第10章 受容(アクセプタンス)

第10章
受容(アクセプタンス)

私たちは風をコントロールすることはできない。できるのは、帆を調整することだけだ。
——有名な格言

この章で、君は以下のことを学ぶ。

♦ 体験的回避(嫌な経験を避けようとすること)がいかに心理的な硬直を招き、逆に受容がいかに柔軟性を育むか。
♦ 臨床ツールとして「受容」を強力なものにしている特性について。
♦ メタファー(比喩)やエクササイズを使い、クライアントに「ウィリングネス(進んで受け入れること)」を教える方法。
♦ セッション内での「曝露(エクスポージャー)」を用いて、受容を促す方法。
♦ セッションの中での受容を、どうやって現実世界での受容へと繋げていくか。

実践的な概観

依存症からの回復を目指す「12ステップ・プログラム」などでよく使われる、有名な「ニーバーの祈り」を、誰もが一度は読んだり聞いたりしたことがあるだろう。

「神よ、変えることのできないものを、静穏に受け入れる力を与えたまえ。
変えるべきものを変える勇気を与えたまえ。
そして、それらを見分ける知恵を与えたまえ」

このシンプルな祈りがこれほど広く知られているのは、それが私たちの日常生活における根本的な難問を言い当てているからだ。人生が「過酷な運命の矢や弾丸」を私たちに投げつけてきたとき、私たちはどうすればいいのだろうか。誕生、死、離婚、拒絶、病気、その他自分ではコントロールできない無数の出来事がもたらす痛みと、どう向き合えばいいのだろうか。

こうした痛みがある中でどう進んでいくかは、生き生きとした人生を追い求める過程で、私たち一人ひとりが何度も直面する重要な問いである。この祈りは、人生をうまく生きるためには、ある種の「知恵」が必要だと言っている。何がコントロールできて何ができないのかを学び、それに応じて自分のエネルギーの向け先を変えなければならない。

一部の物事がコントロールできないという事実は、なかなか受け入れがたい(飲み込みにくい)苦い薬のようなものだ。なぜなら、そうした出来事が自分の内面に与える衝撃を、私たちはそのまま「飲み込む」しかなくなるからだ。一方で、変えられるものをコントロールしようとすることにも勇気がいる。なぜなら、その行動自体がまた、新たな苦痛や不安を心の中に生み出すこともあるからだ。つまり、生き生きと生きるためには「知恵」と「勇気」の両方が必要なのだが、現代の文化はそれをどうやって身につければいいのか、ほとんど教えてくれない。

前章で議論したように、フュージョン(思考との一体化)は「回避」を加速させ、「受容」を困難、あるいは不可能にする。フュージョンは、自分の経験(思考や感情)が「言葉の通りの真実である」という錯覚を生み出すからだ。私たちの感情、思考、イメージ、記憶は、まるで実体のある「物」のように感じられ、言葉によって容易に分類されてしまう。

「感情」について考えてみよう。人間であることに付随するあらゆる内面的な経験の中で、感情ほど激しく「評価」にさらされるものはない。これには理由がある。感情に評価を下すことで、他人に自分のニーズや欲求を伝えるための共通の機能が生まれるからだ。例えば、大勢の人がいる部屋に入っていって「喉が渇いた!」と宣言すれば、すぐに水を手に入れるための周囲の助けが得られるだろう。感情は、その言葉の語源(Emotion = 外へ動かす)が示す通り、人々を「行動」へと向かわせる。そして評価というものは、その行動がどの方向へ向かうべきかを示すガイドラインのような役割を果たす。

残念ながら、こうした評価は社会的な役割を果たすだけでなく、自分の内面世界との「戦い」をも促してしまう。もし不安が「悪いもの」だと評価されれば、それは当然「取り除くべきもの」となってしまうからだ。

苦痛な内容が心の中に現れたとき、人はその瞬間に「どのような態度を取るか」という選択を迫られる。手っ取り早く「気分を良くする」方法としては、望まない内面的な出来事から逃げ出したり、避けたり、抑え込もうとしたりすることだ。不快な感情や状況、人間関係から逃れたときに得られる一時的な解放感は、あまりに強力な「ご褒美(強化子)」であるため、多かれ少なかれ、すべての人間は「体験的回避」を行ってしまう。人間の行動は、たとえ長期的な結果が悲惨なものであっても、その瞬間の「即効性のある結果」に支配されてしまうものだ。体験的回避は、まさにこの種の「行動の罠」の典型的な例なのである。

回避の影響

体験的回避(不快な経験を避けようとすること)には、注目すべき3つの代償がある。

第一に、現在と自分の「過去(歴史)」との結びつきが薄れることで、「経験的知性」が損なわれてしまうことだ。自分の過去と繋がり続けることは、自分の行動をより筋の通ったものにし、「何が機能していて、何が機能していないか」を読み取るための文脈を作ってくれる。
例えば、性的虐待や身体的虐待の経験がある人が、その記憶を呼び起こすような状況で神経質になるのは、決して悪いことではない。適切に扱えば、その神経質さはさらなる被害を避けるための重要な手段となり、また自分が「信頼と尊敬に基づいた人間関係」をいかに深く大切にしているかに気づくきっかけにもなる。
もちろん、そうした感情は挑戦(困難)でもある。例えば、健全な親密さに対してさえ不安を感じることもあるだろう。しかし、もしその人がこれらの感情を取り除こうとしたり逃げ出したりすれば、一方で再び虐待的な関係に陥るリスクを冒し、もう一方で意味のある人間関係を築けなくなるリスクを負うことになる。逆説的だが、これらの感情が「内容(思考や感情そのもの)」として過度に強調されてしまうと、それらを賢明に行動の指針として使うことができなくなってしまうのだ。

第二の代償は、自分が「避けている」という事実にすら気づかなくなることだ。それはつまり、「回避すること」が本当に自分の望んでいることなのかどうかを検討する機会さえ失うことを意味する。深刻なトラウマ体験を持ち、解離(現実感がなくなること)によって対処しているクライアントは、この機能不全がいかに深刻になり得るかを示す一例だ。その結果、人生を自分の意志でコントロールできなくなり、自由が少しずつ失われていく。

最後、第三の代償として、回避は実生活に「二次被害(コラテラル・ダメージ)」をもたらす。なぜなら、回避は、クライアントの行動がよりポジティブで価値のあるパターンへと進化していくのを妨げてしまうからだ。感情を避けることは、特定の行動や状況を避けることにつながる。しかし、成長し、価値観に基づいた生活を送るためには、往々にしてそうした行動が必要であり、必然的にそうした状況を経験することになるのである。

回避に代わる選択肢としての「受容」

私たちが言う「受容(アクセプタンス)」とは、刻一刻と変化する経験に対して、意図的に心を開き、受容的で、柔軟で、評価を下さない姿勢を自発的に取ることである。受容は、苦痛な内面的な経験や、それを引き起こしそうな状況、出来事、対人関係に、あえて「触れようとする意志(ウィリングネス)」によって支えられている。

受容を「自己陶酔」と混同してはならない。心理的な経験に対して心を開く姿勢は、それ自体が目的ではない。朝から晩まで自分の感情や感覚を味わってばかりいても、心理的な健康は得られない。また、意識をかすめるすべての記憶をいちいち詳細に思い出すことでもない。
ACTの実践者が言う受容とは、心理的な出来事に気づき、それをありのままに見つめるという、柔軟で能動的な性質を持つものである。時にはその経験をあえて強めることさえあるが、それはその出来事が「行動の役に立つ」と判断された場合に、いつでも行動に反映できるようにしておくためである。

「受容」という言葉は、時に不健全なニュアンスで使われることがある。実際、他人を攻撃する武器として使われることさえある(「いい加減大人になって、それを受け入れなさいよ!」など)。そのように使われる場合、受容とは「我慢する」「耐える」「あきらめる」「渋々受け入れる」といった、受動的なニュアンスになる。このような受動的な受容は、必ずしもポジティブな健康状態にはつながらない。
また、受容とは、何かを欲しがったり好きになったりすることでも、それを望んだり、それが公平で正しいことだと判断することでもない。変えられる状況を変えずに放置することでもない。それは、「今、この瞬間の経験を、自らの選択として抱きしめる」ということである。

ACTの著者の中には、この性質を強調するために、受容(Acceptance)の代わりに「エンハンスメント(Enhancement:高める、強化する)」という言葉を使う者もいる。それは、心理的に自分自身の側に立ち、経験のレベルでそこに存在するものを受け入れるということだ。

「ニーバーの祈り」が示唆するように、世の中には変えられる状況もあれば、変えようとすると裏目に出る状況もある。人々がこの二つの区別がつかなくなったり、困難な経験を抱きしめるべき時に「受容のスキル」を学んでいなかったりすると、苦しみが生じる。
ただ、あの祈りが言っていないことが一つある。それは、「たとえ物事を変えることができたとしても、その行為自体が、今度は変えることのできない新たな出来事(不快感など)を生み出す」ということだ。例えば、行動を変えることは常に可能だが、新しい行動は往々にして不快でぎこちなく感じられたり、過去の傷や脆弱さを思い出させたりする。
自分の「過去」は変えられない(まだ書かれていない未来以外は)。そして、自然に湧き上がる感情や思考、記憶、感覚も、すぐには変わらない。だからこそ、変化そのものをやり遂げるためには、「受容のスキル」が必要不可欠なのである。

