本章では、精神医学と医学における主流モデルである生物・心理・社会(BPS)モデルの歴史的背景と概念的分析を行い、その限界と批判点を明らかにします。その上で、進化理論をBPSモデルに統合することが、その欠点を克服し、より包括的で科学的に整合性の取れた健康と疾病のモデルを構築するための次段階として適切であることを主張します。進化理論は、BPSモデルが認識する多層的な因果関係を強化し、究極原因と近接原因の両方を考慮に入れることでモデルを拡張し、生物学的機能と機能障害の明確な区別を可能にし、系統発生学的視点を生物学研究に導入します。
主要テーマ:
- 生物・心理・社会(BPS)モデルの現状と限界:
- BPSモデルは、還元主義的な生物医学モデルに対する重要な進歩として1970年代に提唱されましたが、科学的・哲学的基盤には疑問が残ります。
- BPSモデルは、生物学的要因に加えて、心理的および社会的要因が健康と疾病に影響を与えることを認識していますが、これらの要因間の相互作用や、その根底にある進化的理由については十分に説明していません。
- BPSモデルは曖昧であり、臨床的な実践可能性や研究課題の明確化において課題を抱えています。
- 進化理論のBPSモデルへの統合の必要性:
- 進化理論は、生物学における基本的な理論であり、生命現象を理解するための強力な枠組みを提供します。
- 進化論的視点は、BPSモデルが認識する多層的な因果関係を正当化し、強化します。
- 進化理論は、近接原因(直接的なメカニズム)だけでなく、究極原因(進化的な理由)を考慮に入れることで、健康と疾病の理解を深めます。
- 進化論は、生物学的機能と機能障害を客観的に定義するための基盤を提供し、医学用語の曖昧さを解消する可能性を持ちます。
- 心理社会的要因の進化的理解:
- 進化心理学、進化人類学、霊長類学などの分野は、心理的および社会的行動の進化的起源と機能を理解する上で貢献します。
- 例えば、地位の低下後の気分の落ち込みは、祖先環境においては適応的な機能を持っていた可能性があり、現代社会におけるミスマッチが臨床的うつ病のリスクを高める可能性があります。
- 系統発生学的比較は、人間における健康問題の理解に役立つ、他の種との共通点や相違点を示唆します。
- プラセボ効果と防御の進化的視点:
- プラセボ効果は、心理社会的文脈が身体的健康に影響を与える明確な証拠であり、体細胞、心理的、社会的な境界の多孔性を示しています。
- 進化論的視点から見ると、プラセボ反応は主に病気のプロセスを変更するのではなく、体の防御の修正を伴うと考えられます。
- 進化は、傷害、感染、中毒から防御する生物学的メカニズムを選択しており、これらの防御の調節は環境の評価によって影響を受けます。
- 機能、機能不全、有害な機能不全の概念の再検討:
- 医学と精神医学で使用される「機能的」と「機能不全」という用語は、しばしば曖昧な定義で使用されています。
- 進化論は、生物学的機能を、遺伝子が伝播される原因となった表現型によってもたらされる生殖成功に関連付けることで、客観的に定義する基盤を提供します。
- ウェイクフィールドの「有害な機能不全」モデルは、真の障害を、進化した機能を実行できないという生物学的基準と、社会文化的基準によって判断される害の存在という2つの構成要素を持つハイブリッド概念として定義します。
- 進化論的視点を取り入れることで、精神障害のより意味のあるサブタイピングが可能になり、非科学的な慣行から精神医学を遠ざけることができます。
重要なアイデアと事実:
- BPSモデルの起源: エンゲルは、システム理論に基づき、相互作用する組織の異なるレベルにおける物理的システムの階層を特定し、還元主義的な生物医学に対する批判としてBPSモデルを提唱しました。
- 引用: 「EngelはBPSモデルをシステム理論(von Bertalanffy, 1968; Weiss, 1969)の理論モデルに基づき、相互作用する組織の異なるレベルにおける物理的システムの階層を特定した…」
