治療論を考えるとき、まず医学の伝統の通り、身体医学的な発想で、緊急の生命の危機に際して、議論の余地なく、つまり価値観の議論の余地なく、死なないことの価値が選択された。
例えば、犯罪者であっても、医療は別枠で、とりあえず命は助けて、そのあとで、社会的制裁なり矯正なり考えるという手順である。
それはそれですっきりしていてよいものだと思う。
精神科でも、自傷他害の場面など、緊急対応はあって、本人と周囲の生命保護を考えていればよい。しかし慢性期の治療になるとそうはいかない。ACTの本も、価値とコミットメントを扱っている。北極星に向かって歩くようなもので、価値にコミットするのがよいというのである。
医学の場面で、価値にコミットとか言われても、と後ずさりする。どんな価値を選べばよいのか、もちろん、分からない。どのようにコミットすればよいのかも、もちろん、怪しい。しかしそれでも、人生の方針としての価値判断を迫られているのである。
離婚するかどうか、どこまで我慢すればよいのか。会社でどこまで頑張れば十分なのか。福祉制度はどこまで利用するかしないか。家族にどこまで頼るか。
いずれも難しい。
取りあえず一所懸命考えて、あるいは、理由などはっきりしなくても、選んでほしい。そしてその価値に向かって歩めば幸せだよって、そんなこと、言えるものだろうか。言わないでいられるものでもないので、何かは言っているのであるが。
このあたりの話は昔から実存哲学とか人間性精神療法とかの専門分野である。精神分析では何が人生の価値かなどの議論は第一列ではない。
ではどうするか。慢性期の患者さんで、「リカバリーだ」と言って何かする。貧困ビジネスは寄ってくる。ニュースで何かそのあたりのことが流れている。会社に行けなくなった人をトレーニングして、会社に行けるようにすれば、ご褒美として、施設にお金が入るのだそうだ。それを悪用して、トレーニング期間の後に、自分のところで雇ってしまう。特に仕事のようなことはしない、一定期間が来たら、またトレーニングに戻る。それで補助金がもらえるというスキーマだそうだ。
リカバリーは思想的に、原理的に何か怪しい。
金銭のことを考える。発病後は収入が減るのが一般的だ。結婚もしにくしい子供も育てにくい。だから子孫はだんだん減るはずで遺伝子は淘汰されるはずなのだが、そうはならない。子供を産んでからの発病もあるし、親も長生きで保護もある。しかし長い目で考えれば、精神病になれば、社会経済的階層低下が起こるものと思われている。
ところが、ピケティが言うように、「資本収益率(r)は経済成長率(g)を上回る。」資産運用で得られる富(株、不動産など)の増加ペースが、働いて得る給与の伸び(経済成長)を上回ることを示す。つまり放置すれば格差が拡大し続ける構造となっているのである。この社会は。
そこから考えると、十分な資産のある家庭に精神病者が生まれ育ち、十分な労働ができないとしても、rはgよりも大きいのであるから、何も心配はない。相続税で持っていかれるとしても、資産はそれ以上に稼いでくれる。この人たちはおおむね非常におとなしく暮らしているので、資産を失うような浪費や賭博、投機はしない。資産家一族といっても、遺伝子変異は平等に発生するので、必ず精神病も発生する。それでも、資産が稼いでくれるから心配はいらないのである。そうすると、資産を持った精神病者が一定数存在し続けることになる。
資産のない精神病者は浮浪者になったりするかもしれない。その人たちは子孫を残すのは大変だろう。
結論として、r>gならば、貧乏な精神病者は存在しない傾向となり、富裕な精神病者は順調に富むのではないだろうか。そんなはずはないので、どこかが間違っているのだろう。
いずれにしても、人生の価値を考えることは、本当は必要なことだ。