受容は「現在進行形」のプロセスである

受容の重要な特徴は、それが「現在進行形」で自発的に行われるプロセスであり、決して一定のままではないということだ。受容は人生に対する「開かれた姿勢」の一部だが、その姿勢は瞬間ごとに実践される必要がある。つまり、受容には「受容できたり、できなかったりすること(受容の波)」そのものを受け入れることも含まれる。私たちは受容が上手になることはできるが、完璧になることは決してない。

受容は「屈服」ではない

「受容」という言葉の不運なニュアンスの一つに、あきらめや敗北がある。しかし、実際にはその逆だ。変化というものは、今この瞬間を抱きしめ、変化の過程で起こることを受け入れることによって、より力強いものになる。

ドメスティック・バイオレンス(DV)の状況にある妻を考えてみよう。受容は非常に重要だが、それは「暴力(虐待)を受け入れる」という意味ではない。そうではなく、「何も手を打たなければ、暴力はおそらく続くだろう」という苦しい事実を受け入れることを意味するかもしれない。あるいは、暴力がもたらす有害な情緒的影響や、理想とする親密さと現実との間の痛ましいギャップを認めることかもしれない。また、うまくいかない関係を終わらせたり根本的に変えたりする過程で湧き上がってくる「恐怖心」に向き合うことかもしれない。しかし、決して「屈服する(言いなりになる)」ことではないのだ。

受容は「失敗」ではない

受容は、個人的な失敗を認めることではない。むしろ、「特定の戦略がうまくいかなかった、あるいはうまくいき得ないこと」を認識することだ。比喩的に言えば、受容とは「穴から出るために掘るのをやめる」ということである。「受容」と「ワークアビリティ(機能しているか)」は密接な味方同士だ。人生の機能性が低いとき、うまくいかない戦略を捨てることは不可欠な第一歩である。しかし、その行動をとることは、経験がずっと私たちに教えてきたこと、すなわち「今の人生へのアプローチはうまくいっていない」という事実を受け入れることを意味するのである。

受容は「我慢(忍耐)」ではない

受容は、単に現状を「我慢する」ことではない。我慢とは、「特定の苦痛を一定期間だけ許容し、その代わりに別の価値あるものを得る」という条件付きの姿勢であり、経験そのものに対して本当に心を開いているわけではない。私たちの多くは、歯医者に行くときにこの種の我慢を実践している。受容は能動的であり、受動的ではない。そこにある「感じられるべきもの」を感じることに、何らかの意味を見出すことなのである。

受容は「技法(テクニック)」ではなく「機能」である

すべての心理的柔軟性プロセスがそうであるように、受容は単なるテクニックではなく、機能的なプロセスだ。セラピストは、クライアントが自分の直接的な経験にもっと触れられるように、優しく、かつ粘り強く扉を開き続ける。手法も大事だが、その手法が「どこから(どんな意図で)来ているか」の方がもっと重要だ。
ACTのセラピストは、感情を味わうためのスペースを作るために、クライアントに少しの間黙って座るよう求めるかもしれないし、クライアントが何をしたいと感じているか尋ねることもある。あるいは、直視するのが難しいものに対して心を開くよう促したり、セッションルームにさらなる痛みが入り込んできたときに微笑んでうなずいたりすることもある。
こうしたやり取りは、単なる「テクニック」としてはあまりうまく機能しないだろう。それらは、粘り強く、隠し立てがなく、相手を尊重する「自然な開放性」の中でこそ機能する。ヘビ恐怖症の人なら、膝の上にヘビを放り込まれるだけで助かることもあるかもしれない! しかし、受容のワークとは、不意に防御を剥ぎ取ったり、クライアントの進歩を「1分間に何滴の涙を流したか」で測ったりすることではない。むしろ、本当に開かれた方法で、今そこにあるものを経験することを(しばしば非常にゆっくりと)可能にしていくプロセスなのである。

受容は「セラピスト自身」にも関わることである

受容の姿勢は、クライアントと同じくらい、セラピストにとっても重要だ。そうでなければ、受容が自然で効果的なものになるはずがない。セラピストが条件付きでしか受容していない(特定の話題を避けるなど)と、クライアントは自分にとって最も脅威となる個人的な内容を隠したままにする。これによってセラピスト自身は心理的な痛みを経験せずに済むかもしれないが、クライアントとセラピストが動ける「受容のスペース」を縮めてしまうことになる。
これは、ACTのセラピストが「受容の王様や女王様」でなければならないという意味ではない。そうではなく、彼ら自身も「受容に取り組んでいる最中」であり、クライアントの利益になるのであれば、自分自身の問題にも自ら進んで向き合う姿勢を持っている、という意味である。

受容は「価値観に基づいた選択」であり、「埋没(溺れること)」ではない

受容は「しなければならない(義務)」ことではない。受容しないことによる代償はあるが、受容したからといって保証があるわけでもない。だからこそ、受容には「今、そこにあるもの」が何であれ、それを価値観に基づいて「信じて飛び込む」ような決断が必要なのだ。
自分が感じていることをただ感じ続けることは、それ自体が目的ではない。それはただ「溺れている(wallowing)」だけだ。そうではなく、クライアントは「人生そのもの」から、価値ある人生を歩む過程で湧き上がってくる感情、思考、感覚、記憶を感じるように求められているのだ。それには、行動的な「ウィリングネス(意欲)」と「受容のスキル」の両方が、価値観に基づいた「自らの選択」として必要なのである。

臨床への応用

クライアントは、受容(アクセプタンス)に基づいた考え方に対して、これまでにさまざまな経験を積んできている。セラピーに役立てるために、そうした過去の経験について情報を集めることは非常に有益だ。
例えば、以前に瞑想をしたことがある人、自己啓発本を読んだことがある人、「すべてを神に委ねた(Let go and let God)」経験がある人、あるいは極限の集中力を要するスポーツに取り組んだことがある人などがいる。もしクライアントが5年前に禁煙に成功したのなら、当時タバコを吸いたい衝動をどうやって「受け流した」のかを聞き出す価値がある(それは今でも役立つかもしれないからだ)。また、過去に辛い離婚を経験したのなら、当時の悲しみや喪失感、見捨てられた感覚をどう扱ったかを聞くことが重要だ。

こうしたやり取りを通じて、セラピストはクライアントがどれくらい「受容を受け入れる準備ができているか」という重要な手がかりを得ることができる。また、クライアント自身が使っている「言葉のタグ(比喩)」を見つけることもできるだろう。これらは、クライアントが過去に何かを受け入れようとしたときに使っていたメタファーである。熟練したセラピストは、これらの「タグ」をACTの考え方に沿った形で取り込み、クライアントが今直面している問題に適応させるのが上手い。クライアントが過去に自分にとって有益だと感じた受容の方法を使う方が、新しい概念を教えるよりもスムーズだからだ。「ACTの耳」を持って話を聴くことで、受容という概念がクライアントにとって馴染み深いものなのか、それとも縁遠いものなのかを判断できるようになる。

臨床の極めて早い段階で、クライアントに「無駄な戦いから手を引くこと」が実行可能な選択肢であることを示すのが有効だ。通常、この段階では「創造的絶望」をフルに活用する必要はない。多くの場合、まずは自分たちのこれまでのアプローチが「機能していない(ワークアビリティがない)」ことを体験的に理解し、それを「あきらめる(手放す)」という選択肢を考えてもらうところから始める。

第6章で「穴の中の男」のメタファーについて議論したように、大切にしていた戦略が失敗する運命にあると認識すること自体が、実は「受容への一歩」なのである。

もう一つの受容のメタファーに、「モンスターとの綱引き」というものがある。これは、広場恐怖症を抱えた一人の勇敢なクライアントによって生み出されたものだ。彼女はパニックとの20年間に及ぶ戦いをやめ、代わりに自分の人生を生き始めた(起業し、学校に通い、破綻していた結婚生活に終止符を打った)。彼女がこうした変化を起こせたのは、不安を自分の人生の正当な一部として受け入れることができたからだ。彼女は自分のブレイクスルーを次のように語っている。

「私は自分がモンスターと綱引きをしていることに気づきました。そのモンスターは巨大で醜く、とても力が強かったんです。私とモンスターの間には、見たところ底のない深い穴がありました。私は『もしこの綱引きに負けたら、あの穴に落ちて死んでしまう』と思い込んでいました。だから必死に、必死に綱を引きました。でも、私が強く引けば引くほど、モンスターも強く引き返してくるようでした。私は自分がどんどん、どんどん穴の縁に近づいていくのを感じました。
でも、セラピーを通して気づいたんです。私の仕事はこの綱引きに『勝つ』ことじゃない。……私の仕事は、ただ『綱を放す』ことだったんだって」

「綱を放す」というのは、受容のプロセスを開始するための完璧なメタファーだ。このメタファーを聞いたクライアントから「どうやって放せばいいんですか?」と聞かれることもあるだろう。「穴の中の男」のときと同様、これに直接答えないのがベストだ。セラピストは代わりにこう言えばいい。「うーん、今の私には正確な答えは分かりません。でも、最初のステップはとにかく、『その綱を握りしめている限り、他のことは何も試せない』と気づくことなのです」

