セラピーの仕組みを開示すること――神秘のヴェールを脱ぎ、人間として出会うために
ドストエフスキーが『カラマーゾフの兄弟』で描いた大審問官の言葉は、人間存在の深淵に横たわるある種の真理を突いています。「人間は常に“奇跡、神秘、そして権威”を求めてきた」と。古来、癒し手たちは、この根源的な欲求を知悉していました。シャーマンが纏う秘密のヴェール、呪術師が囁く難解な呪文、あるいはより近代的な装いであっても、白衣という記号、壁を飾る権威の象徴たる学位記、ラテン語で書かれた処方箋の謎めいた響き――これらは皆、畏敬の念を呼び起こし、プラセボという名の、しかし決して侮れない「意味による治癒力」[1]を最大化しようとする、ある種の演出装置でした。癒しは、しばしば不可視の力、常人には計り知れない知恵、そして絶対的な権威のオーラによって包まれてきたのです。
しかし、私たちがここで探求する心理療法、特に人間学的(ヒューマニスティック/実存的)な地平に立つセラピーは、この古くからの誘惑に対し、敢然と「否」を突きつけます。私たちが目指すのは、奇跡や神秘、権威といった、いわば「人間を超えたもの」に依存する関係性ではありません。むしろ、それら三位一体の力を手放すこと、その放棄そのものが、患者との真の「出会い」――マルティン・ブーバーが言うところの「われ-なんじ」の関係[2]――を可能にするための、いわば前提条件なのです。
なぜなら、心理療法という営みは、本質的に脆弱なものではなく、むしろ驚くほど強靭な可能性を秘めているからです。その強靭さは、権威による支配や神秘による操作によってではなく、治療のプロセスとその論理的根拠(ラショナル)を、ガラスのように透明に開示することによって、さらに豊かに花開くのです。数多くの心理療法研究が、この見解を力強く裏付けています[3]。セラピーを始めるにあたり、セラピストは、心理療法とは何か、その基本的な考え方、治療の根拠、そして何より、患者自身が自らの回復と成長のプロセスに主体的に関わるために何ができるのかを、丁寧に、誠実に伝えるべきなのです。それは、治療という未知の航海に出るにあたっての、海図を手渡す行為に似ています。
考えてみてください。患者はすでに、人生の困難や苦悩という「一次的な不安」を抱え、藁にもすがる思いでセラピーの扉を叩いています。その彼らを、さらに「二次的な不安」――すなわち、何をどう振る舞えばよいのか、どう参加すればよいのかという指針も示されないまま、曖昧で、どこか一方的な力関係の漂う社会的状況に放り込むことが、果たして賢明と言えるでしょうか? それは、ただでさえ心細い旅人に、濃霧の中へと羅針盤も持たせずに送り出すようなものです。否、むしろ、私たちは患者を、心理療法という、時に深く、時に困難も伴うであろうプロセスに向けて、体系的に、そして何よりも人間的な配慮をもって準備させるべきなのです。それは、これから始まる共同作業への、対等なパートナーとしての招待状に他なりません。
この「準備」という配慮は、特に集団療法という場において、決定的な重要性を持ちます。なぜなら、見知らぬ他者たちとの濃密な相互作用、グループという小さな社会が持つ独特の力学(グループ・プレッシャー)、時に圧倒的とも感じられる親密さや感情の強度――これらは、特にグループ経験のない人にとっては、本質的に異質であり、少なからぬ恐れを伴うものだからです。だからこそ、集団療法においては、不安を和らげるための明確な構造(例えば、ルールの説明や目標の共有)を提供し、セッションの進め方に関するガイドラインを丁寧に明確化することが、絶対に不可欠なのです。それは、嵐の海に漕ぎ出す船に、安全な港の存在と航海のルールを知らせる灯台の光のようなものです。
もちろん、個人療法においても、この準備というプロセスは同様に、いや、ある意味ではより深く重要です。私たちは皆、人生において様々な「強烈な関係」を経験してきたかもしれません。しかし、心理療法で求められるような関係性――すなわち、相手を完全に信頼し、心の奥底にあるものも含めて全てを(あるいは、そう努めることを)開示し、何も隠し立てせず、自らの感情のあらゆるニュアンスを吟味し、それを他者に伝え、そして、評価や批判を(少なくとも一旦は)脇に置いた「無条件の受容」に近いものを受け取る――そのような関係性を経験したことのある人は、極めて稀でしょう。それは、日常の人間関係とは質的に異なる、ある種の「実験室」であり、「聖域」でもあるのです。
ですから、私は初回の面接において、守秘義務という約束事、ありのままを語ることの必要性(もちろん、それは強制ではなく、治療を実りあるものにするための協力のお願いです)、夢が時に語りかける無意識からのメッセージの重要性、そして、変化には時間がかかるという「待つこと」の大切さなど、基本的なルール(グランドルール)について、時間をかけて話し合います。