- 生物医学的アプローチの限界: 生物医学は疾患を機能障害的な生物学的プロセスとして定義しますが、心理的および社会的要因を無視する傾向があります。
- 引用: 「疾患を機能障害的な生物学的(以下「身体的」)プロセスとして定義するこのアプローチが主流精神医学に遅れて到達した。」
- BPSモデルへの批判: BPSモデルは、哲学的明確性や科学的妥当性に欠け、曖昧すぎて臨床的に実践不可能であるという批判を受けています。
- 引用: 「第一に、BPSモデルの哲学的・科学的価値は複数の著者(例:Benning, 2015)によって問われてきた。」
- 進化理論の統合: 進化理論は、生物学的機能と機能不全を進化の歴史に関連付けることで、BPSモデルに客観的な基盤を提供します。
- 引用: 「進化的な機能の概念は、遺伝子が伝播される原因となった表現型によってもたらされる生殖成功に関連しています。」
- ティンバーゲンの4つの質問: 進化科学者は、行動や形質を理解するために、近接原因(メカニズムと発達)と究極原因(機能と系統発生)の両方を考慮に入れます。
- 引用: 「これらはティンバーゲンの4問(Tinbergen, 1963;詳細は本巻第1章参照)によって進化科学者に認識され、これはマイヤーの近接因果と究極因果の区別(Mayr, 1961)をさらに展開したものだった。」
- ミスマッチの概念: 現代社会の新しい環境は、私たちの遺伝子、体、脳が適応してきた祖先環境とは異なっており、このミスマッチが健康に悪影響を与える可能性があります。
- 引用: 「私たちの遺伝子、体、脳は主に狩猟採集民の生活の中で進化しましたが、今日では現代社会の新しい環境に生まれており、この「ミスマッチ」は健康に悪影響を与える可能性があります。」
- 有害な機能不全モデル: 真の障害は、進化的に定義された機能の喪失と、社会的に判断される害の両方を伴います。
- 引用: 「ジェローム・ウェイクフィールドの、疾患と障害に関する影響力のある「有害な機能不全」モデル(Wakefield, 1992, 1997, 2015)は、この進化的な枠組みを利用し、真の障害を2つの構成要素を持つハイブリッド概念として定義しています。」
- 精神医学の現状への批判: 精神医学研究は過去50年間で大きな進展が見られず、既存のアプローチの再考が必要とされています。
- 引用: 「過去50年間やってきたことは、うまくいっていない…おそらく、このアプローチ全体を再考する必要があるだろう…」
結論:
本章は、進化理論をBPSモデルに統合することが、健康と疾病の理解を深化させ、より効果的な医療実践と研究を推進するための不可欠なステップであることを明確に示しています。進化論的視点は、BPSモデルの哲学的・科学的基盤を強化し、多層的な因果関係をより包括的に理解することを可能にし、生物学的機能と機能障害の客観的な定義を提供します。将来的には、進化論的に知識のある医療従事者や研究者は、精神障害を含むさまざまな健康問題をより深く理解し、個別化された治療法や予防策の開発に貢献することが期待されます。進化医学と進化精神医学への移行は、医学の分野における重要なパラダイムシフトであり、生物学の基本的な理論と医療実践を結びつけることで、より科学的に根拠のある医療の実現に貢献するでしょう。
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生物心理社会モデルに関する考察
生物心理社会(BPS)モデルは、現代の精神医学および医学において、健康と疾病を説明する主流のモデルとして広く採用されています。このモデルは、1970年代にEngelによって提唱され、還元主義的な生物医学アプローチに対して、心理的および社会的な要因を統合することを目的として提案されました。BPSモデルの登場は、当時の医学における重要な進歩であり、それまで主流であった、生理学と生化学の原理に基づく臨床医学としての「生物医学」 の限界を克服しようとする試みでした。
BPSモデルの起源と基盤
