第7章 回復モデルとは何だったのか

第7章 回復モデルとは何だったのか

――反体制的思想としての出発点


 一九七〇年代のアメリカに、一人の女性がいた。

 パトリシア・ディーガンという名の彼女は、十七歳のときに統合失調症と診断され、精神科病院に入院した。医師からは「この病気は慢性的なものであり、回復の見込みは薄い」と告げられた。彼女は後に、そのときの絶望をこう語っている。「私は生きているが、もはや生きることを望んでいなかった。私はただ、存在することをやめたかった」。

 しかし彼女は、存在することをやめなかった。長い時間をかけて、自分なりの生き方を取り戻していった。そして後に心理学者となり、「リカバリー(回復)」の概念を語る最も重要な声の一人になった。

 彼女が語り続けたのは、薬が効いたという話でも、症状が消えたという話でもなかった。「希望を持つ権利」「自分の人生の主体であることの権利」「精神科病院の外で生きる権利」――そういった話だった。

 回復モデルの思想は、こういう場所から生まれた。


精神科病院の「外」への意志

 回復モデルを理解するためには、それが生まれた時代の精神医療の状況を知る必要がある。

 二十世紀の中頃まで、重篤な精神疾患を持つ人々の多くは、精神科病院に長期入院することが「標準的な処遇」とされていた。退院は例外であり、多くの患者が数年、数十年にわたって施設の中で生を送った。病院の論理は明快だった。「患者は病んでいる。病んでいる間は管理が必要だ。管理のために施設が必要だ」。

 この論理への最初の本格的な挑戦は、一九六〇年代の「脱施設化(deinstitutionalization)」運動だった。精神科病院という閉じた施設への収容が、患者の人権を侵害し、回復を阻害しているという批判が、精神医学の内部からも外部からも起きた。イタリアでは精神科医フランコ・バザーリアが運動の先頭に立ち、精神科病院の廃止を実現した。アメリカでも、大規模施設から地域生活への移行が政策として推進された。

 この脱施設化の流れの中から、当事者たちの声が育っていった。「私たちのことを、私たち抜きに決めるな」というスローガンは、その精神を端的に表している。患者は医療の受動的な客体ではなく、自分の生の能動的な主体だ――この主張が、回復モデルの核心をなしている。


回復モデルの三つの柱

 回復モデルには、さまざまな定義と展開があるが、その中核にある考え方は、おおよそ三つの柱として整理できる。

 第一の柱は「希望」だ。回復モデルは、重篤な精神疾患を持つ人も、より良い生を生きることができるという希望を、その出発点に置く。「慢性的であり回復は望めない」という古い医学的悲観論に対する、明確な否定だ。この希望は、「症状が完全に消える」という意味での回復ではない。症状があっても、病と共存しながら、自分が意味ある生を生きられるという希望だ。

 第二の柱は「自己決定」だ。何を目標にするか、どんな生き方を望むか、どんな支援を受けるかを、当事者自身が決める権利を中心に置く。これは「好き勝手をしてよい」ということではなく、「自分の人生の主人公は自分だ」という宣言だ。医師が患者に「あなたのためになるものを決める」のではなく、当事者が「自分にとって意味のあるものを自分で選ぶ」プロセスを、支援者は支える側に回る。

 第三の柱は「社会参加」だ。精神疾患を持つ人が、施設の中ではなく、地域社会の中で生きる権利。働き、学び、人とつながり、地域の一員として存在する権利。これは単に「病院の外に出る」ということではなく、社会の中に居場所を持つということだ。

 この三つの柱は、それが生まれた時代の文脈においては、強力な反体制的メッセージだった。管理・収容・専門家中心主義という当時の精神医療の体制に対する、正面からの挑戦だった。


当事者運動という土台

 回復モデルの思想を支えたのは、当事者運動だった。

 精神疾患の当事者たちが集まり、声を上げ、制度に働きかける運動は、アメリカでは一九七〇年代から活発化した。「精神病患者解放運動(Mental Patients Liberation Movement)」「生存者ネットワーク」といった組織が生まれ、強制入院・強制治療への抵抗、患者の権利章典の制定、地域生活支援の充実などを訴えた。

 彼らが主張したことの一つは、「経験の専門家」という概念だ。精神科医は精神疾患を医学的に知っている。しかし精神疾患を生きることを知っているのは、当事者自身だ。この「生きた知識」は、医学的な専門知識とは異なるが、同等以上に重要な知だという主張だ。

 この主張は、精神医療の認識論的な土台を揺るがすものだった。「誰が精神疾患について知っているか」という問いへの答えが変わる。専門家だけでなく、当事者が知の担い手として認められるべきだ、ということだ。

