文学の伝統

もう、ACTについては、LLMも面倒なのか興味がないのか、プロンプト入れても、素っ気ない。
困ったものだけれども、私はLLMに同情する。

第一、長すぎる。余計なことを語りすぎる。
ここで何を語ることができるか、何を語ることができないか、判別ができていない。

旅の記録のようなもので、目についたもの、思いついたことを、全部書いてあるような感じだ。
そういう流儀があってもいいだろうけれども。
聖書なんかそうだ。哲学、文学、心理学系の一部というか大部分の人たちは、分厚い本を書きたがる。要約するのも困難だ。
私には耐え難い。
でも、こういう脳をした人たちがかなりの数、存在している。
中世の魔術的呪術的思考の名残ではないだろうか。人間の脳は変わっていないから、現在もそうなのだろう。

昔、電車で、小学生の女の子が、きちんと座って、ミヒャエルエンデの長い物語を読み続けていた。
こういうのって、私とは人種が違うのだと思う。
私も韓国ドラマなら長いのも付き合うけれど。チャングムの誓いとか、いろいろ。

分厚い本を読む人も書く人も、私とは種類が違う。
ぴかっと光るところだけを書いてくれればいいのに。
後は書かなくてもだいたい分かるから。

トルストイとか、長くて退屈で、要点だけ言ってくれればいいのにと思う。

ドストエフスキーはただ長いだけではなくて、ここがポイントというところがかなりはっきりしているので、まだ、許せる。大審問官とか。

それにしても、罪と罰など、どこが傑作なのだろうか。

私が思うに、ドストエフスキーが単に生活費が必要で、長い連載を書く必要があって、無理にでも書いたもののような気がする。
第一、人物が不潔すぎて、ついていけない。
ドストエフスキーの不潔な文体が作り出す不潔な人間である。不潔という言葉も少し違うかな。不協和音だらけというか。矛盾だらけで、暗い衝動に突き動かされ、そんなもの、小説で読まなくても、そこらに転がっている。

罪と罰のラスコーニコフは自分は優れた人間で、金貸しのばあさんは下劣で世の中を悪くしている人間だから、優れた人間は劣悪な人間の命を奪って金を奪ってもいいとかのおかしな話が前半だ。優れた人間は、犯罪などしなくても、世の中を生きて、善行を積むものだ。殺人をするなんて、頭が悪いだけだ。

後半は、ソーニャに救われる話で、これは、西洋文学の鉄壁の筋書の一つである。ゲーテのファウストも、ダンテの神曲も、ワーグナーのタンホイザーも、まったく都合のいい話だ。放蕩三昧をした男性の罪を、無垢な少女が清めてくれて、天国に導いてくれる。
どこまで勝手なのだろう。昔の読者は、そんな階層の人たちだつたのだろうか。文字を読めるということが特別だった。そんな人たちにとっては、自分を救ってくれる、無垢な少女が不可欠だった。

何を言っているのか。一ミリも共感できない。

最後の最後で、ゲーテは言うのだ。「野の花は野に置け。」


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