Engelは、BPSモデルをシステム理論の理論モデルに基づいて構築しました。この理論では、素粒子から生物圏に至るまで、相互作用する組織の異なるレベルにおける物理システムの階層が特定され、各レベルは組織化された動的な全体を表すとされました。極端な生物医学モデルでは、医師は単なるバイオマーカーの探索者と生理状態の修復者に過ぎないと見なされましたが、Engelは、これは個人の下位レベルにしか当てはまらず、人間が置かれた関係、家族、地域社会、文化といった上位階層の下方への影響を無視していると主張しました。
抑うつの例を挙げると、生物医学的視点は抑うつをセロトニン取り込みの異常な変動などの脳障害としてのみ扱いますが、Engelは、心理社会的レベルで容易に観察できる要因によって引き起こされる多くの抑うつ事例を見落としていると指摘しました。Engelは、身体的レベルと同様に心理社会的レベルでの観察と介入の重要性を強調し、適切なケアと健康障害の完全な理解には患者の心理状態と社会的状況の認識が必要であると主張しました。
BPSモデルへの批判と更新
大多数の著者は、純粋な生物医学的医療が過度な還元主義に陥りがちであるという点でEngelと同様に同意していますが、BPSモデルに対しては主に2種類の批判が提起されています。
- 哲学的明確性や科学的妥当性の欠如:BPSモデルは、科学的理論やモデルとしての基準を満たしていないと批判され、精神分析を「裏口から」存続させようとする試みとも評されました。また、「社会」次元が、汚染、放射線、有害物質、感染症など重要な環境要素を除外しているという指摘もあります。
- 曖昧すぎて臨床的に実践不可能:BPSモデルは規範的でも精確でもなく、相互作用するレベルが疾病を引き起こすと認識する以上に、特定の患者に対する診断・治療アプローチについて臨床医に明確な指針を提供していません。この曖昧さは研究課題の開発困難にも寄与しており、「生物・心理・社会」という用語は広く建前として用いられるものの、生物医学的研究アジェンダが依然として支配的であるという懸念も表明されています。
近年、Bolton and Gillett などによってBPSモデルの更新が試みられていますが、これらの試みは、モデルを複雑化するだけで、健康の厳密で包括的なモデルとしての正当性を確立できていないと批判されています。
BPSモデルを超えて:進化論の統合
本章では、進化理論の統合がBPSモデルの次の段階として適切であると提言されています。進化理論は、BPSモデルが認識する多層的な因果関係を正当化し強化するとともに、究極的因果関係と近接的因果関係の両方を認識することでモデルを拡張します。これにより、生物学的機能と機能障害の明確な区別が可能となり、系統発生学的視点が生物学研究を新たな方向に導くとされています。
進化論的視点は、生物学における因果関係が、近接的なメカニズムと発達だけでなく、究極的な機能と系統発生の歴史としても理解される必要があることを強調します。ティンバーゲンの4問は、進化科学者によって認識されており、マイヤーの近接因果と究極因果の区別をさらに展開したものです。
進化医学と進化精神医学は、機能と系統発生の「究極」の分析を含めるように、BPSモデルの3つのレベル(体細胞、心理、社会)すべてを拡張し、各レベルでの研究と治療に関連性を持たせています。例えば、うつ病が主に地位と社会ネットワークの喪失に関連している場合(進化論的観点からは財政よりも心理的に重要であると認識されます)、財政改善やセラピーだけでは効果が薄く、失われた地位と社会的なつながりを取り戻すライフスタイルの変化が必要となる可能性が示唆されています。
進化論はまた、発達可塑性などの概念を通じて、心理社会的要因と健康転帰との関係に関する一般的なメカニズムを理解するために使用できます。さらに、プラセボ効果や防御反応の理解にも進化論的な視点が有用であり、これらの現象が単に病気のプロセスを変更するのではなく、体の防御の修正を伴う可能性が指摘されています。
非還元主義の正当化
