相互主観性(Intersubjectivity)2

相互主観性、主観性、客観性の明確な比較

🔁 1. 相互主観性(Intersubjectivity)

  • 定義:二人以上の主体のに生じる共有された理解や意味。
  • 重要な考え:現実と意味は関係性を通じて共同創造される。
  • :両者が真に理解し合えると感じる意味のある会話。
  • 哲学的立場:真理は関係的なもの;純粋に内部的(主観的)でも純粋に外部的(客観的)でもない。
  • 核心的な問い「私たちはどのように一緒に世界を理解するのか?」

👤 2. 主観性(Subjectivity)

  • 定義一人の視点からの経験や見方—その人の内なる思考、感情、知覚。
  • 重要な考え:現実は個人の意識を通して濾過される
  • :「何も悪いことが起きていなくても、私は不安を感じる。」
  • 哲学的立場:真理は個人的で内部的なもので、自分自身の心によって形作られる。
  • 核心的な問い「私はどのように世界を経験するのか?」

🌍 3. 客観性(Objectivity)

  • 定義中立的、超然とし、個人的な視点から独立した視点を目指すもの。
  • 重要な考え:現実は観察者から独立して存在する。
  • :気温の科学的測定(例:23°C)で、感情に影響されないもの。
  • 哲学的立場:真理は普遍的で観察可能なもので、誰が見ているかに関わらず存在する。
  • 核心的な問い「誰が問うかに関わらず、何が真実なのか?」

🧭 要約表

概念定義視点重要な問い
主観性内部的、個人的視点一人称「私はこれをどう経験するか?」「私は寒く感じる。」
客観性超然とした、中立的観察三人称「何が関わりなく真実か?」「部屋の温度は20°Cである。」
相互主観性関係を通じて共有された意味二人称/関係的「私たちはこれをどう一緒に理解するか?」「私たち二人ともこの音楽が平和的だと感じることに同意する。」

相互主観性は中間的な道を提供します:それは個人的経験(主観性)を認めつつも、理解を孤立したものではなく関係性の中で構築されるものとして捉えています。

精密に考察すれば、相互主観Aと相互主観Bは異なっているに違いない。しかし、粗雑さのレベルによっては、一致してるとみなすこともできる。
そのような粗雑さの上に危うくも成立しているのが、相互主観である。それは二者の共有の基盤であり、拡大すると、社会の共有の基盤であり、共同主観とも、共同幻想ともいえるものになる。
共有された主観は、強力な力を持つ。個人の内面に侵入する。そのために生きて、そのために死ぬ人まで出現する。
マスコミや洗脳は、このプロセスを巨大化、精緻化したものだ。その途中から、客観的事実など二の次になる。
このような意味で、主観を統治するのが政治であるという考え方も出てくるだろう。考え方と言うよりも、政治的欲望と言うべきだ。そしてそれは不可能ではない状況になっているのだから、危険である。

素朴実在主義で言う客観的実在が本当にあるのかについては、哲学的には確定できない。すべては夢かもしれないし、全ては共同主観かもしれないし、全ては妄想かもしれない。
ただ、そのような存在の在り方をいったんは受け入れておけば、現在の多くの自然科学、工学などの分野で、理解しやすいし、その恩恵を享受するに際しても、理解しやすい。いちいち、実在性は怪しいが、共同主観性の点で受け入れるなどと考えるのも無駄な話だ。

人間は自分の主観を知ることしかできない。その一部を客観と仮定して暮らしている。その態度で、当面問題はないので、哲学者と話す時以外は、素朴実在論で必要十分である。

しかし、あくまで、それは主観の一部なのだと、知っておくほうがいい。人間の主観の一部を操作する技術は大幅に進歩しているから。パスワードを複雑にすることと同じくらい大切なことだ。

パスワードなら、桁数を多くして複雑にして安心もできるが、自分の主観なのに客観だと思い込む仕組みがあり、そして人間の主観は他者によって大きく影響されるような、脆いものなのだ、そしてその脆さを実感して、対策することはほぼできないのだ、この点に関しては、原理的に、安心には程遠い。。何も考えないでいられれば、ある種の安心、考えだすと、出口のない混迷。解決はなく、安心しているのは、だまされている人間だけである。

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