自己超越

自己超越

――自己を超えてゆくことについて

 夜が更け、机の上のランプ。部屋の隅には湯気のたつ湯呑み、その香りに心が和らいだ。思考の流れ、「自己を超える」という言葉。

 自己超越――それは、何かを犠牲にして高みに登るというよりも、むしろ、自分という囲いの中から一歩そとへ踏み出す、静かな身振りのように思える。ロジャーズもまた、こうした変容を「自己一致(congruence)」の深化として語っていた。自己一致とは、内面と外面が調和し、ありのままの自己として世界とつながっていくこと。そして、その先にあるのが、自己という枠組みの「柔らかさ」に目覚めてゆく過程だ。

 これは、ある種の「やわらかい自己超越」だ。自分を否定するのではなく、自分を含んだまま、それを包みこむように広がってゆく感覚。たとえば、苦しむ他者の姿を前にしたとき、「自分だったらどうか」ではなく、「この人の苦しみは、この人のものとして、ここにある」と受けとめる余地が、心の中に生まれる瞬間。そこにはもう、「私」も「あなた」も溶け合うような深い沈黙がある。

 フランクルが『夜と霧』で語ったように、人間の尊厳とは、極限のなかにあってもなお、他者のためにパンを分け与えることのできる、あの一瞬に宿る。人は己の苦しみに沈みながらも、誰かを思い、誰かに手を差し伸べることができる。それが、もっとも純粋な「超越」のかたちではないだろうか。

 私たちは日常のなかで、自己超越を大げさな理想としてではなく、もっと慎ましい形で経験しているのかもしれない。たとえば、子を想う親のまなざし、友の沈黙に寄り添う時間、誰かの涙にそっとハンカチを差し出す手――そこにあるのは、「私は、私を越えて、あなたのことを想っている」という、言葉にならない優しさだ。

 こうした経験は、必ずしも劇的ではない。むしろ、日々の営みのなかに、静かに息づいている。それらは自我の枠を少しずつ緩め、より広い関係性のなかに私たちを導く。そして、そこには「意味」が芽生える。

 人間学的精神療法が見つめるのは、まさにこのような「意味の発見」である。意味とは与えられるものではなく、関係のなかで見出されるもの。生の痛みも、孤独も、そのままでは答えにならない。だが、それらを通して誰かとつながるとき、その痛みは、光となって誰かを照らす。

 夜がいよいよ静まり返った頃、私は息を吐いた。自分の輪郭が、やわらかくなったような気がした。自己超越とは、結局、自分を超えて、他者と、世界と、より深くつながっていくこと。その旅は、いま、ここから始まり、また、いま、ここに戻ってくるのだ。

 そして私は、灯を消した。暗がりのなか、心には明かりがともっていた。


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