進化論は、体細胞、心理的、社会的なレベル間の双方向の因果関係を認識しており、多重実現可能性の概念を通じて非還元的な分析をさらに正当化します。これは、同じ適応機能がより低いレベルの組織化で複数の異なる形で実現される可能性があるという洞察です。例えば、マラリア感染を予防または軽減するために進化した表現型は、異なる遺伝的継承を持つヘモグロビンの複数の分子配置を通じて達成されます。
また、私たちの遺伝子、体、脳は主に狩猟採集民の生活の中で進化しましたが、現代社会の新しい環境との**「ミスマッチ」**が健康に悪影響を与える可能性も指摘されています。
機能、機能不全、そして有害な機能不全の概念
進化論的視点は、「機能的」と「機能不全」の概念を進化論に根拠づけることによって、BPSモデルを進歩させることができます。生物学的機能は進化的に定義することができ、医学用語に明確さを与えます。ウェイクフィールドの「有害な機能不全」モデルは、真の障害を、システムの進化した機能を実行できないという生物学的基準に基づく「機能不全」と、一般的な社会文化的基準によって判断される「害」の2つの構成要素を持つハイブリッド概念として定義しています。
結論
BPSモデルは、還元主義的な生物医学モデルを超える重要な一歩でしたが、進化論を統合することで、より強固な科学的および哲学的基盤を得て、健康と疾病の理解を深めることができると結論付けられています。進化論的に知識のある研究者は、あらゆる特定の状態に関連する複数のレベルを認識し、それらの影響を改善するための変化を予測、理解、提案し始めることができるでしょう。進化医学と進化精神医学への移行は、優れた理論的枠組みの中で健康問題を説明し、医学の実践を生物学の科学と結びつける、真のパラダイムシフトとなる可能性があります。
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本稿では、還元主義的生物医学について、提供された資料に基づいて議論します。
還元主義的生物医学の定義と特徴
資料によれば、「生物医学(biomedicine)」という用語は1923年に初めて登場し、「生理学と生化学の原理に基づく臨床医学」を意味していました。20世紀の医学は実験室科学と結びつき、「根拠に基づく医療(EBM)」へと向かい、治療法の承認には生化学的または病態生理学的経路および薬理学的機序に関する科学的根拠が要求されるようになりました。このアプローチは、疾患を機能障害的な生物学的(身体的)プロセスとして定義します。
主流精神医学においては、20世紀前半には精神分析が支配的でしたが、1980年の『精神障害の診断と統計マニュアル第3版(DSM-III)』の出版により、生物医学的アプローチへと移行しました。この転換は、他の医学領域で成功したモデルを模倣することを目的としていました。この生物医学的アプローチの支持者は「生物学的精神科医」と呼ばれることもあります。
極端な生物医学モデルにおいては、医師は単なるバイオマーカーの探索者と生理状態の修復者に過ぎないと見なされます。これは、個人のより低いレベル(素粒子、原子、分子、細胞など)にしか当てはまらず、人間が置かれた関係、家族、地域社会、文化といった上位階層の影響を無視しているとされています。
還元主義的生物医学への批判
1970年代に精神医学に入り込んだ還元主義的生物医学アプローチは、「反精神医学」から強い反発を受けました。特にThomas Szaszは、「精神疾患」は人間の生活上の問題を表す単なる比喩に過ぎず、物理的疾患としての「病気」ではないと主張しました。Szaszは、精神疾患を確定するための生物学的・化学的検査や生検、剖検所見が存在しないことを指摘しました。
神経科学と遺伝学の研究がまもなく精神疾患を確実に説明するという期待は約50年間続いていますが、還元主義的生物医学的説明が発見されるという単純な考えへの信頼は薄れつつあります。特に、還元主義的分析を拒む複雑な相互作用ネットワークを考慮する場合、その傾向は顕著です。
エンゲルのBPSモデルの提唱
