第6章 医療・福祉という最後の緩衝材

第6章 医療・福祉という最後の緩衝材

――なぜここにすべてが押し寄せるのか


 「先生、もうここしかないんです」

 そう言って診察室に来る人がいる。

 仕事を失い、家族とも疎遠になり、行政の窓口をいくつか回ったが「うちの管轄ではない」と言われ続け、最後に精神科にたどり着いた、という人だ。その人の抱える問題は、精神医学的な症状だけではない。住む場所の問題、収入の問題、人間関係の問題、将来の問題が、一人の人間の中に折り重なっている。

 私は医師だから、できることとできないことがある。薬を処方し、話を聴き、必要であれば他の支援につなぐことはできる。しかし家賃を払うことはできないし、仕事を見つけてあげることもできないし、壊れた家族関係を修復することもできない。

 それでも「もうここしかない」と言われる。

 この言葉の重さを、私はずっと考え続けている。なぜ精神科が「最後の場所」になるのか。それは医療の問題ではなく、社会の構造の問題だと、今の私は思っている。


緩衝材とはどういう意味か

 「緩衝材」という言葉を使う。

 緩衝材とは、硬いものと硬いものの間に挟まれて、衝撃を吸収するものだ。荷物を包む気泡シートや、自動車のバンパーがそれにあたる。緩衝材は、衝撃を消すのではなく、受け止めて分散させることで、より脆いものを守る。

 現代日本において、医療と福祉はこの「緩衝材」の役割を担わされている。経済的な矛盾、政治的な失敗、社会的な孤立、家族機能の崩壊――これらが生み出す苦しみを、医療と福祉が吸収し、受け止め、個人の問題として処理する。

 緩衝材であることは、悪いことではない。苦しんでいる人を支えることは、医療と福祉の本質的な使命だ。しかし問題は、緩衝材が薄くなっているのに、衝撃が増していることだ。医療費が抑制され、福祉の担い手が不足し、制度が縮小されていく一方で、医療と福祉に押し寄せる社会的な問題は増え続けている。薄くなった緩衝材に、より大きな衝撃が加わっている。

 その結果が、臨床現場の疲弊だ。


「社会的な病」が「医療的な病」に変換される回路

 社会問題が医療問題に変換される回路を、具体的に描いてみよう。

 たとえば、長時間労働の問題を考える。日本の長時間労働は、構造的な問題だ。人手不足、成果主義の歪み、「残業は美徳」という文化的規範、これらが絡み合っている。本来これは労働政策・経営管理の問題だ。しかし長時間労働を続けた人が心を病んだとき、その人は精神科に来る。そこで「適応障害」「うつ病」という診断名がつき、「治療」が始まる。問題は「労働環境の是正」から「患者の治療」に変換されている。

 貧困の問題も同様だ。経済的な困窮は、精神的健康を著しく損なう。「貧困は心身を病ませる」という事実は、疫学的に繰り返し確認されている。貧困ゆえに病んだ人が診察室に来るとき、その人の苦しみの根本原因は経済的・社会的なものだ。しかし医師にできることは、その苦しみの症状を緩和することであり、経済構造を変えることではない。問題の変換が、ここでも起きている。

 孤立の問題もある。地域のつながりが失われ、家族の形が変わり、職場の人間関係が希薄になるにつれて、社会的孤立は深刻な問題になっている。孤立は、精神疾患の重要なリスク因子だ。孤立した人が精神科を受診するとき、孤立そのものは「社会の構造問題」であるのに、それが個人の「症状」として医療化される。

 この変換は、しばしば無意識のうちに起きる。患者も医師も、「問題を社会の構造から個人の症状へと読み替えている」という意識を持たないまま、医療的な枠組みの中で問題が処理されていく。


制度の隙間に落ちる人々

 現代日本の支援制度は、縦割りになっている。

 精神科医療は「病気」を扱う。生活保護は「貧困」を扱う。介護保険は「高齢者の身体機能の低下」を扱う。障害福祉は「障害」を扱う。就労支援は「労働」を扱う。それぞれの制度が、それぞれのカテゴリーに当てはまる人を支援する。

 しかし現実の人間は、複数の問題を同時に抱えている。精神疾患を持ちながら、貧困にあり、家族関係が壊れており、社会的にも孤立している人は珍しくない。このような人は、複数の制度のどれにも「完全には当てはまらない」ことがある。あるいは複数の制度に同時にアクセスしなければならないが、そのための情報も体力も気力もない。

 制度の隙間に落ちる。これが、支援を最も必要とする人が支援に届かない、逆説的な現象を生む。

 精神科の診察室には、この「隙間に落ちた人」が来ることが多い。他のどこにも行けなかった人が、最後に来る場所として精神科がある。それは精神科が万能だからではなく、精神科が「話を聴く」という機能を持っているからだ。どこにも当てはまらない複雑な問題を抱えた人が、とにかく話を聴いてもらえる場所として、精神科を選ぶ。


「医療化」という問題

 ここで「医療化(medicalization)」という概念を導入したい。

 医療化とは、本来医療の外にあった問題が、医療の枠組みで定義され処理されるようになることだ。社会学者のピーター・コンラッドが詳しく論じたこの概念は、現代社会の重要な特徴を捉えている。

 かつては「悪い子」「問題児」と呼ばれていたものが、「ADHD」という診断名を持つようになった。かつては「悲しみ」「気落ち」として社会的に処理されていたものが、「うつ病」という医療的カテゴリーに吸収されるようになった。かつては「老い」として受け入れられていたものが、「認知症」という治療すべき疾患として医療化された。

