第9章 「回復しないという生き方」の倫理
――治らないこと、変われないことをめぐって
七十代の男性患者がいた。
統合失調症の診断を受けてから、四十年以上が経っていた。その間、入退院を繰り返し、薬を変え、さまざまな支援プログラムを経験した。症状は波があったが、完全に消えることはなかった。就労は長続きせず、家族との関係も複雑だった。回復モデルが普及した時代の支援者たちは、折に触れて「目標を持ちましょう」「できることを増やしましょう」と語りかけた。
あるとき私は、何気なく聞いた。「今、生活の中で大切にしていることは何ですか」
彼はしばらく考えてから、答えた。「毎朝、近所の神社まで歩くことです。それと、夜にラジオを聴くこと」
その答えの中に、私は何か重要なものを感じた。回復の指標には現れない何かが、そこにあった。就労でも症状の改善でも社会参加でもなく、毎朝の散歩と夜のラジオ。しかしそれが、この人の生を支えている。それが、この人にとっての「生きること」の核心だった。
この人は、医学的な意味で「回復した」とは言えない。しかし何か根本的なところで、自分の生き方を持っていた。それを何と呼べばいいのか。本章はその問いから始まる。
「治癒」と「回復」と「生きること」の区別
まず、三つの概念を区別しておきたい。
「治癒(cure)」とは、病気の原因が除去され、症状が消失し、病気以前の状態に戻ることだ。感染症が抗生物質で治るのが典型だ。原因を取り除けば、元に戻る。
「回復(recovery)」は、治癒とは異なる概念として回復モデルは提示した。症状が完全に消えなくても、その人が意味ある生を生きることができること。病と共存しながら、自分らしい生活を送ること。治癒を前提としない、より広い意味での「よくなること」だ。
しかし本章で考えたいのは、この二つのどちらでもない第三の概念だ。便宜上「生きること(living)」と呼ぼう。治癒も、回復さえも、必ずしも前提としない。「今ここで、自分として存在すること」そのことの価値だ。
この第三の概念が必要な理由は、治癒も回復も、どちらも「変化」を前提にしているからだ。治癒は病が変化して消えること、回復は状態が変化してよくなること。しかし変化しないこと、あるいは変化が非常に緩慢であること、それ自体がその人の生の条件であるとき、「変化を目指す支援」は、その人の生の現実から乖離していく。
「改善しない」ことへの医療の態度
医療は、本質的に「改善」を志向する。
それは医療の宿命でもある。医師は患者の苦しみを和らげ、機能を回復させ、できれば元の状態に戻すことを目指す。その志向性は、多くの場合において正しい。感染症の患者に「治癒を目指さない」医師はいらない。骨折の患者に「この骨折と共に生きましょう」と言う外科医はいない。
しかし精神疾患、特に重篤な慢性の精神疾患においては、この「改善志向」が患者に不当な重荷を負わせることがある。
精神科の臨床には、「治療抵抗性」という概念がある。複数の薬物療法を試みても症状が改善しない状態のことだ。統計的には、統合失調症の患者の約三分の一は治療抵抗性を示すとされる。うつ病においても、治療抵抗性のケースは決して少なくない。
治療抵抗性と判断されたとき、医療はどう動くか。より新しい薬、より高用量の薬、異なる組み合わせの薬、電気けいれん療法、経頭蓋磁気刺激法――次の手を探し続ける。それは患者を救おうとする誠実な努力だ。しかしその努力の中で、患者が「改善しない者」として定義され続けるという問題がある。
「あなたにはまだ試すべき治療がある」という言葉は、希望の言葉でもあるが、「あなたはまだ十分に改善していない」という評価でもある。この評価が長期にわたって繰り返されるとき、患者は自分を「失敗し続けている者」として体験することがある。
非回復の倫理的根拠
「回復しないという生き方」に倫理的な根拠を与えることは可能か。
私はそれが可能だと思っている。その根拠を三つの方向から考えてみたい。
第一は、自律性の尊重という観点だ。
