「退屈」と名指す代わりに——人間学的治療関係の深みへ

「退屈」と名指す代わりに——人間学的治療関係の深みへ

「退屈さ」に関するフィードバックを、私たちはいかにして治療の場で活かすことができるだろうか。

ユロン・ヤーロムが指摘するように、セラピストが感じる「退屈」や「煩わしさ」、あるいは「疎外感」は、単なる主観的気分ではない。それは、セラピストとクライエントのあいだに浮かび上がる、関係の〈場〉における大切な「現象学的データ」である。だが、こうした感覚をどう言語化し、いかに差し出すかによって、それは癒しにも破壊にもつながりうる両義的な剣となる。

たとえば、「退屈だ」という言葉はどうだろう。これは表現としては端的かもしれないが、同時に冷ややかで、どこか断罪的である。人は誰しも、自分が誰かを退屈させていると思いたくはないし、そのように名指されることに激しい羞恥や怒りを覚えるものだ。まるで、自分の存在の根本が無価値であるかのように感じられてしまう。そうなれば、治療関係に必要な信頼はたちまち瓦解する危険がある。

ここで人間学的精神療法の視座が重要になってくる。現象学者ヤスパースは、精神病理を「意味のある全体性としての人間存在の変容」と捉えた。つまり、クライエントがどのような語りや態度を見せるにしても、それは必ず「意味を持った存在の表現」であり、そこには私たちの関係性そのものが投影されているということだ。であれば、私たちが「退屈」と名づけたくなるような体験もまた、関係の中で生成されたものとして、注意深く扱う必要がある。

むしろ、こうした場面では、「私は少し距離を感じています」「どこか、つながっていない感覚があります」といった、より触覚的で柔らかな言葉の方がふさわしい。これらの語りは、相手を非難するものではなく、自分の感覚を開示しつつ、関係の回復や深化を願う意図を含んでいる。それは、クライエントの「行動」を診断するのではなく、自分自身の「存在の変容」を語ることであり、まさに人間学的なアプローチと響き合うものである。

哲学者メルロ=ポンティが言うように、私たちは「世界の中に投げ出されながらも、他者との関係の中で意味を紡ぐ存在」である。クライエントの無表情、繰り返しの語り、無感動な声調——それらは単なる「退屈な内容」ではない。そうした現象の中に、彼/彼女が生きてきた時間の重み、関係への恐れ、語られなかった苦悩が沈殿している。そしてセラピストは、その「沈黙の語り」に耳を傾ける存在なのだ。

精神分析的な用語で言えば、ここには「逆転移」の感情が絡んでくる。セラピストが感じる退屈さや無力感、それ自体が、クライエントの内的世界の写し絵であることも少なくない。だからこそ、こうした感情を自覚し、それを丁寧に「今・ここ」で照らし出すことには大きな意義がある。

たとえばこんなふうに語ることができるかもしれない。

「今、あなたのお話を聞きながら、私はどこか少し遠くにいるような感覚があります。もしかしたら、あなたも似たような感覚を抱えているのではないかと感じました。この“距離”は、どこから来たのでしょうか?」

このように、言葉を通じて「関係の傷つき」そのものを共有することができたとき、治療は単なる問題解決の場ではなく、「関係そのものを癒す場」へと変貌する。

ここで思い出されるのが、ロジャーズの「受容」「共感」「一致性」という三原則である。退屈の感情さえも、私たちがそれを批判ではなく共感と誠実さをもって表現するならば、関係の深まりを導く触媒となりうる。

そして最後に、ニーチェの言葉を添えておきたい。

「深淵を覗くとき、深淵もまたこちらを覗いている」

セラピストが自らの感情を見つめ、それを言葉にするという行為は、深淵を覗くような怖さを伴う。だが、その視線を通じて、関係の奥底に眠る「存在の真実」が、そっと姿を現すこともある。

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