そして特に、「いま、ここ(here and now)」――つまり、過去の出来事や未来への不安だけでなく、このセラピールームという場で、この瞬間、あなたと私の間で、現に生じている感情や思考、関係性のあり方に焦点を当てること――の重要性とその理由(ラショナル)を説明することは、極めて大切だと考えています。なぜなら、これは多くの患者にとって、最初は奇妙で、少し居心地の悪いものに感じられるかもしれないからです。もし患者が人間関係の困難について語っている場合(そして、実のところ、ほとんど全ての患者が何らかの形で関係性の問題を抱えています)、私は例えばこのように伝えるかもしれません。
「あなたが他者との関係で苦労されていることは、よく分かりました。それは私たちが一緒に取り組むべき大切なテーマの一つですね。ただ、あなたの人生に関わる他の人々のことを、私が直接知ることはできません。私に分かるのは、あなたの目を通して語られるその方々の姿だけです。そして、私たちは誰しも、意図せずとも自分の視点から物事を見てしまうことがあります。ですから、私があなたをより深く理解し、より的確にお手伝いするために、最も確かな情報を持っている関係性に注目することが、非常に役に立つと私は考えています。それは、他の誰でもない、『あなたと私』、この二人の間で、いま、ここで、何が起こっているのか、という関係性です。だからこそ、私はしばしば、この部屋の中で、私たちの間で何が感じられ、考えられ、起こっているのかを、一緒に見つめてみませんかと提案することがあるでしょう。それは、あなたの現実の人間関係を映し出す鏡のようなものになるかもしれません。」
この説明は、単なる技法の解説ではありません。それは、セラピーという営みが、過去の遺跡を発掘する考古学(フロイトが初期に描いたイメージ)[4] である以上に、現在進行形の、生きた人間関係を探求する冒険であり、その関係性そのものが治癒的な力を持ちうるのだという、人間学的な世界観の表明でもあるのです。過去は重要でないのではありません。むしろ、過去が「いま、ここ」の関係性の中で、どのように「生きられ」、反復され、そして、新たな意味を与えられていくのか、そのプロセスそのものに光を当てるのです。現象学が言うように、私たちは世界を「生きられた経験(le vécu)」[5]として捉えるのです。
要するに、私は、セラピーの「仕組み」そのものについて、可能な限り完全に開示することを提案します。それは、専門家が持つ知識という「権威」をひけらかすためではありません。むしろ逆です。それは、患者を無力な受け手としてではなく、自らの癒しのプロセスにおける主体的な共同探求者として尊重し、招待するためなのです。秘密主義や神秘性は、一時的な安心感や依存を生むかもしれませんが、真の自律性や主体的な自己発見を育むことはありません。ハイデガーが言うところの、世間の常識や期待に埋没する「ひと(das Man)」[6] のあり方から抜け出し、自らの存在の可能性と責任を引き受ける「本来的な自己」へと向かう旅路において、透明性は不可欠な道標となるのです。
この透明性は、単なる情報提供を超えて、セラピスト自身の「あり方(being)」をも問うものです。それは、私たちセラピストもまた、完全無欠な賢者ではなく、共に悩み、探求し、時に迷いながらも、誠実に患者の前に「現存在(Dasein)」として立ち現れようとする姿勢そのものなのです。カール・ロジャーズが晩年に強調した「自己一致(congruence)」[7] とも響き合います。治療のメカニズムをオープンにすることは、この誠実さへの第一歩であり、神秘のヴェールを脱ぎ捨て、二人の人間が、ただ人間として出会うための、聖なる空間を準備することなのです。それは、効率やテクニックの問題以上に、セラピーという営みの倫理的な核心に関わる問題と言えるでしょう。
参考文献(例示)
[1] プラセボ効果に関する議論は多岐にわたるが、意味論的側面からの考察として、例えばアン・ハリントン『心の治癒力』(The Cure Within)などが参考になる。
[2] マルティン・ブーバー『我と汝・対話』(Ich und Du / Dialog) 岩波文庫など。
[3] ヤロム自身も多くの研究に言及しているが、準備(Preparation)の効果については、例えば Orlinsky, D. E., Grawe, K., & Parks, B. K. (1994). Process and outcome in psychotherapy: Noch einmal. In A. E. Bergin & S. L. Garfield (Eds.), Handbook of psychotherapy and behavior change (4th ed., pp. 270–376). Wiley. など、数多くのメタ分析が存在する。
[4] フロイトは初期には精神分析を考古学に喩えたが、後年にはその比喩の限界も認識していた。
[5] モーリス・メルロ=ポンティ『知覚の現象学』(Phénoménologie de la perception) みすず書房など。生きられた身体と経験の関係を探求。
[6] マルティン・ハイデガー『存在と時間』(Sein und Zeit) 岩波文庫、中央公論新社など。
[7] カール・ロジャーズ『人間中心のセラピー』(Client-Centered Therapy) 、『人間になるということ』(On Becoming a Person) 岩波書店など。