第3章 なぜ危機は「怒り」にならないのか
――超自我化する国家とアパシーの社会心理
フランスでは、燃料税の引き上げに反対する市民が「黄色いベスト」を着て街頭に出た。韓国では、大統領の不正が発覚するたびに、数十万人が広場に集まってキャンドルを灯した。チリでは地下鉄の運賃値上げが大規模な抗議運動の引き金になり、政府は憲法改正を余儀なくされた。
では日本はどうか。
非正規雇用が拡大し、物価が上がり、医療が縮小し、少子化が止まらず、財政の持続可能性が問われる中で、街頭は静かだ。選挙の投票率は低下を続け、若い世代ほど政治への関心が薄い。怒りの声が上がっても、それは小さく、散発的で、制度を動かすほどの力を持たない。
これは日本人が苦しんでいないということではない。苦しんでいる。しかしその苦しみが「怒り」に変換されず、政治的な言語を持たず、運動にならない。
なぜか。
この問いは、経済学や政治学だけでは答えられない。心理学的・精神医学的な視点が必要だ。本章ではその問いを、「超自我」という概念を手がかりに解いていく。
怒りとは何か――感情の社会的機能
まず、怒りという感情の本質から始めよう。
怒りは、不快な刺激に対する反応だ。しかしそれだけではない。怒りは「この状況は不当だ」という認知的な判断を伴う。理不尽なことが起きているとき、人は悲しむだけでなく、怒る。怒りは、状況を変えようとするエネルギーを生む。だから怒りは、社会変革の原動力になりうる。歴史上の多くの革命や改革運動は、怒りから始まっている。
逆に言えば、怒りが生じるためには二つの条件が必要だ。一つは「これは不当だ」という認識。もう一つは「変えられるかもしれない」という感覚だ。この二つのどちらかが欠けると、怒りは生まれない。理不尽だとは思うが変えられないと感じるとき、怒りは諦念に変わる。そもそも「不当かどうか」の判断が内側から封じられているとき、不満は感じても怒りにはならない。
日本社会の「静けさ」を読み解く鍵は、この二つの条件がどのように阻害されているかにある。
超自我とは何か――内面化された「命令」
フロイトは、人間の心を三つの層に分けて考えた。「エス(id)」は欲動の貯蔵庫だ。「自我(ego)」は現実と折り合いをつける調整役だ。そして「超自我(superego)」は、親や社会からの規範・命令が内面化されたものだ。
超自我をわかりやすく言うと、「頭の中にいる批判者」だ。何か悪いことをしようとしたとき、あるいは社会規範から逸脱しようとしたとき、内側から「それはいけない」「恥ずかしい」「お前は間違っている」という声が聞こえる。この声は、外から誰かに言われているわけではない。かつて言われ続けた言葉が、いつの間にか自分の声になっているのだ。
健全な超自我は、社会生活を可能にする。しかし過剰な超自我は、人を縛り、自由を奪い、自己批判の深みに引きずり込む。うつ病の患者に強い自己批判が見られるのは、しばしばこの超自我の過剰活性と関係している。
ここで重要な問いが生まれる。この超自我の「声」は、親からだけ来るのか。それとも、社会や国家からも来るのか。
答えは明らかに後者だ。「勤勉であるべきだ」「迷惑をかけてはいけない」「空気を読むべきだ」「自分のことは自分で何とかするべきだ」――これらは親の声でもあり、学校の声でもあり、職場の声でもあり、社会全体が発し続けてきたメッセージだ。そしてそれが内面化されたとき、外からの強制なしに、人は自らを縛るようになる。
日本の超自我的文化規範
日本社会には、超自我として機能する文化的規範が特に強く存在する。
まず「恥の文化」だ。文化人類学者のルース・ベネディクトは、西洋を「罪の文化」、日本を「恥の文化」と特徴づけた。単純化しすぎという批判もあるが、行動の規制が「神に対する罪の意識」よりも「他者からどう見られるか」によって行われやすい傾向は、日本社会に確かに存在する。「人に笑われる」「恥ずかしい」「みっともない」という感覚が、行動を強力に抑制する。
次に「同調圧力」だ。集団の中で突出することへの恐れ、「出る杭は打たれる」という規範は、異議申し立てを社会的コストの高い行為にする。デモや抗議活動に参加することは、欧米の多くの社会では市民的行為として普通に認められているが、日本では「過激」「迷惑」「非常識」という烙印を押されるリスクを伴う。
そして「自己責任論の内面化」だ。前章でも触れたが、新自由主義的な自己責任論が文化的な規範として定着することで、「困難は自分のせいだ」という認識が広がる。自分のせいであれば、怒りは外に向かわず、内に向かう。社会への不満は、自己嫌悪に変換される。
