間に、変質しきらないものが残ることがある。
それは「関係」だ。
書類には書けない、指標には現れない、モニタリングでは確認できない、しかし確実に存在する何かが、長い支援関係の中に積み重なることがある。支援者と当事者の間に育つ信頼、「この人は私を人間として見ている」という感覚、「何かあったときにここに来られる」という安心感。これらは制度的なサービスとしては定義できないが、回復を支える最も根本的な基盤になりうる。
精神科の治療効果研究が繰り返し示してきたことの一つは、どんな治療法でも、治療者と患者の関係の質が成果に大きく影響するということだ。「共通因子(common factors)」と呼ばれるこの関係性の力は、特定の技法や薬物よりも、多くの場合において成果を左右する。
制度は関係を管理しようとする。スーパービジョン、境界設定、専門的距離の保持――これらは関係を規律する制度的な装置だ。それらには正当な理由がある。しかし過剰に管理された関係は、関係の持つ治癒的な力を損なう。
制度の隙間で育つ関係。管理されきれない人間的な接触。それが、制度に回収されない支援の最後の砦だと私は思う。
「最近、先生と話せてないね」
利用者の言葉は、制度が奪ったものを正確に指し示していた。書類でも、指標でも、サービスでもなく、「話すこと」「そこにいること」「関係すること」。それが支援の核心だと、制度に追われる日常の中で忘れかけていたことを、利用者が静かに思い出させた。
制度は、支援を可能にする。しかし支援は、制度を超えたところにある。
この緊張を、支援者は一人一人の実践の中で生き続けなければならない。
