洗脳をいかに解除するか──人間学的精神療法の視点から

洗脳をいかに解除するか──人間学的精神療法の視点から

ある日のこと、長らく関わっていた患者が、ふと口にした。

「先生、私、最近まで、自分の考えを持っているつもりだったんです。でも、よくよく振り返ると……それ、全部“誰かの声”だったんですね」

私は黙ってうなずいた。こうした発見がもたらされる瞬間は、臨床家にとっても特別な時間である。それは「覚醒」とも、「脱洗脳」とも呼びうるものである。しかし、その語があまりにも政治的、あるいは扇情的に消費されてきたがゆえに、私たちはしばしば「洗脳」という言葉を避けて語ってしまう。しかし、現代の人間は、過去の宗教国家に生きていた民衆よりも、はるかに巧妙に「信じさせられて」いるかもしれないのだ。


「洗脳」という語を問い直す

そもそも「洗脳」という語が初めて用いられたのは、冷戦下の1950年代、エドワード・ハンター(Edward Hunter)が中国共産党のプロパガンダ手法に対して用いた造語 “brainwashing” に端を発する(Hunter, Brain-Washing in Red China, 1951)。その後、この言葉はアメリカ社会の不安を反映してメディアに氾濫し、カルト宗教や戦時捕虜への拷問、マインドコントロールなどをめぐる言説に拡張された。

しかし現代では、洗脳はカルトや陰謀論に限らず、「家庭」「学校」「企業文化」「SNS」「愛情」など、きわめて日常的な文脈に潜みうるものである。ここで問題なのは、単に「偽の信念を植え付けられること」ではない。むしろ、それを「自分の意思だと信じこまされること」である。


人間学的精神療法の視点──「存在の回復」としての脱洗脳

人間学的精神療法(anthropological psychotherapy)においては、洗脳とは「自己が他者の投影や制度的構造に回収され、自分自身の本来的在り方を見失っている状態」と捉える。E. Minkowski や M. Binswanger、また日本の精神療法家・宮本忠雄らが繰り返し論じたように、人間とは「人とともにあること(Mitsein)」を本質的に必要としながらも、それが「他人の視線」によって「人間らしさ」を損なうこともある。

洗脳状態の患者は、しばしば自分の言葉で語っているようでいて、その言葉は「親の期待」「集団の価値観」「恋人の欲望」の再生産である場合が多い。そして彼らは、その言葉の源泉に無自覚なまま、「これが私」と思い込んでしまう。

この「自明性の魔術」から目覚めさせること、それが人間学的精神療法の課題であり、いわば「存在の回復」という作業なのである。


「語りなおし」としての治療──カルト脱会者の臨床から

たとえば、カルト宗教から脱会した青年の事例がある。彼は、教祖に「生きる意味」を与えられたと信じていたが、儀式と奉仕の生活のなかで、「誰かの物語」のなかに閉じ込められていった。脱会後の彼は、空虚と混乱のなかで「では、ぼくは何を信じればいいんですか」と問うた。

この問いに即答することは危険である。なぜなら「新たな真理の提示」は、新たな洗脳になりかねないからだ。ここで必要なのは、青年自身が自分の人生を語りなおし、自ら問い、自ら意味を生成していくプロセスである。

ポール・リクール(Paul Ricœur)は、自伝的記憶を「再構成可能な物語」とみなし、これを通じて自己同一性が保たれると述べた(Ricœur, Temps et récit, 1983)。洗脳からの脱出もまた、この「語りなおしの物語」によってなされる。そこでは「過去の自分」を一度見つめ直し、その意味を再編成することが求められる。


洗脳解除における「まなざし」の倫理

ユダヤ系哲学者エマニュエル・レヴィナス(E. Lévinas)は、「顔」を見ることの倫理を語った。彼によれば、他者の顔には「殺すなかれ」という沈黙の命令が刻まれている(Lévinas, Totalité et Infini, 1961)。この他者のまなざしにさらされるとき、人間ははじめて「自由な存在」として目覚めうる。

このような倫理的まなざしは、洗脳された者にとっては危機であり、同時に救いでもある。なぜなら洗脳とは、常に「問いを封じること」によって成立しているからだ。洗脳者は「信じる者を孤独にしない」代わりに、「考える自由」を奪う。沈黙するセラピストのまなざしが、クライエントにとって「自分自身の問いに戻る場」となることが、脱洗脳の萌芽となる。


神経科学の視点──「扁桃体の掌握」から「前頭葉の再接続」へ

神経科学の視点からも、洗脳のメカニズムは研究されている。トラウマや恐怖、帰属欲求を刺激することで扁桃体が活性化し、理性的判断をつかさどる前頭前皮質との接続が遮断される(LeDoux, The Emotional Brain, 1996)。そのため、洗脳の解除にはまず安全感と信頼の回復が不可欠となる。

マインドフルネスやコンパッション瞑想は、この回復のための神経的枠組みとしても活用されている。特に「慈悲の瞑想(Metta meditation)」は、脳内のオキシトシン分泌や島皮質の活性化を通じて、共感と自己受容の回路を再接続する(Singer & Klimecki, Social Neuroscience, 2014)。


結語──「もう一つの自由」をめざして

人間学的精神療法は、単なる「心理的技法」ではない。それは「存在の在り方」に問いを向け、「誰の声で私は語っているのか」を明らかにし、「自分自身の問いに立ち返る」営みである。

洗脳とは、外部の力によって人間が「他者の物語の中に閉じ込められてしまうこと」であり、脱洗脳とは「自らの物語にふたたび立ち戻ること」である。

だからこそ、精神療法とは、洗脳を解く技術である以前に、「人が再び世界を信じ、自分を信じ、他者のまなざしにさらされながら生きていける」ように支える、深い倫理と信頼の営みなのだ。


参考文献

  • Hunter, E. (1951). Brain-Washing in Red China: The Calculated Destruction of Men’s Minds. Vanguard Press.
  • Minkowski, E. (1933). Le Temps vécu. D’Artre.
  • Ricœur, P. (1983). Temps et récit I. Seuil. pp. 50–112.
  • Lévinas, E. (1961). Totalité et Infini. La Haye: Nijhoff. pp. 168–190.
  • LeDoux, J. (1996). The Emotional Brain: The Mysterious Underpinnings of Emotional Life. Simon & Schuster.
  • Singer, T. & Klimecki, O. (2014). “Empathy and Compassion”, in Current Biology, 24(18), R875–R878.

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