これらの規範が組み合わさると、非常に強固な「内的検閲」の体制が出来上がる。怒りを感じること自体は止められないが、その怒りを外に向けて表現しようとする段階で、内なる批判者が立ちはだかる。「わがままだ」「そんなことで騒ぐな」「みんなも苦しいのだから」「どうせ変わらない」という声が、表現を封じる。
アパシーという防衛
精神医学的な観点から見ると、無気力(アパシー)はしばしば「感情の防衛機制」として現れる。
処理しきれないほどの苦痛や矛盾にさらされ続けるとき、人は感情を切断することで自己を守ろうとする。怒りも悲しみも、喜びも期待も、すべて薄くなる。感情が動かなければ、傷つかない。これはある意味で、生き延びるための適応だ。
社会レベルでも、同じことが起きているのではないかと私は思う。変わらない状況に何度もぶつかり続けた結果、人々は「感情を投資しない」ことを学ぶ。政治家の失言があっても、財政の悪化が報じられても、「またか」という反応に留まり、深く関与しない。これは無知から来るのではなく、知った上で感情を守るための、一種の学習された無力感だ。
心理学者のマーティン・セリグマンが「学習性無力感」と呼んだ現象がある。何をしても状況が変わらないと繰り返し経験した動物や人は、やがて変えられる状況に置かれても行動しなくなる。「どうせ無駄だ」という信念が、行動の可能性を消してしまう。日本社会の政治的アパシーの相当部分は、この学習性無力感によって説明できるのではないか。
怒りが「内向き」になるとき
怒りが外に向かわないとき、それはどこへ行くのか。
一つは自己攻撃だ。先に述べたように、問題の原因が自分に帰せられると、怒りは自責感・羞恥心・抑うつとして現れる。「こんな社会を変えられない自分が悪い」「こんな状況で病むのは弱い自分が悪い」という形で、エネルギーが内側に向かう。
もう一つは、弱い者への攻撃だ。上に向かえない怒りは、しばしば横や下に向かう。外国人・生活保護受給者・障害者・「弱者」とされる人々への攻撃として現れることがある。「あいつらが得をしている」という論理は、構造への怒りが、より攻撃しやすい対象に転移した結果として読める。SNS上のヘイトスピーチや、「弱者叩き」と呼ばれる現象の背後に、この転移した怒りが流れ込んでいる。
いずれの場合も、社会の構造は傷つかない。怒りは構造の外側で消費され、構造は維持される。
「諦念」という名の合理性
ここで一つ、公平のために付け加えなければならない。
日本人の「静けさ」を、単純に「洗脳された受動性」として批判することは正確ではない。「どうせ変わらない」という諦念は、ある意味で正確な現実認識でもある。
日本の選挙制度は、一票の格差が大きく、都市部の若い有権者の声が届きにくい構造を持つ。政治献金や組織票の影響力が大きく、無党派層が政治を動かすことには構造的な限界がある。何度選挙に行っても、何度署名しても、大きな構造が変わらないという経験を重ねた人が「政治に関わっても意味がない」と思うのは、現実認識として完全に間違いとは言えない。
問題は、その「正確な現実認識」が、変化の可能性を完全に閉じてしまうことだ。構造は変えられないという信念が、構造を変えようとする試みを抑圧し、その結果として構造が変わらないことを確認し、信念をさらに強化する。これは自己成就的な予言だ。閉じた円環の中に、社会が閉じ込められている。
診察室から見える「沈黙の政治学」
精神科の診察室に座っていると、この「内向きになった怒り」の堆積を日々目撃する。
患者が語る言葉の多くは、自分への批判だ。しかし丁寧に話を聴いていると、その批判の裏に、誰かへの、何かへの、言葉にならない怒りが潜んでいることがわかる。理不尽な職場環境への怒り。支えてくれなかった家族への怒り。自分をここまで追い込んだ社会への怒り。しかしその怒りは、「怒り」として意識されていない。代わりに「私がいけなかった」「私が弱かった」という言葉で語られる。
治療の過程で、その人が怒りを取り戻すことがある。「これは私のせいじゃなかった」と気づく瞬間がある。その瞬間は、しばしば回復の転機になる。自責が薄らぎ、エネルギーが少し外に向き始める。
社会レベルでも、同じことが必要なのではないかと私は思う。「これは私たちのせいではなく、構造の問題だ」という認識を共有すること。その認識が、怒りを取り戻し、言葉を取り戻し、行動を取り戻す出発点になる。
怒りは、破壊のエネルギーである前に、「これは不当だ」という人間の尊厳の表現だ。その怒りを内側に押し込めることを強いる社会は、人々の尊厳を少しずつ消耗させている。
診察室で私が日々目撃しているのは、その消耗の痕跡である。
