「今、ここ」の声に耳を澄ませて

「今、ここ」の声に耳を澄ませて

――ある春の午後

 人は、ある日ふと、これまで自分が何を守ろうとしていたのかに気づくことがある。誰に強いられたわけでもないのに、「こうあるべきだ」「ああすべきでない」といった声が、まるで鉄の柵のように心を囲んでいたことに。

 私はある春の午後、書斎の窓から入り込む風に頬を撫でられながら、長らく手を伸ばさずにいた本を取り出した。カール・ロジャーズの『人間性心理学の展望』である。頁を繰るごとに、「経験に開かれること(openness to experience)」という彼のことばが、心に沁みるようだった。

 経験に開かれるというのは、単なる受動性ではない。むしろそれは、鋭くも優しく、己の感情の波に耳を澄ます能動的な態度である。例えば悲しみが胸を満たすとき、それを理性で言いくるめたり、無理に明るさで塗りつぶしたりせず、「私は今、悲しんでいる」と認めること。そこに癒しのはじまりがある。

 私たちは、いつの間にか「ねばならない」に取り囲まれている。よき親であれ、誠実な職業人であれ、常に明るく感謝を忘れぬ人であれ――それらは確かに善いことかもしれないが、同時に、そうでない自分を否定する刃にもなりうる。人間学的精神療法は、こうした外的な基準からの解放を試みる。つまり、「ねばならない」ではなく、「私は今、何を感じ、何を望んでいるか」に目を向けることこそが、人としての回復の第一歩なのだ。

 ロジャーズはこうも書いている。「人が自らを無条件に受容できたとき、他者への共感が可能になる」(On Becoming a Person, 1961)。これは逆説的だが、深い真理を含んでいる。自分を否定しながら、他者を理解することはできない。自分の痛みを知らないままでは、他人の痛みに寄り添うことはできないのだ。

 ある患者が、長年抑圧してきた怒りについて語ってくれたことがある。「こんな感情、持ってはいけないと思っていた。でも、先生はただ、そうなんですねと頷いてくれた。その瞬間、自分が許された気がしたんです」。

 その言葉は、私にとっても深い慰めであった。人間にとって、「理解された」という感覚ほど、静かに力強いものはない。

 「より複雑で豊かな自己感覚を発達させる」とは、自己矛盾を抱えたまま、なお歩みを止めぬことだ。無傷の自己など存在しない。だが、傷を抱えたままでもなお、自分を愛することはできる。むしろ、そこにしか真の自己受容は生まれない。

 そうして人は、他者の存在を、ただの背景ではなく、共に風に吹かれる隣人として感じるようになる。そこに共感が芽生える。「この人もまた、私と同じように、泣き、笑い、悩み、愛そうとしているのだ」と。

 日が暮れかけた書斎で、ロジャーズの言葉がふたたび脳裏をよぎる。「私は、あるがままの私であることをゆるされるとき、初めて変わることができる」。

 私たちは今、「今、ここ」の経験に深く関わることを選ぶことができる。防衛を手放し、風のように柔らかに、自分という存在を許すとき、人生は少しだけ、やさしくなる。


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