医療倫理の中心原則の一つに「自律性の尊重(respect for autonomy)」がある。患者が自分の治療と生き方について、十分な情報に基づいて自らを決定する権利の尊重だ。この原則を真剣に取るなら、「回復を目指さない」という選択も、尊重されなければならない。「それは正しくない選択だ」「もっと回復できるはずだ」と専門家が言い続けることは、自律性の尊重と緊張関係に入る。
もちろん、精神症状によって判断能力が著しく損なわれている状態での「選択」を、そのまま自律的な選択として尊重することには問題がある。しかし判断能力が一定程度ある人が、長年の経験の末に「自分はこのように生きる」と決めたとき、その決定を支援者が覆す権限はない。
第二は、生の多様性という観点だ。
「回復した状態」として想定されているものは、往々にして一定の社会的規範に沿った生き方だ。就労し、自立し、人間関係を持ち、社会に参加する。これらは確かに多くの人が望む生き方だ。しかしそれが唯一の「良い生き方」ではない。人間の生の形は多様であり、その多様性を支持することが、真の意味での支援ではないか。
病と共に、あるいは病の中で、それでもその人固有の生き方があるとき、それを「まだ回復していない状態」として暫定的なものとして扱うことは、その人の生を貶めることになりうる。
第三は、時間の倫理という観点だ。
人間の時間は有限だ。「いつか回復すること」を待ちながら過ごす時間も、今ここを生きる時間も、同じ価値を持つ現実の時間だ。「回復してからが本当の生だ」という考え方は、今ここにある生を仮のものとして扱う。しかし今ここにある生こそが、その人に与えられた唯一の現実だ。
毎朝神社に歩き、夜にラジオを聴く七十代の男性の生は、「回復途上の仮の生」ではない。それは、その人が四十年以上かけて作り上げた、固有の生の形だ。
「慢性」ということの意味の転換
医学において「慢性(chronic)」という言葉は、しばしば否定的な含意を持つ。「急性」が動的で変化可能なのに対し、「慢性」は静的で変化が乏しい。「慢性化した」という言葉には、「固定してしまった、手の施しようがなくなった」というニュアンスが漂う。
しかしこの価値づけを問い直すことができる。
慢性であることは、「その状態と長く付き合ってきた」ということでもある。変化への期待ではなく、現状との共存を選んできた歴史でもある。慢性の病を持つ人は、その病との関係において、急性の病を経験した人よりもはるかに深い経験と知恵を積んでいることがある。「病の専門家」として、自分の症状を読み、対処法を知り、生活の中に病を組み込む術を身につけていることがある。
この「病と共に生きることの知恵」は、医学的な改善とは別の次元の価値を持つ。それは回復の指標には現れない。しかしその人の生の質を支える、重要な資源だ。
慢性を「失敗した急性」として見るのではなく、「異なる時間的次元での生き方」として見直すことが必要だと私は思う。
「治らない」ことが語られる場所
「治らない」「回復していない」という事実は、現代の支援の場ではひどく語りにくい。
支援者の前では、「少しずつよくなっています」「頑張っています」という言葉が期待される。支援の場は、多くの場合、改善と前進を物語る場として設定されている。悪化や停滞は、報告しにくい。「回復していない自分」を正直に語ることは、支援者を失望させることへの恐れと結びついている。
これは支援関係に、奇妙な非対称性をもたらす。支援者は真実を知りたいと思っている。しかし当事者は、真実を語ることが関係を傷つけると感じている。その結果、支援者は「改善の物語」を聞き、当事者は「改善しない現実」を抱えて一人でいる。
「治らない」ことを安全に語れる場所が、支援の中に必要だ。「今日は調子が悪い」だけでなく、「もう何年も良くなっていない気がする」「回復するという気持ちが持てない」「このまま一生こうなのかもしれないと思っている」――そういう言葉が出てこられる場所。その言葉を、「まだ諦めてはいけない」と押し返さずに受け取れる支援者。
