共感という謎に寄せて──臨床と沈黙のあわいから

共感という謎に寄せて──臨床と沈黙のあわいから

或る日の診療室の風景を、私はふと思い出す。晩春の陽ざしが、レースのカーテン越しにぼんやりと差し込んでいた。椅子に深く腰かけた青年が、視線を落としたまま、低い声で言った。

「先生は、もう僕にうんざりしてるんじゃないですか……?」

言葉の背後には、沈黙のような感情の澱があった。たしかに、彼は誰にも好かれないという確信を、すでに身に纏っているかのようであった。その「確信」は、冷たい鎧のように彼を守りながら、同時に彼を孤立させていた。

私はそこで、芥川の『河童』を連想した。狂人病院の患者が語る、「人間たちは、みんな自分だけが苦しいと思っている」。──共感なき世界において、自己の苦悩は永遠に独白にとどまり、応答の可能性を欠く。しかし、われわれ精神療法家が臨床の現場で為すべきことは、まさにその応答の可能性を回復させることである。

共感(empathy)という言葉は、しばしば誤解される。思いやり、優しさ、情緒的な同一化……そうした概念と混同されがちである。しかし、共感とは、より精緻な技術であり、また態度である。それは、「他者の内的世界に、判断を保留したまま一時的に住まう」ことだ。ロジャーズが「正確な共感(accurate empathy)」と呼んだものは、まさにこの、一種の精神的移動である。

とはいえ、この共感能力は、セラピストだけに必要な資質ではない。むしろ、来談者──われわれのもとを訪れる苦悩する者たちにこそ、その発達が求められている。なぜなら彼らは、多くの場合、満たされた人間関係を築くことに失敗し、それゆえにわれわれの前に姿を現すのだから。

では、共感はどのようにして教えることができるのか。それは、技巧的な説明や理論の伝達によってではなく、いわば「体験的に教える」ことによって可能となる。つまり、セラピスト自身が患者に対して共感をもって接し、その共感が実際にどのように感じられるかを、彼自身の身体と感情の中に覚えこませるのである。

たとえば、患者が「僕は先生にとって最も嫌な一時間でしょう」と言ったとき、セラピストがその仮定の背後にある問いを明確にし、「それは私に向けられた質問ですか?」と応答する。この一見単純なやりとりの中に、精神療法の核心的な技法がある。なぜならそれは、患者に「他者がどう感じるか」を想像し、それを確認し、そして訂正するという一連の行為──すなわち共感のスキルを、自然な会話の中で体験させるからである。

この技法の根幹には、Martin Buberのいう「我と汝」の関係がある。すなわち、相手を手段でも道具でもなく、一つの人格として出会うという倫理的態度である。そして、それはまた、Eugene Gendlinの体験過程理論(Experiential Process Theory)とも呼応する。感情の微細な変化を丁寧に感じ取り、言葉を与え、それによって新たな理解を獲得していくプロセスは、共感を媒介とした変容のドラマでもある。

さらに脳科学の知見を加えるならば、ミラーニューロン系の活動や、前帯状皮質と島皮質の協働によって、他者の情動を「模倣」し、「内在化」するプロセスが、共感の神経基盤として知られている(Decety & Jackson, 2004)。これらの脳部位が損傷された患者では、他者の痛みへの感受性が顕著に低下することが報告されている。つまり、共感とは生得的な機能であると同時に、環境によって訓練されうるスキルでもある。

こうした神経科学的理解は、人間学的精神療法の営みを否定するものではなく、むしろそれを下支えする基盤となる。われわれは、脳の反応を測定するために臨床をしているのではない。むしろ、ある沈黙のなかで、一つの言葉がゆっくりと生まれる瞬間に立ち会い、その言葉が新しい関係性を可能にする、その劇的な瞬間の証人たらんとしているのである。

──共感を教えること。それは単に技法を伝えることではない。むしろ、「共感される体験」を通して、他者の心に住むという技法以前の態度を育む営みである。そしてその営みは、理屈を超えて、まるで音楽のように、あるいは宗教儀式のように、身体と魂にしみ入るものである。

患者の言葉がふと途切れたとき、部屋にはまた沈黙が戻る。その沈黙の中で、共感が芽吹く。声なきところに、声を聴く。──それが、われわれの仕事なのかもしれない。


必要であれば、以下の文献を参考にされたい。

  • Carl Rogers (1957). “The Necessary and Sufficient Conditions of Therapeutic Personality Change.”
  • Jean Decety & Philip L. Jackson (2004). “The functional architecture of human empathy.” Behavioral and Cognitive Neuroscience Reviews.
  • Martin Buber (1923). Ich und Du(『我と汝』)
  • Eugene Gendlin (1996). Focusing-Oriented Psychotherapy

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