クライアントの反応次第で、これら受容のメタファーはセッションの中での「共通言語」として使うことができる。もしクライアントが新しい問題に執着していたら、セラピストはそれを「穴を掘っている状態」と表現できるかもしれない。新しい挑戦に直面していたら、「綱を放すチャンス」として話し合うこともできる。メタファーを使うことで、言葉のルールに縛られた行動が招く結果を、クライアントが客観的に見られるようになるのだ。もしクライアントが自分にしっくりくるメタファーを自分で作り出したなら、賢明なACTセラピストはそれに乗っかり、二人の共同作業の中に取り入れていくべきである。

コントロールに代わる選択肢としての「ウィリングネス」

クライアントには、「コントロールして排除する」というそれまでのルールに代わる別の選択肢が必要だ。その選択肢こそが「ウィリングネス(意欲・自発性)」と「受容(アクセプタンス)」である。

ウィリングネスとは、不快な思考、感情、記憶、感覚、あるいは恐れている状況や内容にあえて身をさらすという、価値観に基づいた「選択」のことだ。クライアントがこの選択ができるようになるのは、自分の大切にしている価値観に気づき、いかに回避がその価値観に基づく行動を阻んできたかを理解したときである。

ウィリングネスは、受容の「前提条件」だ。言い換えれば、ウィリングネスとは「望まない経験の前に自らを立たせること」であり、受容とは「その経験をどう扱うか」ということである。

以下の対話は、第6章で登場した性的虐待サバイバーとのやり取りだ。彼女はパートナーと親密になることに対して激しい不安を感じており、部屋を去ることでそれを避けてきた。これまでの対話で、セラピストは彼女が「不安をなくすこと」よりも「関係を維持すること」を大切にしていることを明確にしつつ、回避によって支払っている代償を浮き彫りにしてきた。

セラピスト:さっきあなたは、「パニックになり始めたとき、寝室を去る代わりに何ができるのか」と私に尋ねましたね。あなたがこれまで使ってきた戦略は、その場から逃げ出して、恐怖や不安をコントロールしようとすることでした。もし不安から逃げるのが一つの戦略なら、別の選択肢は「不安と一緒にその場に留まること」に違いありません。

クライアント:つまり、ただ寝室にいて、自分がパニックで理性を失っていくのをただ見ていろと言うんですか?

セラピスト:そんな考えを浮かべてくれたあなたの「思考」に感謝しましょう。今の考えは強烈でしたね! でも、こう考えてみてください。あなたは、パニックになり始めたときに「寝室に留まり続けたらどうなるか」を、実際に経験したことは一度もありませんよね? 全ては、あなたの「思考」が「そんなことをしたら崩壊してしまうぞ」とささやいているだけではありませんか。

クライアント:いいえ、そこに留まろうとしたことは一度もありません。あまりに強烈すぎるんです。

セラピスト:そこに、あなたの行き詰まり(窮地)があります。もしあなたが「寝室に留まること」さえ受け入れられないなら、自分の恐怖に対処する「別の方法」があるかどうかを、どうやって見つけるつもりですか? 逃げ続けている限り、あなたが学べるのは「より上手に逃げる方法」だけです。どうやってジグザグに逃げれば、あと数秒だけ不安を和らげられるか……。でも、どうやらあなたは、不安や恐怖から永遠に逃げ切ることはできないようですね。彼らはいつも背後からあなたを追いかけてきます。

クライアント:不安や恐怖を取り除く唯一の方法は、寝室に留まることだ、と言っているんですか?

セラピスト:あなたがそこに留まったとき、不安やフラッシュバック、恐怖がどうなるかは分かりません。もっとひどくなるかもしれません。……誰にも分からないのです。
寝室に留まる目的は、それらを取り除くことではありません。取り除こうとして、あなたはこれまで部屋を去ってきたのですから。もしあなたが「この不安や恐怖を睨みつけて消してやる」という意図で寝室に留まったとしても、おそらくうまくいかないでしょうね。

クライアント:じゃあ、ただひどい苦痛を味わう以外に、何が得られるというんですか?

セラピスト:それが、私たちが陥っている「奇妙なループ」なのです。もしあなたが自分の不安や恐怖と一緒に立つ(向き合う)「意志」がないなら、ただそれと一緒にいるということがどんな感じなのかを、一生知ることはできません。そうすれば、不安はこれからもずっと、長年そうしてきたようにあなたをいじめ続けるでしょう。
あなたはどちらの道を選びたいですか? 不安に振り回されて人生の大切なものを失い続ける道か、それとも、どうなるか分からなくても「不安と一緒に立ってみる」というチャンスに賭けてみる道か。

クライアント:……やりたくはないけれど、何か違うことを試さなきゃいけないのは分かっています!

セラピスト:いいでしょう。では、一つの実験を提案します。次に寝室でパートナーが誘ってきて、あなたが不安を感じ始めたとき、その場で「2分間」だけじっとしていてくれませんか? その2分間は、ただ静かにしていてほしいのです。不安をコントロールしようとしないで……。不安がやりたいようにやらせておいて、あなたはそれをただ観察するのです。それが実際にどんな感じなのか。好奇心を持って見てみてください!
2分経ったら、もし必要なら、叫びながら寝室から逃げ出してもいいですよ。あるいは、そのまま不安と一緒に留まり続けることを選んでもいい。

クライアント:たった2分、ですか。それなら長くはありませんね。……やってみます。

このやり取りにおいて、セラピストの提案は、従来の「曝露療法(エクスポージャー)」のような「不安を減少させること」を目的としたものではない。ここでの目的は、感情をコントロールしようとせずにそのまま経験し、その感情がある中で「好奇心」といった新しい反応を試してみることにある。

受容のエクササイズの時間に決まったルールはないが、まずは小さなステップから始めるのが合理的だ。重要なのは、クライアントが自分の中に湧き上がってくる感覚や思考に対して、心を開けるように手助けすることである。

「自ら選んだ価値観」に沿った行動を促すために「ウィリングネス(意欲)」を育むことは、ACTの主要な目標の一つだ。行動的なウィリングネスには、それを独自の選択たらしめている、いくつかの明快な特性がある。

ウィリングネスは「望むこと」ではない

クライアントは時として、ウィリングネス(意欲を持つこと)と「望むこと(Want)」を混同してしまう。ウィリングネスについて尋ねたとき、クライアントが「いいえ、そんなの欲しくありません」と答えるのはよくあることだ。しかし、この混同は助けにならない。

英語の「Want」の本来の意味は「欠乏している(足りない)」ということだ(例:食べ物が足りなくて彼は死んだ)。当然ながら、パニックや衝動、うつ状態が「足りない」からもっと欲しい、なんて思う人はいない。しかし、問題はそこではないのだ。

クライアントの中には、「もし自分がウィリングネスを持たず、ずっとその状況を避け続けていれば、いつか恐ろしい中身(不安など)は勝手に消えてくれるはずだ」という幻想に釣られてしまう人がいる。あるACTのクライアントは、かつてこう言った。
「私は以前、まるで命がかかっているかのように、ウィリングネス(受け入れる意欲)を持つことを拒んでいました。長く耐え忍んでいれば、神様か誰かが救い出してくれると思っていたんです。現実の世界か、あるいは何らかの力が、私の痛みに同情してそれを取り去ってくれるのを待っていました。
でもついに気づいたんです。もし私が拒み続ければ(受け入れる意欲がなければ)、起こることはたった一つ(停滞)だけれど、もし私が受け入れる意欲を持てば、あらゆる可能性が開けるんだって。だから今は、命がかかっているかのように『受け入れる意欲』を持っています。実際、私の経験が『命がかかっているんだ』と教えてくれているからです!」

メタファーは、「どんな状況でどんな内容が心に現れるかを、本人が自由に選ぶことはできない」ということを伝えるのに非常に効果的だ。「居候のジョー(Joe the Bum)」のメタファーは、この点を体験的に理解させてくれる。

「想像してみてください。あなたが新しい家を手に入れて、近所の人たち全員を招待して引っ越し祝いのパーティーを開くことにしました。近所中の人を招待するために、スーパーマーケットに『誰でも歓迎!』という看板を出しました。
さて、近所の人たちが集まり、パーティーは大盛り上がりです。そこへ、スーパーの裏のゴミ箱のそばで暮らしている『ジョー』がやってきました。彼はひどい悪臭を放っています。あなたは『うわあ、なんで彼が来たんだ!』と思います。でも、看板には『誰でも歓迎』と書いた手前、断るわけにもいきません。
さて、ここで彼がそこにいることを『好きにならなくても』、彼をゲストとして『歓迎する』ことは可能だと思いませんか? 彼のことを良く思っていなくても、あなたは彼を迎え入れることができます。彼のことが好きである必要はありません。彼の臭いやライフスタイル、服装を気に入る必要もありません。彼がパンチボウルに手を突っ込んだり、サンドイッチをむさぼり食ったりするのを見て、恥ずかしい思いをするかもしれません。
しかし、彼に対するあなたの『意見』や『評価』と、彼をゲストとして迎え入れる『ウィリングネス(意欲)』は、全く別物なのです。