医療現場においては、還元主義的生物医学モデルからの最も広く認知され採用された進歩は、George Engelの「生物・心理・社会(BPS)」モデルでした。Engelは、抑うつを脳障害としてのみ扱う生物医学的視点に不満を持ち、心理社会的レベルで容易に観察できる要因によって引き起こされる多くの抑うつ事例を見落としていると主張しました。彼は、身体的レベルと同様に心理社会的レベルでの観察と介入の重要性を強調し、適切なケアと健康障害の完全な理解には患者の心理状態と社会的状況の認識が必要だとしました。
BPSモデルは、生物医学を超えた因果関係と介入レベルに注意を向けることを目的としており、微視的効果から巨視的効果、細胞レベルから社会全体までの空間分析の多レベル認識を重視しました。
進化論的視点からのさらなる批判
進化論的視点は、還元主義的生物医学アプローチの限界をさらに明らかにします。生物学における因果関係は複数のレベルを含み、相互作用する複雑なシステムを構成しますが、還元主義的生物医学はこれらの複雑な因果関係の完全な説明可能性を主張します。進化論は、生物学的機能と機能障害を理解するための優れた科学的基盤を提供し、「機能」と「系統発生」の分析を統合することでBPSモデルを拡張します。
進化論的に見ると、特定のDNA配列をうつ病の主要な生物学的原因と見なす非進化論的な生物医学的見解とは異なり、進化論的アプローチは、進化の歴史を通じてこれらの遺伝子の存続につながった選択圧を理解しようとします。また、同じ適応機能がより低いレベルの組織化で多重に実現される可能性(多重実現可能性)は、非還元的な分析をさらに正当化します。
このように、還元主義的生物医学は、疾患を単に生物学的な機能障害として捉えることで、心理的および社会的な要因の重要性を十分に考慮しておらず、健康と疾病の複雑な現象を十分に理解するには限界があると言えます。BPSモデルや進化論的視点の導入は、これらの限界を克服し、より包括的な理解を目指す試みと言えるでしょう。
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本稿では、提供された資料に基づき、進化理論の統合について議論します。
現在、精神医学と医学における健康と疾病を説明する主流モデルは、1970年代にEngelが提唱した生物・心理・社会(BPS)モデルです。これは、主流の還元主義的な生物医学モデルに心理的・社会的要因を統合するために提案されました。生物医学は、1923年に「生理学と生化学の原理に基づく臨床医学」として定義され、20世紀の医学は実験室科学と結びつき、「根拠に基づく医療(EBM)」へと発展し、治療法の承認には生化学的または病態生理学的経路に関する科学的根拠が求められるようになりました。精神医学においても、20世紀後半に精神分析から生物医学的アプローチへの移行が見られました。
しかし、還元主義的な生物医学アプローチは、疾患を機能障害的な生物学的プロセスとしてのみ定義し、心理的および社会的な上位階層の影響を無視していると批判されてきました。また、神経科学と遺伝学の研究が進んでも、精神疾患の生物医学的な説明が単純に発見されるという考えへの信頼は薄れつつあります。
このような背景から、EngelのBPSモデルは、生物医学を超えた因果関係と介入レベルに注意を向け、生物学的レベルと同様に心理社会的レベルでの観察と介入の重要性を強調しました。BPSモデルは、微視的効果から巨視的効果、細胞レベルから社会全体までの空間分析の多レベル認識を重視しました。
しかし、BPSモデルも哲学的明確性や科学的妥当性に欠けるという批判や、曖昧すぎて臨床的に実践不可能であるという批判を受けています。例えば、「社会」次元が重要な環境要素を除外しているといった指摘や、診断・治療アプローチについて臨床医に明確な指針を提供していないといった点が挙げられます。
そこで提唱されているのが、進化理論の統合です。進化理論は、BPSモデルが認識する多層的な因果関係を正当化し強化するとともに、究極的因果関係(機能と系統発生)と近接的因果関係(機序と発達)の両方を認識することでモデルを拡張します。これにより、生物学的機能と機能障害の明確な区別が可能となり、系統発生学的視点が生物学研究を新たな方向に導くとされています。
