セラピストの「私」を明かすとき――聖域の扉を、そっと開ける勇気と叡智
さて、私たちは心理療法における自己開示という、複雑で魅力的な、そして時に危険も伴う領域の、さらに奥深くへと足を踏み入れます。第一の領域、すなわち「セラピーの仕組み」の透明性。第二の領域、「いま、ここ」で生起する感情の(適切に吟味された上での)開示。これらは、いわばセラピーという共同作業の「地図」と「羅針盤」であり、その重要性については比較的異論の少ないところでしょう。しかし、第三の領域――セラピスト自身の「個人的な生(パーソナル・ライフ)」の開示――この領域を巡っては、今なお熱い議論の渦が巻いています。そこは、セラピストが守るべき専門性の「聖域」なのか、それとも人間的触れ合いのための「開かれた庭」なのか。境界線はどこにあるのか。
自分自身のある側面を分かち合ったとき、それは常に、澱んでいたセラピーの流れを再び動かす触媒となってきたと感じます。
日常的な問いへの応答:なぜ、隠す必要があるのか?
不透明なままでいて、どうして他者と本物の出会い(genuine encounter)を持つことができるというのでしょうか?
私たちは、社会的な役割(ロール)――「セラピスト」と「患者」――の鎧を纏っていますが、その鎧の下には、等しく傷つきやすく、喜びや悲しみを感じ、迷い、そして他者との繋がりを求める「人間」が存在しています。カール・ロジャーズが強調した「自己一致(congruence)」――セラピストが自身の内的な経験と外的な表現を一致させること――は、このような場面での率直さによってこそ、体現されるのではないでしょうか。
結び:注意深く、しかし大胆に
セラピストの個人的な生の開示は、確かに「注意(Caution)」を要する繊細な領域です。それは、セラピスト自身のナルシシズムを満たすためであってはならず、患者を不必要に混乱させたり、負担をかけたり、あるいはセラピーの焦点を脱線させたりするものであってもなりません。常に、「それは患者の最善の利益にかなうか?」という問いが、私たちの倫理的な羅針盤でなければなりません。そして、その判断には、セラピスト自身の自己覚知(セルフアウェアネス)と、十分な訓練、そしておそらくはスーパービジョンが不可欠です。
しかし、過度の警戒心や、理論的な純粋さへの固執から、自己を完全に隠蔽することもまた、治療的な可能性を狭めることになりかねません。人間は、抽象的な理論や完璧な役割演技によってではなく、生身の人間の、時に不完全で、しかし誠実な「現存在(Dasein)」との出会いを通して、最も深く癒され、変容していくのではないでしょうか。
セラピストの個人的な生の、思慮深く、タイミング良く、そして誠実に行われる開示は、治療関係という、時に隔絶されがちな空間に、現実世界の温かみと、共有された人間性(shared humanity)の感覚をもたらすことができます。それは、患者が抱えるかもしれない理想化された転移(「先生は完璧なはずだ」)に挑戦し、より現実的で、対等な関係性を築くための触媒となりえます。そして何よりも、それはセラピスト自身が、自らの仕事において、より「本物(オーセンティック)」であり続けるための、勇気ある選択でもあるのです。聖域の扉をそっと開けるとき、そこにはリスクと共に、予期せぬ豊穣な出会いが待っているかもしれません。