もちろん、あなたは『誰でも歓迎と言ったけれど、本当は彼は歓迎しない』と決めることもできます。しかし、そう決めた瞬間、パーティーの内容は一変してしまいます。あなたはもう、パーティーを楽しむ代わりに、彼が中に入ってこないように玄関でずっと見張っていなければならなくなります。
あるいは、『いいよ、入ってもいいよ』と言いつつも、本心では歓迎していない場合――例えば『キッチンにいろ。他の客と喋るな』と命じる場合――あなたは彼がそうしているかを常に監視し続けなければならず、あなたのパーティーの時間は、彼を管理することだけで終わってしまいます。
その間も、人生(パーティー)は続いています。でもあなたはジョーの見張りに付きっきりです。これでは人生が豊かになるとは言えませんし、パーティーとも呼べません。ただの重労働です。
もし、あなたが嫌っている感情や記憶、思考が、玄関にやってきた『ジョー』のような存在だとしたらどうでしょう? 問いはこうです。あなたは彼らに対してどんな態度を取りますか? 彼らは歓迎されていますか? 彼らが来たという事実が好きではなくても、彼らを招き入れるという選択はできますか? もしできないとしたら……あなたのパーティー(人生)は、一体どんなものになってしまうでしょうか?」

このメタファーは、「ウィリングネスを拒むこと(受け入れないこと)」の根底にある二つの幻想を暴き出している。一つは「もし招待した客(好きな感情)だけが来るなら、人生は最高になるはずだ」という幻想。もう一つは「望まない客を歓迎しないという選択が、心の平穏をもたらすはずだ」という幻想だ。
しかし現実はその逆である。実際、多くのクライアントが気づいている通り、一つの反応をパーティーから追い出そうと必死になると、他の望まない反応がすぐ後ろからゾロゾロと付いてくる。あるACTセラピストは、これを「居候の仲間たち(Bum’s chums)」と呼んでいる。

ウィリングネスには「全か無か」の性質がある

クライアントは、ウィリングネス(受け入れる意欲)も少しずつ段階的に達成できるものだと思いがちだ。しかし、ウィリングネスの「大きさ」は変えられても、その「質」は変わらない。ウィリングネスは「一つの完結した行為」なのだ。それを説明するために、「ジャンプ(飛び降りる)」のエクササイズが使われる。

「ウィリングネスというのは、ジャンプするのと似ています。いろんなものから飛び降りることができますよね。(セラピストは本を床に置き、その上に立ってから飛び降りる)。
注目してほしいのは、ジャンプの『質』です。自分を空中に放り出し、あとは重力に任せる。これがジャンプです。2回に分けてジャンプすることなんてできません。
本の端からつま先を下ろして、床に触れることはできますが、それはジャンプではありません!(セラピストは本の上に立ったまま、つま先だけを床につけてみせる)。
この小さな本から飛び降りるのだって、立派なジャンプです。それは、もっと高いところから飛び降りるのと同じ『行為』なのです。(セラピストは椅子の上に登って飛び降りる)。
ほら、これもジャンプですよね? 質は同じでしょう? 自分を空中に放り出し、あとは重力に任せる。でも、ここからだとつま先を床につけるのはちょっと難しいですね。(セラピストは椅子の上から無理やりつま先を床につけようとして、ぎこちない動きをする)。
もしこの建物の屋上から飛び降りたとしても、それは同じことです。ジャンプという行為そのものは全く同じで、ただ状況(高さ)が変わっただけです。でも、そこからつま先を下ろすなんてことは絶対に不可能です。
禅の格言に『二歩で峡谷を渡ることはできない』という言葉があります。ウィリングネスもそれと同じです。状況や場面を限定することで、ウィリングネスの範囲を絞ることはできます。ジャンプの大きさ(高さ)は自分で選べます。
しかし、できないことが一つあります。それは『行為の性質』を中途半端にすることです。それでは機能しません。つま先をそっと下ろすのは、ジャンプではないのです。
私たちがここでやるべきなのは、『どうやってジャンプするか』を学ぶことです。最初は小さな段差からで構いません。でも、最初からそれは『ジャンプ』でなければならないのです。そうでなければ、根本的に役に立つことにはなりません。
これは、リラックスする方法を学ぶことでも、歯を食いしばって耐えることでも、徐々に習慣を変えることでもありません。これは『ウィリングネス(受け入れる意欲)を持つ方法』を学ぶことなのです」

ウィリングネスを安全に制限できるのは「状況の大きさ」だけである

「英雄的な一歩は必要ない」と念を押されたとしても、部屋の中に「モンスター(嫌な感情など)」を招き入れるという考えは、クライアントにとって恐ろしいものだ。慣れ親しんだ反応のパターンを手放したとき、一体何が起きるのか誰にも分からないからだ。クライアントはウィリングネスの価値を理解したとしても、リスクは最小限に抑えたいと願う。

広場恐怖症のクライアントならこう言うかもしれない。「心臓がドキドキするくらいなら我慢(ウィリングネス)できます。でも、めまいがしたり気持ち悪くなったりしたら、すぐに逃げ出します」。

ウィリングネスを安全に制限する方法はいくつかあるが、多くの人がやりがちな「質の制限」は逆効果である。ウィリングネスの「質」を中途半端に変えてしまったら、それはもはやウィリングネスではなく、それを壊しているだけだからだ。

ウィリングネスを安全に制限できる唯一の方法は、「時間」と「状況」である。
先ほどの性的虐待サバイバーとの対話の中で、セラピストは彼女が寝室で過ごす時間を「2分間」と制限することを認めた。しかし同時に、その2分間だけは「完全に心を開き、好奇心を持って観察する」という「質の高いウィリングネス」を求めている。

同様に、パニック障害のクライアントであれば、大きショッピングモールへ行く前に、まずは近所のコンビニエンスストアでウィリングネスと受容を練習することができる。
制限してはいけないのは、その「質」だ。「半分だけウィリングネスを持つ」というのは、「半分だけ妊娠している」というのと同じで、原理的にあり得ないことなのである。

ウィリングネスの代償:きれいな痛みと汚れた痛み

痛みには、「きれいな痛み(Clean Pain)」と「汚れた痛み(Dirty Pain)」という重要な区別がある。

きれいな痛みとは、現実の人生の問題に直面したときに感じる「本来の不快感」のことだ。それは必ずしも心地よいものではないが、突き詰めれば、ごく当たり前で自然、かつ健康的な経験である。

対照的に、汚れた痛みとは、そのきれいな痛みをコントロールし、排除し、避けようとして不必要に「もがく」ことで生じる痛みのことだ。多くの人は、もし選択肢があるなら、自分をがんじがらめにしている「習慣的な汚れた痛み」から解放され、本来の「きれいな痛み」を感じるだけの状態に戻りたいと願うだろう。

残念ながら、その「戻りたい(消したい)」という願い自体が、そもそも汚れた痛みを生み出すプロセスそのものなのだ。以下の対話では、セラピストが性的虐待サバイバーの女性と共に、この二つの痛みの違いを探っていく。

セラピスト:あなたが直面している状況を、別の角度から整理してみたいと思います。もし私の言っていることが意味不明だったら、遠慮なく「何言ってるんだ」と言ってくださいね。
あなたには、叔父さんから性的な被害を受けたという過去があります。これは大人が子供に対して行う、絶対に許されない忌まわしい行為です。本当にひどいことであり、あなたの心には深い傷が残りました。だから、あなたはどんな男性に対しても、信頼や親密さが関わる場面になると激しい不安を感じます。不安になるとフラッシュバックも起きます。曖昧な社交の場では神経質になります。……あなたと同じ過去を持つまともな人間なら、誰だってそうなるはずです。

こうした感情的な経験は確かに不快ですが、不健全なものでも、あなたを壊すものでもありません。それは「ただそこにあるもの」です。ですから、こうした一連の反応を、あなたの「きれいな痛み」と呼びましょう。つまり、性的虐待のサバイバーが経験するごく普通の情緒的な反応のことです。ここまでは納得できますか?

クライアント:ええ……でも、それがどうしたんですか?

セラピスト:どうやら、私たちが考慮すべき情緒的な反応は、二つのグループに分けられるようです。一つは、今の「きれいな痛み」。もう一つは、その痛みをどうにかしようとして行っている「対処(マネジメント)」です。
この二つ目のグループには、痛みに対するあなたの「評価(ジャッジ)」も含まれます。例えば、「不安を感じるということは、自分は人間関係を築くには不安定すぎるという証拠だ」という思考。「セックス中にフラッシュバックが起きたら、彼と親密にはなれない」という思考。「パートナーと一緒にいることよりも、不安をコントロールすることの方が重要だ」という思考。あるいは、社交の場でハラハラしたくないという思いや、不安のせいで友情が壊れてしまうという考えなど。
これらの反応を全体として見たとき、あなたの「不安や恐怖のレベル全体」に対して、どのような影響を与えていると思いますか?

クライアント:……ずっと、悪化させていると思います。

セラピスト:そうですね。ですから、こちらのグループをあなたの「汚れた痛み」と呼びましょう。なぜなら、それらはあなたの苦痛を増大させてはいますが、もともとの虐待体験から直接引き継いだ反応ではないからです。言い換えれば、もともとの「きれいな痛み」の上に、「汚れた痛み」を付け足してしまっているのです。分かりますか?

クライアント:つまり、不安を感じることに対する「私の反応」も問題だ、ということですか?

セラピスト:それが問題かどうか、一緒に見てみましょう。この紙に大きな空の円を描きました。(クライアントにペンと紙を渡す)。この円が、今あなたの人生で経験している「すべての痛み」を表しているとしましょう。その中で、「きれいな痛み」が占める割合はどれくらいだと思いますか? パイを切るように書き込んでみてください。もし円全体が100ポイントの苦しみだとしたら、何ポイントが「きれいな痛み」から来ていますか?

