第12章 回復モデル以後の支援思想

第12章 回復モデル以後の支援思想

――改善から関係へ、目標から持続へ


 ある夜、研修医だった頃の記憶がある。

 担当していた患者が、深夜に病棟で泣いていた。四十代の女性で、うつ病の急性期を過ぎ、回復の途上にあると思われていた時期だった。私は声をかけ、しばらく並んで座った。何も言えなかった。何を言えばいいかわからなかった。治療的に何もできていないという焦りがあった。ただそこにいるだけだった。

 翌日、その患者は言った。「昨夜、先生がそばにいてくれて、少し楽になりました」

 私は驚いた。何もしていないのに、と思った。いや、正確には、何もできなかったのに、と思った。しかし後になって、この経験が私の中で少しずつ意味を持ち始めた。

 「何かをする」ことと「そこにいる」ことは、違う。そしてときに、「そこにいること」の方が、「何かをすること」よりも深く人に届く。

 本章は、この経験から考え始めたことを、思想の言葉で展開しようとする試みだ。


「改善モデル」の自明性を問う

 現代の精神医療と福祉支援は、暗黙のうちに「改善モデル」を前提にしている。

 改善モデルとは、支援の目的は当事者の状態を改善することだという前提だ。症状を減らし、機能を高め、生活の質を向上させ、社会参加を促進する。この前提は、あまりにも自明のものとして受け取られているため、問い直されることがない。「支援の目的は改善でなくて何なのか」という反論が、すぐに浮かぶだろう。

 しかし本書がここまで論じてきたことを踏まえると、この自明性には疑問を向けることができる。

 改善モデルは、まず「現在の状態は不十分だ」という評価を前提にする。改善すべきということは、今は良くないということだ。支援を受けるすべての人が、まず「不十分な状態にある者」として定義される。この定義は、その人の尊厳にとって中立ではない。

 改善モデルは次に、「より良い状態」の像を必要とする。改善の方向が決まらなければ、改善を目指せない。この「より良い状態」は、誰が決めるか。制度であれば、就労・自立・地域生活という社会規範に沿った状態だ。専門家であれば、機能的な状態の回復だ。当事者が決めることもあるが、当事者の選択は制度と専門家の枠組みの中で行われる。

 そして改善モデルは、時間を「現在から未来への前進」として捉える。今の状態は通過点であり、より良い未来に向かって進むことが支援の方向だ。この時間観の中では、前進しない時間は「停滞」であり、後退は「失敗」だ。

 この三つの前提を並べると、改善モデルが一定の思想的立場に立っていることが見えてくる。それは、変化を善とし、現状を仮のものとし、目標を外から与えることを自然とする立場だ。


「関係モデル」への転換

 改善モデルに代わる支援の思想として、私は「関係モデル」と呼びたいものを提案したい。

 関係モデルの核心は、支援の目的を「改善の達成」から「関係の持続」に移すことだ。

 関係の持続、とはどういうことか。

 当事者が今どのような状態にあっても、支援者との関係が切れないということだ。改善しても、悪化しても、停滞しても、「回復への意欲を失っても」、その人と支援者の関係は続く。条件なしに続く。これは一見当然のことのように聞こえるが、実際の制度の中では当然ではない。

 現代の支援制度の多くは、暗黙のうちに「積極的な支援を要する状態にある人」を対象としている。状態が安定した人は「卒業」し、支援から離れる。これは資源の効率的な配分という観点からは合理的だ。しかし「卒業した」人が再び苦しむとき、もう一度支援にアクセスするハードルは高い。また、「卒業を目指さない」人は、制度の中で宙吊りになりやすい。

 関係モデルは、この「条件付きの支援」を問い直す。支援者との関係は、当事者の状態の改善によって終わるものではなく、その人が生きている間、必要に応じて続くものだという考え方だ。


「目標」から「持続」へ

 関係モデルへの転換と並行して、もう一つの転換が必要だ。「目標の達成」から「持続の支援」への転換だ。

 目標達成型の支援は、明確なゴールを設定し、そこに向かって進むことを支援の構造とする。SMART目標(具体的・測定可能・達成可能・関連性のある・時間的に定まった目標)の設定は、その典型だ。目標が達成されれば成功、達成されなければ失敗か計画の修正、というサイクルが繰り返される。

 この構造は、短期的・可逆的な問題には有効だ。しかし慢性的・複雑な問題を持つ人への支援においては、目標の設定そのものが暴力的になりうる。

 「就労を目標にしましょう」と言われるとき、就労できない現在の状態は「目標に届いていない状態」として評価される。「人とつながることを目標にしましょう」と言われるとき、孤立している現在は「達成できていない状態」だ。目標の設定は、現在の否定を含んでいる。