 医療化は、一方では人々への支援を可能にする。「病気」という枠組みに入ることで、保険が使え、専門家の支援が受けられ、社会的な配慮が得られる。これは当事者にとって重要な恩恵だ。

 しかし他方で、医療化は問題の政治性を隠蔽する。貧困が「うつ病」になるとき、解決すべきは経済政策ではなく患者の脳内物質の問題になる。孤立が「社交不安障害」になるとき、問われるべきは社会の構造ではなく個人の認知パターンになる。問題の社会的・政治的な次元が、医療的・個人的な次元に還元される。

 精神科医である私は、この医療化の両面を同時に生きている。患者を助けるために医療の枠組みを使いながら、その枠組みが問題の本質を隠す側面に自覚的でなければならない。これは簡単なことではない。日々の緊張の源でもある。


消耗する現場

 緩衝材が薄くなりながら衝撃が増すとき、何が起きるか。

 緩衝材そのものが壊れ始める。

 日本の精神科医療の現場は、慢性的な人手不足の中にある。精神科病院の看護師不足、精神科を専門とする医師の偏在、訪問看護や相談支援の担い手の不足。一方で、受診者数は増え続けている。うつ病・適応障害・発達障害・依存症・摂食障害――これらの診断を受ける人の数は、過去二十年で大きく増加した。

 増える需要と減る供給の間で、現場の臨床家は消耗する。一人の医師が一日に診る患者の数は増え、一人の患者に使える時間は減る。丁寧に話を聴きたくても、構造的に聴けない状況が生まれる。それは医師の能力や意欲の問題ではなく、制度と資源の問題だ。

 消耗した現場は、患者を十分に支えられなくなる。支えられない患者は状態が悪化し、より重篤な状態で再び現場に来る。現場はさらに消耗する。この悪循環は、個人の努力では止められない構造的な問題だ。

 さらに深刻なのは、消耗した臨床家が、自分の消耗の原因を社会構造ではなく自分自身に帰してしまうことだ。「もっと上手くやれれば」「自分が弱いから」「専門家として力が足りない」――これは第4章で論じた超自我的な自己責任論が、臨床家の内部にも侵入していることを示している。社会の構造問題が、個人の心理問題として再度変換される。医療化の連鎖が、臨床家自身の心理にまで及んでいる。


医療と福祉が「見えている」ということの意味

 しかしここで、別の視点からも考えたい。

 医療と福祉が、社会の矛盾の最終的な着地点になっているということは、言い換えれば、医療と福祉の現場こそが、社会の矛盾を最も鮮明に「見ている」場所だということでもある。

 政策立案者が統計の上で見ているものを、臨床家は人間の顔として見ている。「少子化率の悪化」が数字として語られるとき、精神科医は子育てに追い詰められた母親を診察室で見ている。「非正規雇用の拡大」が政策課題として論じられるとき、臨床家は不安定な収入と将来への絶望を抱えた三十代の男性を見ている。「孤独死の増加」が社会問題として報じられるとき、福祉職員はその予備軍を毎日訪問している。

 この「見ている」ということは、重要な認識論的位置だ。臨床の現場は、社会の矛盾が抽象から具体に変換される場所だ。数字が人間に戻る場所だ。

 だから、臨床家の声は本来、社会の構造を論じる際に、きわめて重要なデータを提供できる。しかし現実には、臨床家の声は政策の場で周縁化されやすい。「個別事例に引きずられている」「感情的だ」「エビデンスがない」という形で、臨床の知が制度の知から切り離される。この切り離しもまた、構造的な問題だ。


緩衝材の先に何があるか

 緩衝材が完全に壊れたとき、何が起きるか。

 それは、社会問題が「むき出し」になることだ。医療と福祉が吸収してきた矛盾が、吸収されなくなる。路上に人があふれ、犯罪が増え、家族が崩壊し、地域が機能不全に陥る。この段階に至れば、さすがに社会は問題に気づく。しかし対処のコストは、予防的に緩衝材を維持するコストの何倍もかかる。

 精神科医療で言えば、外来での早期支援を削減することで、入院・救急対応が増える。入院の方が、外来の何倍ものコストがかかる。短期的な節約が、中長期的な膨大なコストを生む。このことは、経済学的にも証明されている。

 それでも社会は、しばしば緩衝材を削ることを選ぶ。なぜなら、緩衝材の効果は見えにくいからだ。緩衝材があることで防がれた問題は、「起きなかった問題」として存在しない。起きなかった問題は、カウントされない。予防の効果は、常に政治的に不利だ。

 これは臨床家にとって、深く苦しい構造だ。自分たちの仕事の価値が、制度の論理では見えにくいという事実を抱えながら、それでも目の前の人を支えることを続けなければならない。


 「先生、もうここしかないんです」

 その言葉を、私はこれからも聴き続けるだろう。そしてできる限りのことをするだろう。

 ただ、同時に、この言葉が語っていることを、忘れないでいたいとも思う。「もうここしかない」という言葉は、その人の前にあったすべての場所が、機能しなかったということだ。家族が、地域が、職場が、行政が、順に機能しなかった後に、精神科がある。

 その事実を前に、私は医師として患者を診ながら、同時に、その事実を作り出している構造を、静かに、しかし確実に、問い続けたいと思っている。

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