クライアント:……50%くらいだと思います。フラッシュバックや悪夢を見るのは少しも楽しくないし、多くの場面で安全だと感じられないのは、精神的にとてもキツいですから。

セラピスト:なるほど。フラッシュバックや悪夢に対する評価も、実は「汚れた痛み」のグループに入るかもしれませんが、今は一旦「きれいな痛み」に入れておきましょう。あなたの話を整理すると、今感じている苦しみの残り50%は、その「汚れた痛み(反応)」によるものだということですね?

クライアント:はい。半分くらいは、トラウマ体験そのものに対する「自分の反応」のせいで苦しんでいるんだと思います。

セラピスト:いいでしょう。そこで提案があります。もし、あなたの苦しみのレベルを「半分」に減らせるとしたら、興味はありますか?

クライアント:……えっ、半分に? そんな風に考えたことはありませんでした。

セラピスト:条件があります。もし苦しみを半分にしたいなら、あなたは「きれいな痛み」を、思考の評価を通さずに「ありのまま」受け入れる意欲を持たなければなりません。
あなたは「きれいな痛み」をコントロールすることはできません。しかし、それを「汚れた痛み」と結びつけるかどうかは、あなた次第です。
イメージしてみてください。あなたの前には、二つの大きなつまみ(ノブ)がついた音楽用のアンプがあります。左側のつまみには「自分の過去」というラベルが貼ってあり、あるレベルで固定されています。これは絶対に回すことができません。
右側のつまみには「自分の過去をありのままに受け入れる意欲(ウィリングネス)」というラベルが貼ってあります。こちらは自分で上げたり下げたりできます。
あなたがこのウィリングネスのつまみを下げると、「汚れた痛み」は増大します。しかし、ウィリングネスを高くセットすれば、「汚れた痛み」は下がっていきます。あなたはこれまで、一生懸命「左側のつまみ(過去)」を回そうとエネルギーを注いできましたが、そのせいで、自分で調整できる「二つ目の設定(受け入れる意欲)」があることを忘れてしまっていたのです。

セッションでの実践:ウィリングネスと受容を促す

セラピストは、こうした議論に続いて「ウィリングネス・苦しみ・活力(Willingness–Suffering–Vitality)」のエクササイズのような宿題を出すことがよくある。このエクササイズでは、クライアントが毎日「受け入れる意欲(ウィリングネス)」「苦しみのレベル」「活力のレベル」を記録していく。また、より高いウィリングネスを引き出したと思われる「自発的な行動」についてメモを取るよう指示することも有益だ。セラピストはその後、音楽を聴く、絵を描く、祈りの言葉を音読するといった「ウィリングネスを生み出す行動」をクライアントの日常生活の中に組み込み始めることができる。

ウィリングネスと受容を促進する強力な方法は、セッションの中に「受け入れがたい内容」を直接持ち込むことである。その目的は、苦痛な内面的な経験をあえて刺激し、クライアントにそこから距離を置かせ(脱フュージョン)、ただそのための「スペース」を作ってもらうことにある。
必要であれば、不快な感覚を引き出すために、セラピー室の外に出ることもある。例えば、広場恐怖症のクライアントなら地元のショッピングモールでセラピストと待ち合わせたり、強迫症状のあるクライアントなら自宅で溜め込んだゴミを一緒に整理したりすることもある。あるいは、辛い感情を引き出す小道具(手紙や写真など)をセッションに持参してもらい、直接的な「曝露(エクスポージャー)」を強化することもある。

この種のエクササイズには、ある種の矛盾が含まれている。一方でクライアントは、恐ろしい経験は勝手にやってくる「コントロール不能なもの」だと感じている。しかし他方で、セッションでのワークは、クライアントが自発的にその恐ろしい対象に向き合うことを求めている。
これは、クライアントが期待している形ではないにせよ、「その瞬間のコントロール」はある程度可能であることを暗に示している。クライアントは「自動的な条件反射(不安など)が現れるかどうか」を支配したいと願っているが、それは不可能だ。しかし、そうした困難な反応と一緒に座り、それらをありのままに観察し、そうすることで不必要に事態を悪化させたり長引かせたりするのを避けることなら、可能なのだ。

受容は単なる「曝露療法」ではない

ACTにおいて「曝露(エクスポージャー)」とは、それまで行動の選択肢を狭めていた刺激(不安など)を体系的に提示し、代わりに行動の幅を広げることを目的とした手法である。受容の介入は、形式的には従来の曝露療法と似ている部分もあるが、質的には全く異なるものである。この違いを理解していないと、臨床上の誤りを招きやすい。

不安がある中でじっとしていることは、確かにクライアントを不安にさらしてはいる。しかし、従来の曝露療法は「興奮(不安レベル)を減少させること」を目的としている。それに対し、受容の目標は、クライアントを不安から「解放すること」ではない。実際、ACTのセラピストは、「苦しい思考、感情、記憶、感覚をただそこに存在させ続けたときに、何が起きるかは分からない」とはっきり告げる。悪化するかもしれないし、良くなるかもしれないし、変わらないかもしれないのだ。

受容エクササイズの目的は、感情的な興奮を和らげることではなく、内面的な経験がある中で、より自由で柔軟、かつ価値観に基づいた方法で「機能できるようになること」を学ぶことにある。これがACTの促す視点であり、多くの研究者も変化のプロセスの証拠に基づき、曝露をそのように捉え始めている。

もし「曝露」の定義をこのように捉えるなら、受容(および心理的柔軟性モデル全体)は確かに一種の曝露であると言えるだろう。そのため、ACTの理論家たちは常に、ACTは「曝露に基づいたセラピーの一種」であると主張してきた。例えば、「脱フュージョン」は、思考が指し示す内容(理屈)ではなく、思考を思考としてそのまま受け止めることを可能にする。同様に、「受容」は、感情が過去に呼び起こした反応ではなく、感情を感情としてそのまま受け止めることを可能にする。
これらのプロセスは、曝露における重要な変数、すなわち「それまで行動を狭めていた出来事がある中で、行動の選択肢を広げること」を促進する。私たちは曝露を「手続き上の意味」ではなく、「機能的な意味」で重視しているのである。

受容は、「何かを消し去るために受け入れる」という小細工ではない。受容の手法によって結果的に症状が軽減することはよくあるが、それが本来の目的ではない。受容を通じて、私たちは「クライアント」と「経験している痛み」との間の「文脈的な関係」を変えようとしているのであり、それによって心理的柔軟性を高めようとしているのだ。
逆説的だが、痛みに立ち向かい、心を開いて好奇心を持ってそれを観察できるようになると、その痛みはしばしばそれほど苦痛なものではなくなる。そうならない場合もあるが、どちらにせよ、人生の選択肢は大きく開かれていくのである。

セッション内で行う受容のエクササイズ

曝露(エクスポージャー)を伴う受容のエクササイズを行うときは、少し遊び心のある名前をつけるのが効果的だ。例えば「不快さん(Mr. Discomfort)を探そう」といった具合である。クライアントに「『不快さん』を探しに行く準備はいいですか?」と尋ねてみる。もしクライアントが乗り気でない(意欲がない)なら、前のステップに戻って話し合う必要がある(例:「分かりました。では、そうやって避けることでどんな代償を払っているか、もう一度見てみましょう」あるいは「もちろん拒否することもできます。ですが、そのためにあなたが脇に置いてしまう『価値観』は何でしょうか?」)。

エクササイズの目的を説明するときは、次のように丁寧に状況を設定することが大切だ。

「これから外へ出て、『不快さん』を見つけに行きましょう。彼を呼び出し、彼と話し、あなたと彼の関係が今どうなっているのかを確かめるのです。もし不快感が現れなくても、それはそれで構いません。私たちの目的は、ただ『彼がここにいてもいい』という意欲(ウィリングネス)を経験することですから。
もし彼が現れたとして、途中で『これ以上ここに留まって様子を見るなんて嫌だ』と思ったとしても、それもまた自由です。これからあなたの『不快ボタン』を少し押すようなことをしますが、決して騙し討ちをしたり、あなたを驚かせたりはしません。どんなステップを踏むにしても、まずは私から提案しますし、それに乗るかどうかはあなたが選んでください。
注意してほしいのは、このエクササイズには『制限時間』がないということです。不快ボタンはいつでも押される可能性がありますから、ただ『この時間をやり過ごせばいい』というものではありません。時計を気にする必要もありません。もしあなたが単にこれを『耐え忍ぼう』としているだけなら、それは(穴を)掘っているのと同じです。
このワークは、やるべきことが終わったときに終了します。『不快さん』が現れたら、彼との関係を再構築(交渉)しましょう。バスの後ろの方に座っている『厄介な乗客たち』を呼び出して、彼らとの関係を点検し、その性質を変えられるか試してみるのです。私たちは、その関係をあらゆる角度から見つめ直します。目的は、あなたが(不快感との)戦いを手放し、自分の人生というバスのハンドルをしっかりと握り続けられるようにすることです」

実際のエクササイズ中は、クライアントに「感情的な不快感」や「不穏な思考」を探すよう促す。もしクライアントが不快感を覚え始めたら、その内容を極めて詳細に描写してもらう。身体感覚、感情、記憶、思考といった具体的な要素を特定していくのだ。

