かつて、私の郷里に小さな駄菓子屋があった。風の強い日には、軒先に吊るされた短冊がしきりに鳴り、ガラス瓶に詰められた色とりどりの飴玉が、春の日差しを受けて微かに光った。その店先に立って、私は幼いながらに、何かを「見る」ことの面白さと難しさを学んでいた気がする。自分の欲望と、手の届く限界。そのあわいに生まれる感覚のざわめき――それは今になって思えば、初めての「自己モニタリング」だったのかもしれない。
精神療法における「自己モニタリング」という営みは、単なる自己観察や記録の技法にとどまらない。それはむしろ、自らの存在を一歩引いた位置から眺めること――ヤスパースが言うところの「包括者としての自己」へと開かれていく契機である。自己というのは、固定された一点ではなく、他者や世界との関係のなかで絶えず揺れ動く動的な総体であり、そこには常に変容と発見の余地がある。
セラピールームは、そうした動的な自己に光を当てる「仮設の実験室」である。そこでは、日常生活の中では無意識のうちに見過ごしてしまう微細な感情や思考の流れが、言葉という媒介を通して浮かび上がってくる。しかし、そこでの気づきは、実際の生活世界において試され、実践されることで、はじめて本当の意味を持つようになる。
メルロ=ポンティが『知覚の現象学』で語るように、身体とは単なる物理的存在ではなく、「世界への開かれ」である。つまり、人がどのように世界に対して身を置き、応答しているか――そこに自己理解の鍵がある。たとえば、人前で話すことに緊張を覚えるクライエントが、職場でのプレゼンテーションに挑むとき、彼にとって大切なのは、「上手く話すこと」以上に、そのときの呼吸の浅さ、手のひらの汗、頭の中をよぎる言葉たちを、静かに、誠実に見つめることだ。それは自分という存在が、社会という場においてどのように「ある」かを感受する貴重な瞬間である。
同様に、親族との関係、旧友との再会、恋人との別れ――それらすべての出来事が、我々に自己を映す鏡を差し出してくれる。これを、ユングは「投影(projection)」と呼んだ。他者の中に自分の内面を映し出すことで、我々は逆説的に自己の未知の側面に気づいていく。
思い出すのは、ある高齢の男性クライエントのことだ。長らく「不器量な人間」だと思い込んできた彼は、偶然再会した小学校の同級生から、「あなたは、石炭のように真っ黒な髪と、いたずらっぽい笑顔の、きれいな男の子だった」と言われて涙した。彼の心に沈殿していた幾十年もの自己評価は、その一言によって大きく揺らいだ。ニーチェが『ツァラトゥストラ』で語るように、「われわれは、他者のまなざしのなかでしか、自分の背中を見ることができない」。彼の涙は、そのまなざしの中に初めて「美しい自己」を見出したときの感動であったのだろう。
人間学的精神療法においては、こうした経験を単なる「症状の改善」としてではなく、「存在の深まり」として受け止める視点が欠かせない。ビンスワンガーが述べたように、精神療法は「存在の様式の変容」を目指す営みである。つまり、自己モニタリングとは、自らの生のあり方に対して責任を持ち、誠実に関わろうとする倫理的な行為でもある。
日々の出来事を「生きたデータ」として内省の素材にし、他者のまなざしを自己理解のレンズとして活用し、そして何より、自分自身の感情や反応に対して開かれた態度でいること――これこそが、精神療法という冒険を、セラピストの助けを借りつつも、最終的には一人の人間として、自立的に歩み続けるための礎なのだ。
学術的に言えば、これは「メタ認知的能力(metacognitive capacity)」の育成であり、自己に関する情報処理の階層性を高める試みである。だが、もっと素朴に言えば、それは「自分という風景」を、少し高い丘の上から見渡してみるということでもある。ときに霧がかかり、ときに陽が射し、鳥が鳴き、誰かが通り過ぎるその風景は、他ならぬ「わたし」という存在の豊かさに他ならない。
だから私は、クライエントにこう伝える。「あなたの日常を、あなた自身の人生という学びの実験室にしてください。そこでのすべての経験が、あなたという存在の奥行きを照らし出す手がかりなのですから」と。
※参考文献
・ヤスパース, K.『精神病理学総論』
・メルロ=ポンティ, M.『知覚の現象学』
・ニーチェ, F.『ツァラトゥストラはこう語った』
・ユング, C.G.『自我と無意識』
・ビンスワンガー, L.『存在分析入門』