より良い過去を求める人へ——停滞を打破する
セラピーの場というのは、まるで古びた旅館のようである。畳の匂いがするような静けさのなかで、人はふとした拍子に、長らく封じ込めていた記憶の箪笥を開けてしまう。そして「どうして、あのとき、ああできなかったのか」と繰り返す。けれど、セラピストがすべきことは、その迷路の中でクライエントに代わって道を選ぶことではない。彼らが自らの力で、曲がり角を見つけ、一歩を踏み出すのを、黙って支えることだ。沈黙の中で。
人間の悩みの多くは、「決定すること」から逃れようとする試みの失敗として現れる。選択の重み、責任の恐怖、そして選ばなかった人生への哀惜。とりわけ、「より良い過去を持ちたい」という訴えは、私たちがどれほど後戻りできない時間に取り憑かれているかを物語っている。だが、それは夢想でしかない。どれほど悔やんでも、あのときの言葉も、沈黙も、笑顔も、もう変えられないのだ。
「遅かれ早かれ、私たちは皆、『より良い過去』を持つという目標を諦めなければならないのかもしれませんね」と私は、あるクライエントに静かに告げたことがある。それは、過去の不可逆性の苦さをなめるための処方箋だった。カール・ロジャーズが語ったように、「変化は、自己をありのままに受け入れることから始まる」のである。 そのようにして停滞を打破することができることもある。
けれど、変化はいつも、願望の自覚から始まるとは限らない。「私は、自分が何をしたいのか、分からないんです」と呟く声は、セラピーの場にあふれている。願望を問うこと、それは時として苦行である。カレン・ホーナイの言葉が頭をよぎる。「あなたは、自分が何を望んでいるのか、自問したことがありますか?」彼女は、理論家である前に、人間の混乱と向き合い続けた臨床家であった。
多くの場合、クライエントたちは「願望」を口にすることすら避ける。なぜか? 願望を明確にすることは、それを得られない可能性と向き合うことだからだ。そう、個人は、それが自分から奪われたときにのみ、何を望んでいたのかを痛感する。まるで、空っぽになった器を前にして、初めて渇きに気づくかのように。
私は時折、こんな提案をする。「想像してみてください。相手が関係を断ち切る電話をかけてきたとしたら、あなたは何を感じますか?」悲しみか、怒りか、安堵か、高揚か。その感情は、実は選択肢の地図を描く手がかりとなる。そこにこそ、クライエントの本心が、しばしばぼんやりと浮かび上がってくる。
あるとき、私はカミュの『転落』の一節をクライエントに読んで聞かせた。「信じてください、人間が放棄するのが最も難しいのは、結局のところ、自分が本当に望んでいないものなのです」この言葉が、彼の目に一瞬、痛みとともに光を宿らせたのを私は見逃さなかった。
決断とは、しばしば「望んでいないものを諦める」ことでもあるのだ。
セラピストができるのは、決して答えを与えることではない。だが、思考の水面に小石を投げ込むことはできる。その波紋が、澱んだ池にゆっくりと動きを与えるのを、待つことができる。
ある老年期のクライエントは、「私は娘に嫌われたくないから何も言えないのです」と言った。そのとき、私は問いを投げかけた。「もし、あなたが一度だけ正直に本音を伝えたとして、娘が関係を絶ったとしたら——その時、あなたは何を感じるでしょう?」彼女は長い沈黙の後で、「多分、少しほっとするかもしれない」と呟いた。その「ほっとする」という感情は、長年の忍従のなかに埋もれていた、彼女自身の願望の名残だったのだ。
人間学的精神療法は、こうした感情の機微、時間の不可逆性、選択の重みを一つひとつ手に取って眺め直す作業だ。それは、セラピーを単なる「対症療法」ではなく、「意味への旅路」として捉える営みである。
時には、ロールプレイ、視点の転換、あるいは自己コンサルタントの手法を用いて、自らの選択肢を客観視することが有効だ。変化が起きないと感じられるとき、そこに遊び心と創造性を持ち込むこと——これがセラピストに求められる勇気である。
そして、決して忘れてはならないのは、こうした工夫のすべてが、クライエントの内なる力と責任感を呼び覚まし、彼ら自身が自らの人生に立ち戻るための「触媒」でしかない、ということだ。
誰の人生にも、決断を先延ばしにしつづけたまま、通り過ぎていく日々がある。けれど、ふとした瞬間、その沈黙のなかから、ひとすじの願望の声が聞こえるときがある。その声は、おそらく、どこかでずっと、出番を待っていたのだ。
参考文献:
- カミュ『転落』新潮文庫、1992年。
- カレン・ホーナイ『われわれは何を恐れているのか』誠信書房、1971年。
- カール・ロジャーズ『カウンセリングと心理療法』岩崎学術出版社、1961年。