それぞれの要素について、セラピストはこう問いかける。「その(特定の思考、感情、記憶、身体症状)と戦うのを、ほんの一瞬だけやめてみることはできますか? それが『こうなるぞ』と脅してくる姿ではなく、あるいは『こうであるはずだ』と言っている理屈でもなく、ただ『ありのままの姿』として、そこに存在することを許せますか(意欲を持てますか)?」

もしクライアントがパニックや深い悲しみ、あるいは他のネガティブな状態に沈み込みそうになったら、注意を「外側の環境」に向けるよう提案する。ネガティブな内面体験には気づいたままでいさせつつ、同時に外の世界で起きていることにも気づくように促すのだ。

具体化(フィジカライジング)のエクササイズ

「具体化(物体化)」のエクササイズは、ゲシュタルト療法の伝統から取り入れたもので、主観的な経験を「知覚できる特徴を持った物理的な物体」に変換することを目的としている。
まず、クライアントを悩ませている反応(感情、身体の状態、強迫的な思考、薬物を使いたい衝動など、そのケースに関連するものなら何でもよい)から始める。セラピストは、その悩みの種を「一つの物体」であるかのように想像してもらう。そして、その物体の特徴を詳しく探っていく。

セラピスト:では、今感じているその『うつ』を自分の外側に置いて、4〜5メートルほど前の床の上に置いているところを想像してみてください。後でまた自分の中に戻しますから、もし外に置かれるのを嫌がっているようなら、『すぐ戻すから大丈夫だよ』と伝えてあげてください。目の前の床の上に置けたら、教えてください。

クライアント:……はい、置きました。

セラピスト:では、もしその『うつ』という感覚に『大きさ』があるとしたら、どれくらい大きいですか?

クライアント:(沈黙)……この部屋と同じくらい、大きいです。

セラピスト:もしそれに『色』があるとしたら、何色ですか?

クライアント:真っ黒です。

セラピスト:もしそれに『速さ』があるとしたら、どれくらいのスピードで動いていますか?

クライアント:ゆっくりと、重苦しく動いています。

このプロセスは、さらにパワー、表面の質感、内部の一貫性、形状、密度、重量、柔軟性、その他セラピストが選んだあらゆる物理的な次元に関する質問へと続いていく。クライアントには一つひとつの回答を言葉にしてもらうが、深い議論には深入りしない。

ある程度のデータが集まったら、最初のいくつかの項目に戻り、何かが変化していないかを確認する(例:さっきまで大きかったものが、今は小さくなっているかもしれない)。もし心理的な状況にあまり変化がなければ、その「大きくて黒くてゆっくり動くもの」に対して、クライアント自身がどんな反応(評価)を抱いているかを尋ねる。多くの場合、クライアントはそれに対して怒りを感じていたり、嫌悪感を抱いていたり、欲しくないと思っていたり、怖がっていたり、憎んでいたりする。

その核心にある強い反応(評価)を捉えたら、クライアントに「最初の物体(うつ)」を少し横にずらしてもらい、今出てきた「二つ目の反応(嫌悪感など)」を、最初の物体のすぐ隣に置くように促す。そして、二つ目の反応に対しても同じ「具体化(フィジカライジング)」のエクササイズを繰り返す。

その後、再び最初の物体に目を向けてもらう。通常、二つ目の反応(評価)を物体化すると、最初の物体は薄くなったり、軽くなったり、力が弱まったりしている。時には、これらの属性はスイッチのように切り替わることがある。二つ目の反応(嫌悪感)を文字通りに受け取り、そこから最初の物体(うつ)を眺めている間は、最初の物体は強力なままだ。しかし、二つ目の反応自体を「単なる一つの物体」として客観視(脱リテラル化)すると、最初の反応の強烈さは和らいでいく。

もし変化が起きない場合は、セラピストはそのシステムを維持している「別の核心的な反応」を探すか、単にエクササイズを終了する。セラピストは、たとえ期待した結果が起きなかったとしても、特定の結末を暗示してはならない。ただ、ある反応を「物理的な物体」として――戦うことなく――描写するだけで、その反応の性質は根本から変わる。このシンプルな経験は、現実の生活でその反応が再び起きたときの「文脈」を変える力を持っている。反応自体は同じでも、たとえクライアントがまだ葛藤していたとしても、その見え方は変わるのである。

ACTセラピストの間で人気のバリエーションに「空き缶モンスター(Tin Can Monster)」というエクササイズがある。これは通常、特に苦痛で困難な感情、思考、記憶から始める。ここでは「パニック」を例にとる。

セラピスト:私たちの問題に向き合うのは、空き缶と紐でできた巨大なモンスターに立ち向かうようなものです。高さ9メートルのモンスターに正面から立ち向かうのはほぼ不可能に思えますが、もし彼をバラバラにして、彼を形作っているすべての缶や紐、ワイヤー、ガムなどに分解してしまえば、一つひとつのパーツなら扱いやすくなるはずです。
そんな風に物事が進むかどうか、ちょっとしたエクササイズで確かめてみましょう。まずは目を閉じてください。
[ここでセラピストは、クライアントを落ち着かせ、集中させ、リラックスさせるためのいつものコーチングを加える]
よし。まずは去年の夏に起きたことを何か一つ思い出してみましょう。何でも構いません。何か思い浮かんだら教えてください。

クライアント:……家族と湖に行ったときのことです。ボートに乗っています。

セラピスト:では、そのとき起きていたすべてを思い描いてください。自分がどこにいて、何が起きているか。当時のように見え、聞こえ、匂いを感じられるか試してみてください。ゆっくりでいいですよ。
[セラピストは、クライアントが記憶に入り込めているかを確認するために、適宜言葉を引き出す]
そして、あなたがそこにいたことに気づいてください。その瞳の奥には、一人の人間がいました。去年の夏からこれまでに多くのことがありましたが、その人は今もここにいます。私はその人を「観察しているあなた」と呼びます。
その視点から、職場で現れるあの「パニック」という感覚に触れてみてください。準備ができたら教えてください。

クライアント:(沈黙)……はい、感じます。

セラピスト:今、自分の体を見守って、何が起きているか見てみましょう。ただその感覚を感じ続けながら、体を見守ってください。何かに気づいたら教えてください。

クライアント:胸が締め付けられるようです。

セラピスト:では、その胸の締め付けと「戦う」のをやめることはできるでしょうか。目的は、その感覚を好きになることではなく、それを単なる一つの「身体的な出来事」として持つことです。その締め付けが、正確にどこで始まり、どこで終わっているかを確認してみてください。
その締め付けが、肌の上に描かれた「色のついたパッチ(斑点)」だと想像してみてください。それがどんな形をしているか見てみましょう。そうしながら、この単純な身体感覚に対するいかなる防衛も戦いも手放してみてください。……もし他の感情が割り込んできたら、それらには後で対処するから大丈夫だと伝えてください。その締め付けに対して、もう少し心が開けたと感じたら教えてください。

クライアント:……はい。

セラピスト:では、今の反応を一旦横に置いておきましょう。再びパニックの感覚を意識の中心に持ってきて、また静かに、体の中で何が起きるか見守ってください。別の反応が現れるかどうか見てみましょう。見守るときは、常に「観察しているあなた」――瞳の奥にいるあなた――のままでいてください。反応を見つけたら、それが何であるか教えてください。
[セラピストは2〜3個の身体反応についてこれを繰り返す。もしクライアントが「何もない」と言うなら、しばらくその状態に留まる]

さて、今度はまた、職場で感じていたあのパニックの感覚に戻ってみましょう。準備ができたら教えてください。

クライアント:はい。

セラピスト:よし。では、引き続き体の中で起きることを探していきます。ただし今回は、体の中で起きるあらゆる些細な出来事を、ただ淡々と、客観的に眺めてみてください。一つひとつに触れては、次へ進みます。
それぞれの反応に対して、ただそれを認めましょう。まるで道ですれ違う人に軽く会釈するような感じです。それぞれの頭をポンポンと叩くような気持ちで、次の反応を探してください。そしてその都度、その身体感覚と戦ったり消そうとしたりせずに、迎え入れることができるか試してみてください。
ある意味で、家にやってきた客人を迎え入れるような気持ちで、それを歓迎できるか試してみるのです。

身体感覚についての一連のプロセスが終わったら、今度は関心のある他の「行動の領域」に対しても同じことを行います。例えば、本人が「やってみたいけれど、抑え込まれている行動」「思考」「評価(ジャッジ)」「感情」「頭に浮かぶ社会的役割」などです。扱う経験が苦痛であればあるほど、効果的です。

一度に扱う反応は一つずつに絞りましょう。例えば、もし「逃げ出したいという衝動」について取り組んでいるなら、その間は思考や他の行動、感情などを混ぜないようにします。クライアントが何をしているのか分からなくなったら説明を求めますが、深い議論(おしゃべり)にはならないように注意します。そして、常にクリエイティブな方法で「手放す(受け入れる)」というテーマに戻ってきてください。