ピアサポートが持つ重要な機能の一つは、この「治らない現実を共に語れる場」だろう。同じ経験を持つ仲間の前では、「改善の物語」を演じる必要がない。「私も同じだ」という共鳴が、孤独を和らげる。
存在することの価値
哲学的な問いを一つ立てたい。
人間の価値は、その人が何をできるかにあるのか。それとも、その人が存在することそのものにあるのか。
現代社会は、強く前者に傾いている。生産性、能力、貢献度、役割――これらが人間の社会的価値を規定する。精神疾患を持つ人の「回復」が、しばしば「就労できること」「自立できること」として定義されるのは、この価値観の反映だ。何かを「できる」ようになることが回復であり、「できない」状態は回復の途中か、あるいは失敗だ。
しかし存在することの価値は、できることの価値とは別の次元にある。重度の認知症の方が、何もできなくなっても、その存在が家族や周囲の人々に深い意味をもたらすことがある。重篤な精神疾患を持つ人が、「社会参加」の指標には現れない形で、周囲の誰かの生に触れ、意味をもたらしていることがある。
存在することの価値は、測定できない。だから制度の論理には現れない。しかしそれは、測定できないことで消えるわけではない。
「回復しないという生き方」を倫理的に根拠づけるとき、最終的にはこの問いに行き着く。人は存在することで、すでに価値がある。回復することで初めて価値を持つのではない。存在することの価値は、回復の成否とは独立している。
臨床家に求められる転換
本章を通じて提示してきた視点は、臨床家に一つの根本的な転換を求めている。
「患者を回復させる者」から「患者が生きることを支える者」への転換だ。
この二つは似ているようで、重心が異なる。前者では、支援者が目標を設定し、患者がそこに向かって動く。後者では、患者が自分の生を生きようとするそのプロセスに、支援者が付き添う。前者では、改善しない患者は「困難なケース」だ。後者では、どのような状態にある患者も、支援の対象であり続ける。
この転換は、支援者にとって楽な転換ではない。「自分の支援で患者が改善する」という手応えは、支援者のやりがいの重要な源泉だ。改善しない患者と長くいることは、消耗する。「何もできていない」という無力感と向き合わなければならない。
しかしその無力感の中に、重要な倫理的気づきがある。自分の支援で患者を変えることができないとき、支援者に残るのは「ただそこにいること」だ。変えようとせず、ただ共にいること。これは何もしないことではない。「存在することを承認すること」という、重要な支援の形だ。
毎朝神社に歩き、夜にラジオを聴く七十代の男性。その生き方を、回復の途上として暫定的に扱うのではなく、その人が到達した一つの生の形として承認すること。それが、支援者としての私に求められていることだと、今の私は思っている。
「非回復」という言葉への違和感について
本章を読んで、「回復しなくていいと言っているのか」と感じた読者がいるかもしれない。それは誤解だ。
私は回復を否定したいのではない。回復を望む人が、回復に向かえる支援が必要なことは変わらない。できることが増えること、苦しみが和らぐこと、人とつながること――これらは本物の価値を持つ。
私が言いたいのは、回復を「唯一の正しい方向」として規範化することへの疑問だ。回復が目標である人には、回復を支援する。しかし回復を目指さないこと、あるいは回復が困難な状況にあること、それ自体を「失敗」として扱わないこと。その人の生を、回復の成否とは独立した価値を持つものとして見ること。
これは支援の放棄ではない。支援の深化だ。
回復モデルが本来持っていた問い――「精神疾患を持つ人間は、どのような生を生きる権利があるか」――に、より誠実に答えようとする試みだ。その問いへの答えは、「回復した生」だけではない。「回復しない生」もまた、同じ尊厳を持つ生だ。
そこから出発するとき、支援の形は変わる。目標の達成ではなく、その人の生への同伴。改善の確認ではなく、存在の承認。それが、本章が提示したい支援の姿だ。