 持続の支援とは、目標を持たないということではない。当事者が望む目標に向かう支援はもちろん必要だ。しかしその目標が達成されない時間、目標が変わる時間、目標を持てない時間においても、支援が続くということだ。目標の達成が支援の継続条件ではないということだ。

 目標のない時間にも、人は生きている。そしてその時間にも、支援が必要なことがある。


「温存的精神療法」という考え方

 ここで、私が長年考え続けてきた「温存的精神療法」という概念を紹介したい。

 温存的精神療法とは、患者が本来持っている、病を引き受けて乗り越えるための自然な時間的プロセスを、システムの圧力から守り抜くことを中心に置く支援の考え方だ。

 人間には、病んだとき自然に回復しようとする力がある。身体の傷が自然に癒えるように、心の傷にも自然な回復のプロセスがある。精神医療の本来の役割の一つは、この自然なプロセスを妨げる要因を取り除き、プロセスが進むための条件を整えることだ。

 「温存」という言葉には、二つの意味がある。一つは、当事者の内的な回復プロセスを「温存」すること、すなわち守り抜くことだ。もう一つは、当事者の固有性――その人ならではの生き方、感じ方、意味づけの仕方――を「温存」すること、すなわち変えずに保つことだ。

 後者は特に重要だ。支援の場では、しばしば「その人を変えること」が支援として行われる。認知を変え、行動を変え、習慣を変え、思考パターンを変える。これらは有効な場合がある。しかし「変えること」の前に、「その人であること」を肯定することが必要だ。今のその人の感じ方・考え方・生き方を、まず受け取ること。変えることの前に、承認すること。

 温存的精神療法は、この承認を出発点に置く。


「最適誤差」という視点

 温存的精神療法を基礎づける考え方として、私は「最適誤差」という概念を用いている。

 予測処理理論という神経科学・認知科学の枠組みがある。脳は常に世界についての予測モデルを作り、実際の感覚入力との「誤差」を計算しながら、モデルを更新し続けているという理論だ。精神疾患は、この予測とその修正のプロセスの障害として理解できるという研究が、近年急速に進んでいる。

 この枠組みから見ると、精神の健康とは「誤差がない状態」ではない。完全に予測通りの世界は、新しい情報を取り込めない硬直した世界だ。しかし誤差が大きすぎる世界は、混乱と圧倒の世界だ。健康とは、適切な大きさの誤差を維持できること、すなわち「最適誤差」の状態だ。

 この視点から精神疾患を見ると、それは「誤差量の異常」ではなく、「誤差の調整機構の障害」として読める。統合失調症は、予測誤差のゲインが過剰に高まり、些細な情報が大きな意味を持ってしまう状態として理解できる。うつ病は、誤差修正への動機づけが失われ、世界への関与が停止する状態として理解できる。

 この枠組みが支援の思想に持つ含意は何か。

 「誤差を消すこと」が支援の目標ではないということだ。誤差は生の活力の源だ。感動も、創造も、学びも、誤差から生まれる。ゴッホの絵画の独自性も、バッハの和声の複雑さも、その作者の「誤差の特異性」と関係しているかもしれない。その誤差を「正常化」することが、果たして支援なのか。

 温存的精神療法は、その人の誤差のパターン、その人固有の世界との関わり方を、まず肯定する。その上で、誤差が適切な範囲を超えて苦しみをもたらしているとき、その調整を支援する。消去ではなく、調整。矯正ではなく、同伴。


「Holding」という支援の形

 英国の精神分析家ドナルド・ウィニコットは、「Holding(抱えること)」という概念を提唱した。

 乳児が不安や苦痛を体験するとき、母親はそれを「抱える」。泣く赤ちゃんをすぐに泣き止ませることを目指すのではなく、その苦痛の体験を共に引き受けることを「抱える」と呼んだ。この抱えることによって、乳児は「自分の苦痛は耐えられないものではない」「誰かが共にいてくれる」という体験を積み重ね、情動的な調整能力を育てていく。

 この概念を、成人への精神療法に応用すると、支援の本質が見えてくる。

 患者の苦しみを「解決する」のではなく、「抱えること」。解決できなくても、その苦しみと共にいること。苦しみを消そうとするのではなく、苦しみの中でその人が一人でないようにすること。これが、関係モデルの核心にある支援の形だ。

 Holdingとしての支援は、成果指標に現れにくい。「苦しみを抱えた」という記録は書けない。しかしウィニコットが示したように、この「抱えること」こそが、人間の情動発達と回復の根本的な基盤だ。測定できないが、最も重要なことの一つだ。