通常、最後に取り組む領域は「記憶」です。記憶は感情的に特に強力な場合が多いからです。ここでは、さらにメタファーを付け加えると効果的です。

「よし、では最後のパートです。あなたの人生のすべての記憶が、アルバムの中に並んだ小さな写真だと想像してみてください。まず、アルバムをめくって、去年の夏のあの記憶まで戻ってみましょう。もう一度、その場面を体験している『あなた』という感覚を思い出せますか? ……はい、いいですね。
では、あのパニックの感覚ともう一度繋がってみてください。しっかり繋がったら、アルバムのページをパラパラと後ろへめくっていきましょう。ある写真が目に止まったら、たとえそれがパニックと何の関係もなさそうに見えても、その写真に何が写っているか教えてください」

記憶に触れたら、次のような質問を投げかけます。
「他に誰が写っていますか? あなたは何歳ですか? どこにいますか? その時、どんなことを感じ、考えていましたか? 何をしていますか?」
クライアントには手短に答えてもらいますが、ここでも会話(世間話)にはならないようにします。

「では、その記憶の中で、あなたが『今そこにあるもの』を避けてしまったかもしれない場所を探してみてください。何らかの形で、自分の経験から逃げようとしていないでしょうか。……そして今、この機会に、あの時心理的に逃げ出してしまった場所へ、あえて自ら進んで踏み込んでみる(ウィリングネスを持つ)ことで、その記憶の中にあるトラウマの感覚を『抜いて』みましょう。
その記憶に対してどんな反応が起きても、それが『ただそのままの姿』であることを認め、起きたことを『ただ起きたこと』として受け入れられるか、確かめてみてください。それが好きである必要はありません。でも、それを自分の中に持っておくことなら、できますよね!
(これを2つか3つの記憶で繰り返します)
よし。準備ができたら、そのアルバムを閉じて、目を閉じてエクササイズを始める前のこの部屋の様子を思い出してください。それが思い浮かび、戻ってくる準備ができたら、目を開けて今この瞬間に戻ってきてください」

このエクササイズは時間がかかりますが、非常に強力です。安全な文脈の中で、恐れていた経験にじっくりと触れ続けることができます。セラピストは、クライアントが「何がウィリングネスを下げさせているのか(思考のフック)」や、「思考を信じ込んでしまったときと、そうでないときの反応の質の違い」に気づけるように手助けします。

ACTのセラピストは、深い解釈を加えることなく、あらゆる反応(大小問わず)を興味深く観察し、その内容に対して評価を下さずに心を開いた態度を貫きます。

持ちながら動く(Have and Move)

ウィリングネスと受容のワークが進むにつれ、焦点は「心理的な意味で不快な内容と一緒に立つ(耐える)」ことから、「望まない経験を『吸い込み(受け入れ)』ながら、価値ある方向へ進むこと」を学ぶ段階へと移っていきます。
この進歩は、受容を強化する本来の目的に立ち返るものです。つまり、苦痛な内容に対してオープンで受容的な姿勢を取ることによってのみ、人は価値ある人生の方向を追い求めることができるようになるのです。

受容のおかげで、苦痛な内容が存在していても、それが価値ある行動を阻む「壁」ではなくなります。この焦点のシフトには、二つのテーマが特に役立ちます。

一つ目は、「人間は自分の皮膚の内側にある経験よりも『大きい』存在である」ということ。内面的な出来事は、人生という旅に連れて行く、単なる「持ち物(装備)」に過ぎないということです。「膨らむ風船」のメタファーはこのメッセージを伝える素晴らしい例です。

「自分自身を、どんどん膨らんでいく風船だと考えてみてください。風船の表面、つまり一番外側の部分は『成長の境界線』です。そこでは、常に同じ問いかけが繰り返されています。
『あなたには、これを抱えるだけの心の広さがありますか?』
あなたがどれほど大きくなっても、さらに大きくなることができます。何か問題が起きたとき、同じ質問が投げかけられ、あなたは『はい』か『いいえ』で答えることができます。
もし『いいえ』と言えば、あなたはしぼんで小さくなります。もし『はい』と言えば、あなたはさらに大きく膨らみます。
『はい』と言い続けても、物事が必ずしも楽になるとは限りません。次に現れる問題も、前のものと同じくらい難しく感じられるかもしれないからです。しかし、『はい』と答えることは次第に習慣(癖)になり、あなたの経験は強大な心の貯蔵庫となります。
困難な問題が起きたとき、『いやだ、次はこんな問題なんて欲しくない』と思うかもしれません。でも、人生はあなたの状況が変化するにつれて、次々と新しい課題を突きつけてきます。その順番を、私たちが選ぶことはできないのです」

自分自身の「大きな自己の概念」と比べて、内面的な内容を「ちっぽけなもの」として捉え直す(スケールダウンさせる)メタファーは、他にもたくさんあります。
例えば、特定の思考や感情、記憶の塊を、巨大な豪華客船の甲板に並んだ「デッキチェア」に見立てて、こう尋ねてみます。
「広い視点で見れば、この船がどう航海するかにおいて一番重要なことは何でしょうか? デッキチェアのいくつかが不格好に見えることですか? それとも、エンジンやプロペラへと続く駆動系がしっかり動いていることですか?」

この段階における二つ目のテーマは、「クライアントは自分の過去(歴史)を置き去りにすることはできない」ということです。
前述したように、神経系は「足し算」で動きます。過去に条件付けられた反応を「忘れ去る(学習を消去する)」ことは不可能です。唯一できることは、古い反応の「文脈的な意味」を変えるような「新しい反応」を付け加えていくことです。
例えば、痛みそのものに「なりきる」のではなく、痛みを「観察する」ことは、大きな文脈のシフトを意味します。それはクライアントと、クライアントの痛みの関係性を再定義することです。
ACTでは、痛みをいわば「道連れにしてドライブに行く」ような状態を目指します。「自分の鍵を持ち歩く(Take Your Keys with You)」のメタファーは、この点を物理的な形で示してくれます。

クライアントが鍵を持っているか尋ね、それを借ります。
鍵をテーブルの上に置き、こう言います。
「よし、これらの鍵が、あなたがこれまで避けてきたものを表しているとしましょう。この鍵が見えますか? これはあなたの『不安』です。この鍵は? これはお母さんに対する『怒り』ですね」
[セラピストは、クライアントの抱える主要な問題をそれぞれの鍵に当てはめていきます]
そして、鍵をクライアントの前に置き、こう尋ねます。「さて、あなたはこの鍵をどうしますか?」
もしクライアントが「置いていく」と言ったら、こう返します。
「そうすると、二つのことが起きます。第一に、置いていくどころか、あなたは『ちゃんと置いてあるか』を確認するために何度もそこへ戻ってくることになります。そうなれば、あなたはどこへも行けません。
第二に、鍵なしで人生を生きるのは大変です。鍵がないと開かない扉もありますから。……さあ、あなたはこの鍵をどうしますか?」

クライアントが何かアクションを起こすのを待ちます。
たいていのクライアントは、実際に鍵を手に取ることに少し抵抗を感じます。一つには、このエクササイズ自体が少しバカげて見えること(それ自体もまた一つの『鍵』です)。そして二つ目には、鍵が「悪いもの」の象徴だからです。
その文脈で、実際に鍵を手に取ることは一歩前進です。セラピストは、クライアントが自ら(促されずに)鍵を拾い上げるまで、提示し続けます。
もしクライアントが「鍵を拾うなんて、バカみたいに感じます」と言ったら、一つの鍵を指さしてこう言います。
「その『バカみたいだ』という感覚? それは、ここにあるこの鍵のことですね! さあ、どうしますか?」
ついに鍵を拾い上げたら、こう言います。
「いいですね。さて、問いはこうです。……あなたは、どこへ行きたいですか?」
そして、クライアントはどこへでも好きな方向へ行くことができ、その間もずっと「鍵」を持ち続けている、という点に注目させます。
また、新しい鍵が次々と現れること、そして今「はい」と答えたからといって、人生から同じ質問が何度も何度も、繰り返し投げかけられないわけではない、という点も伝えます。

セッションの間の宿題として、日常生活で「鍵を使う」たびに、苦しい内面体験との戦いを「手放す」ことを思い出す、という課題を出すのも良いでしょう。

このメタファーにおいて、キーリングについた鍵は、それぞれ異なる困難な感情や記憶、思考、あるいは反応を表しています。
このメタファーは二つの重要な側面を浮き彫りにします。
第一に、鍵を拾い上げて持ち歩くことは、クライアントがどこへ行くことも邪魔しない、ということ。
第二に、これらの鍵を「自ら進んで(ウィリングネスを持って)」持ち歩くことで、他の方法では決して開かなかったであろう扉を開けられるようになる、ということです。
「あなたの痛みこそが、あなたの強みである」という古い格言があるように、暗闇を通り抜け、その向こう側へ出る経験は、私たちに「信じること」「慈しむこと」、そして「正しいことをすること」を教えてくれます。
クライアントが実際に使っている「本物の鍵」を使ってこのエクササイズを行うことは、物理的な「指針(タッチストーン)」となります。それは、重要な目標(どこへ行くのか)、そこへ行くための手段(ウィリングネス)、そして進むために持ち歩かなければならないもの(自分の過去と、そこから生じる反応)を思い出させてくれるのです。
私たちは一日に何度も鍵を使います。そのため、セラピー以外の場所でも、大切なことを思い出す頻繁なきっかけとなってくれるのです。

