患者の間に自分自身に時間を与える――斧を研ぐ時間
ある精神分析家がこう語ったことがある。
「分析家の最大の道具は、理論ではない。自己自身だ」と。
その言葉に深く頷いたとき、私はかつて研修医時代に読んだ発達心理学の一節を思い出した。乳児は他者のまなざしのなかで自己を発見すると。鏡像段階を通してラカンが語ったような「自己の統合」以前に、私たちはすでに他者のなかに住まわざるをえない存在であった。
だからこそ、われわれ臨床家が「他者」として存在することの重みは、時に耐えがたいものを伴う。ある患者にとって、私たちは生まれて初めての「聴いてくれる他者」であり、あるいは最期まで「裏切らない誰か」であるかもしれない。
そうした出会いに身を差し出すには、そしてそこに真実をもたらすには、われわれ自身が「自分自身」と再会する時間を必要とする。
現代の臨床現場において、多くのセラピストが15分単位、あるいはもっと短い時間で患者と患者の間を移動している。それはまるで、感情と記憶の海をわたる舟を、一艘一艘、岸に置いてはすぐさま次の舟に飛び乗るようなものである。
だが、その間に、海水は私たちの足元を濡らし、残り香のように他者の物語がしみ込んでくる。次の舟に乗り込むとき、その重さを私たちは本当に降ろしきっているだろうか。
精神分析的に言えば、「間(ま)」の時間は転移と逆転移の余韻を熟成させる熟成槽である。前のセッションで感じた名づけがたい感情――言語化されなかった怒りや、心の奥に沈んだ哀しみ――それらを一旦、心の中で噛みしめ、言葉にする時間が、私たちには必要なのだ。
発達心理学の視点から言っても、自己とは一つの完成体ではなく、関係性のなかで変容しつづけるプロセスそのものである。特に感受性の高いセラピストは、出会いと別れのたびに、小さく自己を再構成している。その繊細な作業を、ただのスケジュール表の枠組みに押し込めてはならない。
子どもが遊びと遊びのあいだに小さな「空白」を必要とするように、大人もまた、精神の跳躍のためには、沈黙と間を必要とする。むしろ、成熟した大人ほど「何もしない時間」の価値を深く知っているのではないか。
エイブラハム・リンカーンの言葉がある。
「木を切るのに8時間与えられたなら、私はそのうちの6時間を斧を研ぐことに費やすだろう」
この言葉は、私にとって一種の箴言となっている。斧を研がずに木に向かう人間は、技術に頼り、力に任せる。そして、やがて疲れ果て、刃こぼれした道具のせいで、木ではなく自分を傷つけることになる。
セラピストにとっての斧とは何か――それは、自己の感受性と洞察、そして他者を前にしたときの心の開き方である。その斧は、使えば使うほど曇っていく。だからこそ、磨く時間が必要なのだ。
一日のうち、数回のセッションのあいだに15分の休息を入れることは、経済的には合理的でないかもしれない。しかし、それが治療の質を変えるのならば、結果的にそのセラピストにしかできない仕事をもたらす。それは市場原理では測れない、唯一性の領域だ。
心理療法とは、ある種の「神聖な無駄」を引き受ける行為である。効率よく症状を消すことが目的ではなく、回復のなかで人生そのものを再構築していく旅路の伴走者となることだ。そのためには、セッションとセッションの間に、もう一人の自分自身と出会う時間が必要なのだ。
思えば、私自身が一番、変容したのは、セッションのあいだの静寂のなかでだった。クライエントの語った言葉が、ふと脳裏に蘇り、それに自分の感情が重なってくる――それが、次のセッションでの沈黙の深さや問いかけの質を変えてくれる。
ユングは言った。「治療とは、人格と人格の出会いによって起こる変容である」と。人格とは、予定表のなかでは育たない。余白と間のなかで、初めて呼吸を始める。
だから、私は今日もまた、セッションのあいだに椅子にもたれ、ほんの少しの沈黙を楽しむ。斧を研ぐように、自分の内面を磨く。それは贅沢ではなく、必要なのだ。
「斧を研ぐ時間を惜しむ者は、木を倒す時間で泣くことになる」
私はその教訓を、今日もまた胸に刻んでいる。
【参考文献・思想的出典】
- Lacan, J.(1977). Écrits
- Winnicott, D. W.(1971). Playing and Reality
- Kohut, H.(1977). The Restoration of the Self
- Jung, C. G.(1953). Modern Man in Search of a Soul
- Merleau-Ponty, M.(1945). Phénoménologie de la perception
- 岩宮恵子(2007). 『臨床心理学と子どもの発達』岩崎学術出版社