静けさの共鳴──共感と沈黙のあいだに

静けさの共鳴──共感と沈黙のあいだに

人がもっとも深く共感するのは、言葉によってではない。
むしろ、言葉が尽きたとき、あるいは、言葉が敗北したときに生まれる、沈黙こそが、共感の最も純粋な形式となることがある。
そしてこの沈黙のなかで響くもの──それが、本当に「聴かれている」ことの証なのかもしれない。

精神療法の現場でも、ある瞬間、言葉が急にその力を失う場面に出会う。語ることに疲れた患者が、ソファに深く沈み込み、しばし沈黙する。セラピストもまた、何を言うべきか、言ってよいのか迷い、口を閉じる。そのとき空間に広がる沈黙は、決して「何もない」わけではない。むしろ、濃密な意味に満たされている。そこには、過去と現在、私とあなた、苦しみと祈り、理解と誤解が渦を巻いている。


沈黙は、言葉を超えて「聴く」

「沈黙は金」と言われるように、沈黙にはそれ自体、価値があるとされてきた。だがそれは、単なる美徳としての慎みではない。沈黙とは、言葉では伝えきれないものへの「耳」であり、「共にあること」の最深部である。

オイゲン・ミンコフスキー(Eugène Minkowski)は、精神分裂病者の時間経験を分析するなかで、「生きられた時間」のリズムの乱れを強調した。その歪みを修復するものとして、彼は「共にあること(être-avec)」の重要性を訴える。ここには、言葉を用いた分析よりも、「沈黙のうちにそこにいる」ことの臨床的意義が深く関わってくる。

人間学的精神療法では、「ただ存在すること」がいかに癒しとなるかが語られる。パーソンセンタード・セラピーのロジャーズも、共感的理解の極致として「クライエントの世界を彼のように感じつつ、しかしそれに巻き込まれない」というあり方を述べたが、この「巻き込まれずに感じる」ことの表現は、沈黙の中でこそ最も深く体現される。


俳句と茶室の沈黙──美的経験としての共感

沈黙は、東洋的な文化においては特に重んじられてきた。たとえば俳句の世界。芭蕉が「古池や 蛙飛びこむ 水の音」と詠んだとき、音のなかにある沈黙、そしてその沈黙が生む共感の空気が読む者の胸を打つ。

茶道における「わび・さび」もまた、言葉少なに、道具の音や季節の気配に心を寄せ合うことで共感が成立する場である。客と亭主が言葉少なく、ただ静かに湯を沸かし、茶を点て、飲む。この「無言のもてなし」は、身体的共振と感情の沈潜によって「わかりあう」試みであり、精神療法の場における非言語的な共感に非常に近い。

心理学者のアーヴィン・ヤーロムは、ある症例で、言葉では語られない絶望に沈むクライエントのそばに、ただ黙って座り続けた。そして後にその人は、「あのとき、あなたが沈黙してくれたから、生きていようと思った」と述懐したという。共感とは、言葉の多さではなく、「どこに、どんな姿勢で、どれほどの誠実さで」そこにいるかによって評価される。


神経科学と沈黙の可能性

神経科学の立場からも、沈黙がもたらす神経的影響が注目されている。脳は常に言語情報を処理しているわけではなく、沈黙の間に「デフォルト・モード・ネットワーク(DMN)」が活性化し、自己の内的状態や他者への共感が促される(Raichle et al., 2001)。言葉を介さない時間こそが、むしろ感情的な情報処理や共感的理解に必要な「余白」となる。

また、近年の研究では、沈黙にはストレスを軽減し、前頭前野の活動を整える効果があることが報告されている(Kumar et al., 2014)。言い換えれば、セラピストの沈黙はクライエントの脳に「呼吸の場」を与え、共感のための神経的基盤を静かに整えているのだ。


沈黙の倫理──「語らぬこと」の重さ

しかし、すべての沈黙が善なるわけではない。沈黙には、「抑圧の沈黙」「無視の沈黙」「共謀の沈黙」も存在する。精神療法においても、セラピストの沈黙が時にクライエントに「見捨てられた感覚」や「裁かれている感覚」を与えることがある。

では、どのような沈黙が共感的でありうるのか?
それは、「ともにいる」ことを態度で示しつつ、「あなたの存在を受け止めていますよ」という含意をもつ沈黙である。沈黙とは、相手の声に「応答しない」ことではなく、「言葉以外で応答する」ことなのである。

精神療法家の宮本忠雄は、フロイトの精神分析とは別の文脈で、日本的な「まことの共感」を模索した。そのなかで彼が重視したのが、「沈黙をともに味わう」ことであった。彼にとって、沈黙は「空白」ではなく、「共鳴する器」として働くものであった。


結びにかえて──沈黙は声よりも深く語る

沈黙の中に浮かぶ表情、まなざし、息づかい。共感とは、たしかに言葉で届けられることもあるが、ほんとうに深く届く共感は、むしろ言葉が届かないとき、沈黙によってのみ届けられる。

精神療法の現場において、沈黙は「何かを語るための間」ではない。むしろそれ自体が語りであり、語り得ぬものへの応答である。
「何も言わなかったが、すべてを受け止めてくれた」──患者がこう感じるとき、沈黙は言葉以上の力を発揮している。

共感と沈黙。その交わる点に、臨床の奇跡がそっと芽吹いているのだ。


参考文献・資料

  • Minkowski, E. (1933). Le Temps Vécu. Paris: D’Artre.
  • Raichle, M. E. et al. (2001). A default mode of brain function. Proceedings of the National Academy of Sciences, 98(2), 676–682.
  • Kumar, S. et al. (2014). Silence as a Therapeutic Intervention. Journal of Psychosocial Research, 9(2), 331–338.
  • ヤーロム, I. D.(2008)『死を見つめる勇気』(原題:Staring at the Sun)紀伊國屋書店。
  • 宮本忠雄(1991)『臨床と人間理解』みすず書房。

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