他のコアプロセスとの相互作用

受容と脱フュージョン

受容と脱フュージョンのワークは非常に密接に絡み合っているため、治療中にはどちらを行っているのか区別がつかないこともある。クライアントの主要な問題が「受容のレベルが低いこと」なのか、それとも「思考との一体化(フュージョン)が激しいこと」なのかは、必ずしも明確ではない。

多くの場合、受容や意欲(ウィリングネス)の低さは、クライアントが何か受け入れがたい内面的な事柄とフュージョンしていることを示すサインである。受容のワークが必要であることを示す典型的なサインには、特定の感情的な話題が出たときに生じる「硬直感」がある。例えば、急に言葉が詰まったり、逆に早口になったり、体が緊張したり、予期せぬ話題転換をしたりすることだ。また、唇や声が震えた直後に、自分を正当化するような「物語(ストーリー)」を語り始めることもある。このような場合、セラピストは「今、あなたの『反応的な思考(マインド)』は、あなたに何を投げかけていますか?」といった言葉を使い、探求すべき領域を切り開くことができる。

受容と価値づけ

受容のワークは、自然と「価値観」や「コミットした行動」のワークに栄養を与える。受容の実践がクライアントの生活に広まると、自分自身への慈しみ(セルフ・コンパッション)が生まれ、より大きな人生の方向性について考えられるようになる。この段階に達すると、クライアントは自分の価値ある行動のために、自発的にウィリングネスや受容を使い始める。焦点が「生き生きとした生活」へと移り、軽やかさや活力、可能性を感じられるようになる。

時には、解決すべき古い問題が自発的に持ち出されることもある。例えば、セラピーの過程で傷ついた過去の出来事が、柔軟な形で話題にのぼり、それによってセラピストとの信頼関係がさらに前進することもある。マインドフルネスや受容のワークによって、人々の行動の幅が広がり、セラピーという「実験室」から日常の生活へと自然に移っていく。そのとき、彼らの心には「生きることへの興味」が満ちているのである。

受容とコミットした行動

受容は、コミットした行動(責任ある行動)を支えるために行われるものであり、実生活で受容を実践することを含んでいる。クライアントとセラピストは、行動を妨げる可能性のある「壁」を特定し、セッション中にリハーサルを行ったり、様々な曝露(エクスポージャー)エクササイズを使ってその「壁」の影響力を弱めたりする。

その後、クライアントは合意した「コミットした行動」を実生活で試す「実験」を行い、次のセッションで、受容のプロセスがどれくらい進んだか、成功や失敗についてセラピストに報告(デブリーフィング)する。ここでセラピストは、控えめで忍耐強いアプローチを取る必要がある。受容が常にすぐさま結果として現れるわけではないからだ。強い感情を呼び起こすような出来事を避けようとして、一度決めたコミットメントから逆戻りしてしまうこともあるだろう。しかし、こうした一時的な後退は、治療にとっての「良い材料(糧)」に過ぎない。自分についての作り話や、使い古された過去の記憶が繰り返されるのではなく、「生き生きとした生活」を阻む「本物の壁」がついに姿を現した、という意味だからである。

受容と「自己」または「今この瞬間」へのプロセス

受容を成立させるためには、クライアントが常に「今この瞬間」に留まり、回避工作の一環として意識をどこかへ飛ばしてしまわないことが不可欠である。そのため、多くの受容の介入は、クライアントを「今この瞬間」に導くことから始まる。これは、5分間の深呼吸のような構造化されたエクササイズで行われることもあれば、クライアントが受容に苦しんでいる兆候をセラピストが察知したときに、その場で行われることもある(例:「今、唇を噛みましたね。あなたの中に何が現れましたか?」)。

同様に、「自己」の視点を取る能力(観察する自己)にアクセスすることも、受容の姿勢を保つためには極めて重要である。「今自分の内側にあるものを抱えられるくらい、あなたは大きいですか?」というクライアントへの問いかけは、今起きていることを自分の一部として取り込むために、意識を広げるような心の準備を作ってくれる。ACTには、意識を広げて、今そこにあるものをただ観察するよう促す介入が数多く存在する。その意味で、受容と「自己」のプロセスは、セッションの中でも外でも、常に相互に影響し合っているのである。

セラピストとして「すべきこと」と「すべきでないこと」

言葉が多すぎること(理屈っぽさ)

受容(アクセプタンス)というものは、行動の結果(随伴性)に直接触れる体験を通じて形作られるものだ。受容についていくら言葉で「語って」も、クライアントが受容のスキルを習得する助けにはならない。ACTのアプローチを始めたばかりのセラピストは、あたかも受容が言葉だけで完全にモデル化できるかのように、受容について「解説」し、さらには「再解説」を繰り返してしまいがちだ。治療の進みが遅いとき、初心者のセラピストは、クライアントがACTの考え方を十分に理解していないから失敗しているのだと思い込み、基本的な理屈をまた一から説明したくなる強い誘惑に駆られる。

しかし、はるかに優れたアプローチは、もっと「体験的」になることだ。受容は、文字通りの意味で完全に説明し尽くせるものではない。メタファーや類推、体験的なエクササイズこそが、私たちの知識を形作り、スキル習得への道筋を作ってくれる。単に受容について話し合うのではなく、セッションの中で実際に受容を「練習する」機会を見つけることが重要である。

セラピストによる「従順さ」の強要(プライアンス)

ACTセラピストは、苦しんでいるクライアントを「優しい眼差し(ソフト・アイ)」で見つめ、受容とはあくまで「価値観に基づいた自発的な選択」であることを忘れてはならない。クライアントに、受容が必要であることを論理的に説得しようとしても、ほとんど意味はない。喉が渇いて死にそうな馬を水辺に連れて行っても、その馬が飲むのを拒むのを見るのは辛いものだ。同様に、あともう少しの「意欲(ウィリングネス)」があれば人生が変わるのに、受容が欠けているのを見るのは苦しいことだ。しかし、受容を強制したり、相手をセラピストに従わせる(従順にさせる)ことで得たりすることはできない。

もしクライアントが選択に迷っているなら、セラピストは自分自身とクライアントを信じ続けなければならない。具体的には、その場の苦しい状況に自分も心を開き、クライアントがいつか変わる力を持っていることを信頼し、忍耐強くお手本を示すということだ。「大丈夫ですよ」という気休めの言葉(再保証)はたいてい役に立たない。それよりも、それがたとえ小さなジャンプであっても、実際に「飛ぶ(ジャンプする)」という行為を積み重ねる方が助けになる。その小さな一歩が、後に巨大な跳躍へとつながることもあるのである。

慈悲によるサボタージュ(妨害)

「説得」や「プッシュ」の裏返しとして、セラピストは時に、クライアントを「今ここにある厳しい現実(何があってもそこに留まるという選択)」から守りたくなる誘惑にかられることがある。例えば、トラウマのサバイバーを、苦痛な記憶から遠ざけようとしてしまう衝動だ。その衝動の根底には、「あまりに過酷な過去は、抱えて生きていくには重すぎる」という、セラピスト自身が信じ込んでしまっている(フュージョンしている)思考がある。

多くの場合、このような「慈悲深いサボタージュ」は、セラピスト自身の「地雷(ホット・ボタン)」が踏まれたサインである。セラピストが自分自身の問題をまだ受容できていないと、クライアントにも受容させまいとする誘惑に負けてしまう。真の慈悲(コンパッション)は助けになるが、クライアントは人生から守られる必要はない。むしろ、今この瞬間を生き抜く力をさらに与えられるべきなのだ。苦しい過去の内容を消し去る唯一の確実な方法は、過去に執着するのをやめることだ。それにはクライアントの勇気だけでなく、セラピストの勇気も必要なのである。

進歩のサインを読み取ること

治療の初期段階では、クライアントは自分の内面で起きていることを受け入れるという考えに苦しみ、個人的な痛みを引き起こすような生活上の出来事、状況、対人関係に自ら進んで身をさらすというアイデアには、さらに激しく抵抗する。これは、クライアントが使う「言葉」(例:「思い出すなんて無理、辛すぎる」「ただ何も感じたくない」)や、特定の状況を避け続ける一貫したパターン(例:意欲の低さ)に現れる。

進歩が始まると、通常、これらと同じ二つの領域に変化が見られる。クライアントは、恐れていた内容に対して、よりオープンで受容的な姿勢を取っていることを示す言葉を、自発的に使い始める(例:「これは消えないんだと気づきました。嫌だけれど、向き合わなきゃいけないんだって」「彼と言い争うのは辛かったけれど、その痛みを感じたままでいいから、自分の言いたいことを言おうと自分に言い聞かせました」)。

また、クライアントはセラピーで話し合ってもいないのに、自発的に「ウィリングネス(意欲)」を伴う行動を取り始めることもある。これは、受容というアクションが、他の困難な生活場面にも広がり(般化し)始めたサインだ。セッション自体の雰囲気も、初期の緊張感や自己中心的な深刻さとは対照的に、軽やかでオープン、かつリラックスしたものに変わっていく。

クライアントは、外の世界と内面の世界の両方に対して「受容」の姿勢を取ることが、自分への優しさや慈しみを育むのだということを、体験的に理解し始める(腑に落ちる)。「屈服する(降参する)」ことは、もはや「あきらめる」ことではない。それは、自分自身や他者との関係における「全く新しい可能性」を切り拓くことであり、クライアントにとっては真の解放感をもたらす経験となり、セラピストにとってはそれに立ち会える喜びとなるのである。

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