虚無感

生きているということは、日向を歩くことに似ている。
けれど、どれほど陽が差していても、足もとには影ができる。
その影が、「死」というものなのだと、私は思っている。

死のことを、あまり語る人はいない。
それは遠くの出来事であり、今の自分とは関係がないと、どこかで思っているからかもしれない。
あるいは、それを語ることが、どこか不吉で、身の毛のよだつことのように感じられるのかもしれない。
けれど、私たちの生のすぐ隣に、それはずっと佇んでいる。
人が生きるということは、静かに、それと向き合うことでもあるのだろう。

子どもの頃、小鳥が死んだときのことを思い出す。
掌にのせたその温もりが、少しずつ冷たくなっていく時間。
祖父母の不在や、物語のなかの別れ。
あれは、人生で最初に触れた「消えてしまう」ということだった。
誰もが、少しずつ、そういうことに慣れていく。
けれど、本当に慣れることなんて、あるのだろうか。

心理療法のなかでも、「死」は静かに顔を出す。
失ったものの話、将来の不安、生きる意味への問い。
そういった言葉の奥に、それはいつも息をひそめている。
それでも、多くのセラピストは、それを話題にしない。
どう語ってよいか分からないのだ。
その沈黙の中に、ある種の無力感が潜んでいる。

「私に何ができるというのか」
「かえって不安を煽るだけではないか」
「今の悩みとは関係ないのではないか」

そんなふうに思って、言葉を飲み込むこともある。
だが、それでも私は思うのだ。
たとえ触れるのが怖くても、「死」という影の存在を共に見つめることができるならば、それは何よりも深く、やさしい灯火となるのではないかと。

人生を語るということは、死を語ることでもある。
死があるからこそ、今の一日が、こんなにも大切に思える。
あと何度、夕焼けを見ることができるだろう。
あと何度、大切な人と話を交わせるだろう。
そう考えるとき、私たちは、ほんとうに「生きる」ということの意味に触れるのかもしれない。

かつての哲学者たち――プラトンも、仏陀も、パスカルも――その問いを問い続けてきた。
「死ぬことを学ぶことが、生きることを学ぶことなのだ」と。
私たちは、やがて終わるものとして、いまを受け取っている。
そのことが、人生を豊かにする。
死から目を逸らすことなく、真正面から受けとめるとき、そこには不思議と、静かな明るさがある。

ハイデガーは「人は死に向かう存在である」と言った。
それは、恐ろしい定めではなく、むしろ、自分の生き方を選びなおすチャンスなのだろう。
この世の価値観に流されず、自分の足で、自分の道を歩くということ。
それが「本来の生き方」なのだとすれば、
そのはじまりには、やはり「死」を見つめる静かなまなざしがあるのではないかと思う。

私たちセラピストは、恐れてはいけない。
ただ静かに、耳を澄ませばよい。
クライエントが語らぬことのなかに、そっと潜んでいる言葉を聴きとるために。
そして、共に歩むこと。
それが、人生の影を見つめる旅の、確かな灯となるように。


死が不可避の現実であると受容して、そこから、人生を逆算する。
すべてはむなしい、そのことが基底に据えられる。
なるべく忘れようとする。
死すべき運命(mortality)から目をそらすため、心理的防衛路メカニズムを作り上げる。
「死はまだ遠い先のことだ」「自分だけは大丈夫だ」と忘れようとする。
仕事や創造活動に没頭したり、子供や思想を通して自らを「永続化」させようとしたり、あるいは宗教的な信念に救いを求めたりもする。
そのようにして死の不安と折り合いをつけようとする。

現代物理学が教える世界観は、われわれの日常意識よりも、死の虚無感に近い。
宇宙のことを考えたり、素粒子のことを考えたり、遺伝子のことを考えたり、
いずれも、虚無感の裏付けになる。

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