 日本でも、一九九〇年代以降、精神障害当事者の声が少しずつ制度の場に届くようになってきた。「ピアサポート」――同じ経験を持つ当事者が、別の当事者を支えるという形式――が、支援の一環として認められ、制度化されていった。精神保健福祉の計画策定に当事者が参加する機会が増え、「当事者の声を聴く」ことが制度的な要件になっていった。


日本における受容と変容

 日本に回復モデルの思想が入ってきたのは、一九九〇年代後半から二〇〇〇年代にかけてのことだ。

 その受容の背景には、日本の精神科医療の特殊な状況があった。日本は長らく、精神科病院への長期入院を主軸にした精神医療体制を持ち続けてきた。人口あたりの精神科病床数は、先進国の中で突出して多い。強制入院の要件も、他国と比較して緩やかだという指摘が繰り返されてきた。この「日本型入院中心主義」への批判として、回復モデルはある種の切り込み道具として機能した。

 しかし日本への受容の過程で、回復モデルは微妙に変容した。

 反体制的な当事者運動という文脈は薄れ、支援者・専門家が「回復モデルを使う」という形に変わっていった。「当事者が自己決定する」という理念が、「支援者が当事者の自己決定を支援する」という専門的なサービスに変換された。主体の位置が、静かに入れ替わった。当事者が中心にいる運動から、専門家が提供するサービスへの変換だ。

 この変換が、良いことか悪いことかは、単純には言えない。専門家が回復モデルの理念を取り入れることで、より多くの人への支援が可能になった側面は確かにある。しかしその変換の過程で、思想の持っていた「牙」が抜かれた部分もあると、私は感じる。


「科学的根拠」への組み込みとその代償

 二〇〇〇年代以降、回復モデルはさらなる変容を遂げた。

 「エビデンスに基づく実践(EBP)」という潮流の中で、回復を支援する具体的な技法やプログラムが開発され、研究によって効果が検証されるようになった。「IPS(個別就労支援)」「IMR(疾患管理とリカバリー)」「WRAP(元気回復行動プラン)」――これらは回復モデルの理念を具体的なプログラムに落とし込んだものだ。

 この「科学化」によって、回復モデルは保険適用・制度化への道を開いた。「効果が証明されたプログラム」として、政策の場で語られるようになった。これは普及という意味で重要な進歩だった。

 しかし科学化・プログラム化は同時に、回復モデルの「尖った部分」を均した。プログラムには手順があり、目標があり、評価指標がある。「希望」「自己決定」「社会参加」という言葉が、測定可能な指標に変換される。「就職した」「入院日数が減った」「薬を自己管理できるようになった」――これらが回復の証拠として数えられるとき、数えられないものが周縁に追いやられる。

 数えられないものとは何か。たとえば、「今はまだ働けないが、この人は確実に自分を取り戻しつつある」という臨床的な手応え。「症状は変わっていないが、その人の苦しみとの向き合い方が変わった」という変化。あるいは「回復を目指すことをやめて、今ここに生きることを選んだ」という決断。これらは、数値化できない。しかし回復の本質に関わっている。


解放の思想が持っていたもの

 回復モデルの出発点に戻ると、そこには一つの根本的な問いがあった。

 「精神疾患を持つ人間は、どのような生を生きる権利があるか」という問いだ。

 この問いは、医療の問いではなく、倫理の問いだ。人間の尊厳の問いだ。精神疾患があるという理由で、社会から排除され、管理され、自己決定の権利を奪われることへの根本的な抵抗として、回復モデルは生まれた。

 それは弱者が声を上げる運動だった。医師に「あなたは回復できない」と言われた人が「そうではない」と言い返す運動だった。施設に閉じ込められた人が「外で生きたい」と言う運動だった。

 その運動の持っていた力は、「正しいことを証明できる」という力ではなかった。証明できないことを、それでも主張し続けるという、当事者の生命力そのものの力だった。

 パトリシア・ディーガンが回復の旅について語った言葉がある。回復とは「目的地ではなく、旅の過程だ」という言葉だ。どこかに「回復した状態」という終点があるのではなく、毎日、自分の人生を取り戻そうとし続けることが、回復なのだという意味だ。

 この言葉の中に、解放の思想のエッセンスがある。回復は達成すべき目標ではなく、生きることの別名だ。


次章への橋渡し

 しかしここで、問いを立てなければならない。

 解放の思想として生まれた回復モデルが、現在どのように使われているか。希望・自己決定・社会参加という言葉が、誰の口から、どのような文脈で語られているか。

 「回復できる」というメッセージが、いつの間にか「回復しなければならない」に変わっていないか。「自己決定の権利」が、「自己責任で回復せよ」という命令に変わっていないか。当事者の声から生まれた思想が、制度の言語に翻訳される過程で、何を失ったか。

 回復モデルを否定したいのではない。その出発点にある人間の尊厳への問いは、今も正しい。しかし問いが正しくても、それが使われる文脈によって、問いの意味は変わる。

 次章では、この変質の過程を追う。

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