決めない勇気――伴奏者

決めない勇気――伴奏者 

 人には誰しも、「わかってあげたい」という欲求がある。そして、さらにその先には「助けてあげたい」、ひいては「代わりに決めてやりたい」という衝動がひそんでいる。セラピストとして、あるいは友として、あるいはもっと身近な存在として、私たちはしばしばこの誘惑と向き合う。 

 ある冬の日の午後、私は静かな診察室で、一人の青年と向かい合っていた。彼の語る言葉は少なく、しかしそのまなざしには、深い迷いと、どうしようもない孤独がにじんでいた。私は何度も、「こうしたらどうか」と言いたくなった。だが、そのたびに、心のどこかで、そっと自分の中の「答えを出してやりたい」という欲求の芽を摘み取っていった。それは私の中に生まれかけた「介入」であり、彼の人生に対する「責任の奪取」であることを、知っていたからだ。 

 人間は、過ちからしか学ばぬことがある。いや、むしろ「過ちを通じてしか」学べぬと言った方が、より真実に近いように思う。これは、古くはギリシア悲劇の構造にも通じる話である。オイディプスが自らの宿命を知る過程、あるいはプロメテウスが人間に火を与えたことで背負う罰。そこには、明確な「過ち」と、その後に訪れる「目覚め」がある。教育とは「正しさ」へと導く行為かもしれぬが、治療はそのような一直線の道ではない。人間の回復のためには、「誤る自由」を奪ってはいけない。 

 治療とは、相手の人生の「伴奏者」となることだ。指揮者ではない。旋律の流れを先回りして導いてはならない。音が乱れ、リズムがずれても、そっと隣で拍をとる。そうして、相手がふたたび自らのテンポを取り戻すのを待つのである。 

 ニーチェは『ツァラトゥストラ』でこう語った。「君の道を行け。他人には彼の道がある」と。セラピストができることは、せいぜいその「道」の脇を共に歩くこと、そして、時には立ち止まり、迷い、共に空を仰ぐことだけだ。だからこそ、治療者は「証人」にとどまる。人が決断し、迷い、傷つき、やがて立ち上がる――その歩みを、静かに見つめる証人である。 

 ある患者が、自らの過去を語った。父親との関係、母への葛藤、そして、いつしか自分自身を見失っていたこと。私は、その「物語」に耳を傾ける。そこに真偽を問う必要はない。なぜなら、それは彼にとっての「真実」だからだ。ハンナ・アーレントが「真実は事実よりも深い」と語ったように、人の語る物語には、その人なりの「意味の宇宙」が広がっている。 

 セラピストは決めてはならない。だが、共に考え、共に悩むことはできる。まるで、良き友のように。哲学者ガブリエル・マルセルは、「人間的関係とは、互いに『私がここにいる』と保証し合うことにある」と記した。カウンセリングもまた、この保証の連続なのだろう。「私はここにいる」「あなたも、ここにいる」。そのささやかな確認こそが、時に人を救う。 

 そしてまた、時折私は、治療の場が「人間回復の劇場」であることを思う。患者は舞台の上に立ち、時に滑稽で、時に悲劇的な台詞を口にする。私は観客席にいて、同時に伴奏者でもある。ただし、決して舞台に上がってはならぬ。そこに立つのは、彼ら自身だからだ。 

 このようにして、人間学的精神療法とは、「関係の倫理」を問い続ける営みである。相手を尊重し、その決断を待ち、介入を控え、「ともにある」ことに責任を持つ。この態度は、どんな場面にも応用可能だ。家庭においても、教育現場でも、あるいは日常の些細な会話においても。 

 決めないこと。それは、冷たさでも放任でもない。それは、相手に自らの人生を生きる勇気を返すことなのだ。 

参考文献: 

  • ハンナ・アーレント『人間の条件』 
  • ガブリエル・マルセル『存在と所有』 
  • フリードリヒ・ニーチェ『ツァラトゥストラかく語りき』 

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