「不完全性の肯定」という倫理

 関係モデル・温存的精神療法が辿り着く思想的な地点を、「不完全性の肯定」と呼びたい。

 改善モデルは、不完全な状態を「まだ完全でない」として暫定的に扱う。完全な状態、理想的な状態に向かって進むことが方向性だ。しかし人間はもともと、不完全な存在だ。完全な精神的健康、完全な社会適応、完全な自己実現――これらは到達可能な目標ではなく、漸近線だ。どこまでも近づけるが、到達しない。

 不完全性の肯定とは、「不完全でいい」という開き直りではない。不完全であることが、人間の条件だという認識だ。その認識の上に立つとき、支援の意味が変わる。

 支援は、不完全な存在を完全な状態に導くことではない。不完全な存在が、不完全なままで生きることを支えることだ。傷を完全に癒すことではなく、傷を持ちながら生きることを可能にすることだ。苦しみを消すことではなく、苦しみと共にあることを可能にすることだ。

 この思想は、西洋的な「完成・到達・克服」の物語とは異なる時間観を持つ。「未完のまま続く」という時間観だ。日本の美意識にある「わび」「さび」「不完全の美」の感覚は、この時間観と通じるものを持つかもしれない。壊れた茶碗を金で継ぐ金継ぎの美学は、欠けた部分を隠すのではなく、欠けた痕跡そのものを価値として認める。支援における「不完全性の肯定」も、これに似た感覚に基づいている。


関係モデルの実践的含意

 関係モデルと温存的精神療法は、抽象的な思想にとどまらず、具体的な実践への含意を持つ。

 第一に、長期的な関係の制度的保障だ。当事者の状態が変化しても、支援者との関係が切れない仕組みが必要だ。「状態が安定したから終結」ではなく、「この人が生きている間、何かあればここに来られる」という関係の持続が、制度的に可能になるよう設計されるべきだ。

 第二に、「何もしない支援」の承認だ。支援者が当事者のそばにいながら、特定の技法も介入も行わない時間を、「支援の空白」として評価するのではなく、「Holdingとしての支援」として評価すること。記録の書き方、報酬の仕組み、スーパービジョンの内容が、この転換に対応する必要がある。

 第三に、「悪化を支援する」という発想だ。回復の方向に動くときだけでなく、悪化するとき、後退するとき、停滞するときにも、支援は続く。悪化は「支援の失敗」ではなく、その人の生の一部だ。悪化した当事者が「支援者に申し訳ない」と感じる必要のない関係を作ること。

 第四に、支援者自身のWellbeingだ。関係モデルは、支援者に大きな感情的負荷をもたらす可能性がある。「抱えること」は、抱える側も抱えられる必要がある。支援者が燃え尽きなければこそ、長期的な関係の持続が可能になる。支援者を支える仕組み、スーパービジョン、チームでの共有、適切な休息――これらが、関係モデルの実践を支える基盤だ。


回復モデルとの統合へ

 本章で提示した関係モデル・温存的精神療法は、回復モデルを否定するものではない。

 回復モデルが本来持っていた問い――精神疾患を持つ人の尊厳、自己決定の権利、社会参加の可能性――は正しい。その問いは今も正しい。回復モデルが反体制的な思想として持っていた「当事者は自分の生の主体だ」という宣言も、今も必要だ。

 しかし回復モデルが制度化・規範化される過程で失ったものがある。「回復できない人」の居場所、「回復を目指さない時間」の価値、「変わらないこと」の倫理的な重み。これらを回収することが、回復モデルを「救い直す」ことだ。

 回復モデルの目指すものと、関係モデルが目指すものは、最終的には同じところに向かっている。「精神疾患を持つ人が、尊厳をもって生きること」だ。ただ、そこへの道が一本ではないこと、「回復という道」だけでなく「回復しないという道」も同じ尊厳を持つことを、関係モデルは付け加える。

 どのような状態にあっても、その人の傍に誰かがいる。その関係が切れない。それが、支援のもっとも根本的な形だと私は考える。


 深夜の病棟で、泣いている患者のそばに黙って座った、あの夜のことを思う。

 私はその時、何も「していなかった」。技法もなく、介入もなく、計画もなかった。ただそこにいた。

 しかし今の私には、あの時間が持っていた意味が少し見える。「何かをする」支援者ではなく、「そこにいる」支援者として、私はその夜、その患者の傍にいた。そしてその「いること」が、何かを届けた。

 改善でもなく、回復でもなく、ただ「共にいること」。

 それが支援の原点であり、どれほど制度が複雑になっても、失ってはならないものだと、私は思っている。

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