進化理論の統合によるBPSモデルの拡張と利点:
- 多層的な因果関係の正当化と強化: 進化論は、体細胞、心理的、社会的なレベル間の双方向の因果関係を認識し、これらのレベルが選択圧を通じて世代を超えて相互に影響し合うことを理解する枠組みを提供します。
- 究極的要因の導入: BPSモデルが主に近接要因(直接的なメカニズムや発達)に焦点を当てるのに対し、進化論はなぜ特定の形質や脆弱性が存在するのかという究極要因(進化的な機能と系統発生)を探求します。例えば、うつ病に関連する遺伝子の存続につながった選択圧を理解しようとします。
- 心理社会的な理解の深化: 進化心理学、進化人類学、霊長類学などの視点を取り入れることで、心理的および社会的な要因が健康にどのように影響するのかについての理解を深めます。例えば、狩猟採集民の社会構造と現代社会のミスマッチがうつ病のリスクを高める可能性などが考察されます。
- プラセボ効果と防御の理解: プラセボ効果や体の防御反応を進化的な観点から理解することで、心理社会的要因が生体プロセスに影響を与えるメカニズムについての洞察が得られます。
- 非還元主義の正当化: 多重実現可能性の概念(同じ適応機能が異なる下位レベルの組織化で実現される可能性)は、還元主義的な分析の限界を示し、体細胞、心理的、社会的なレベルを同時に考慮する必要性を裏付けます。マラリア耐性やラクターゼ持続性などがその例です。
- ミスマッチの認識: 現代社会の新しい環境と、主に狩猟採集民の生活で進化した人間の遺伝子、体、脳との間のミスマッチが、さまざまな健康問題を引き起こす可能性を理解することができます。
- 診断カテゴリーの再考: 進化論的な視点は、現在のDSMのような記述主義的な診断システムが抱える問題点(症状の共有、異質性など)を指摘し、より病因に基づいた診断への移行を促す可能性があります。
- 機能と機能不全の客観的定義: 進化論は、生物学的機能を進化的な成功に関連付けて定義することで、健康と障害の概念に客観的な基盤を与えます。ウェイクフィールドの「有害な機能不全」モデルはこの枠組みを利用しています。
進化理論を統合することで、BPSモデルはより理論的に整合性があり、科学的に有益な健康・疾病モデルへと進化する可能性を秘めています。これは、還元主義的な生物医学アプローチの限界を克服し、健康問題の複雑さをより深く理解するための重要なステップと言えるでしょう。トーマス・インセルが指摘するように、従来の生物医学的アプローチの限界が見えている現状において、進化論の統合は精神医学を含む医学全般を新たな視点から再考する機会を提供します。
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本稿では、提供された資料に基づき、究極的因果関係について議論します。
究極的因果関係は、生物学における因果関係を理解する上で重要な概念であり、**機能(適応上の意義)と系統発生(進化の歴史)**に関する問いに答えるものです。これは、近接的因果関係(機序と発達)、すなわち直接的なメカニズムや個体発生の過程に関する問いとは対照的です。
資料では、進化理論を生物・心理・社会(BPS)モデルに統合することの重要性を議論する中で、究極的因果関係が強調されています。従来の還元主義的な生物医学モデルは、主に「体細胞-近位」の原因、つまり疾患の直接的な生物学的メカニズムに関心を持っていました。エンゲルのBPSモデルは、この近接的な視点を「心理的-近位」と「社会的-近位」に拡張し、より包括的な医療を目指しましたが、進化医学と進化精神医学は、さらに機能と系統発生の「究極」の分析をすべてのレベル(体細胞、心理、社会)に含めることで、BPSモデルを拡張します。
究極的因果関係の意義と具体例:
- なぜ特定の形質や脆弱性が存在するのかを理解する: 進化論的アプローチは、ある特定のDNA配列が疾患の主要な生物学的原因であると考える非進化論的な生物医学的見解とは異なり、その遺伝子が進化の歴史を通じて存続してきた選択圧を理解しようとします。例えば、うつ病に関連する遺伝子の存続につながった進化的な理由を探ります。
- 生物学的機能と機能不全の明確な区別: 究極的因果関係を考慮することで、生物学的機能を進化的な成功に関連付けて定義でき、健康と障害の概念に客観的な基盤を与えます。目の機能が見ることであるのは、視力の進化の歴史が生殖成功をもたらしたからであり、現代の文化的意見によって定義されるのではありません。
- 多重実現可能性の理解: 同じ適応機能が、より低いレベルの組織化で多重に実現される可能性(多重実現可能性)を理解するためには、究極的な視点が不可欠です。マラリア感染を防ぐための表現型は、異なる遺伝的背景を持つヘモグロビンの複数の分子配置を通じて達成されますが、純粋な還元主義ではこれらを異なる現象と誤解する可能性があります。進化論的な分析によって、これらの共有された究極の原因を認識できます。ラクターゼ持続性や薄い肌、高地への適応なども、異なる遺伝的要因を通じて独立して進化した多重実現可能性の例です。
- ミスマッチの理解: 現代社会の新しい環境と、主に狩猟採集民の生活で進化した人間の遺伝子、体、脳との間の「ミスマッチ」が健康に悪影響を与える可能性を理解するために、進化の歴史という究極的な視点が重要になります。
- 心理社会的な理解の深化: 狩猟採集民の社会構造と現代社会のミスマッチが、うつ病のリスクを高める可能性など、心理的および社会的な要因が健康にどのように影響するのかについての理解を深めます。例えば、地位の低下後の気分の落ち込みは、祖先環境では無益な争いを避ける適応であった可能性がありますが、現代社会では臨床的うつ病に発展する可能性があります。
- プラセボ効果と防御の理解: プラセボ反応や体の防御反応を進化的な観点から理解することで、心理社会的要因が生体プロセスに影響を与えるメカニズムについての洞察が得られます。進化は、傷害、感染、または中毒から防御する生物学的メカニズムを選択しており、これらの防御の調節は環境の評価によって影響を受けます。
このように、究極的因果関係を考慮することは、健康と疾病の複雑な現象をより深く理解するために不可欠であり、還元主義的な生物医学アプローチの限界を克服し、より包括的な医療モデルを構築するための鍵となります. 進化論的視点は、BPSモデルが認識する多層的な因果関係を正当化し強化するとともに、機能と系統発生の分析を統合することでモデルを拡張し、生物学の最も基本的な理論と健康モデルを結びつけることで、哲学的・科学的整合性を提供します。
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本稿では、提供された資料に基づき、機能と機能不全について議論します。
資料によると、「機能的」と「機能不全」という用語は、医学や精神医学において曖昧な定義で使用されており、「機能的」は正常、作動中、または良好な状態を指し、「機能不全」は異常、混乱した、または悪い状態を指すとされています。これらの定義は真に客観的な基準ではなく、規範によって定義されることが多いと指摘されています。資料は、生物学的機能は進化的に定義することができ、医学用語に大きな明確さを与えると主張しています。
進化論的な視点からの機能と機能不全の定義:
- 機能 (Function): 進化的な機能の概念は、遺伝子が伝播される原因となった表現型によってもたらされる生殖成功に関連しています。例えば、目の機能が見ることであるのは、視力の進化の歴史が生殖成功をもたらしたからであり、現代の文化的意見によって定義されるものではありません。重要なのは、現代の評価ではなく、進化の歴史です。
- 機能不全 (Dysfunction): したがって、機能不全とは、システムの進化した機能を実行できない状態を指します。機能不全の目は見ることができない目であると言えます。
資料は、ジェローム・ウェイクフィールドの**「有害な機能不全」モデル**を紹介しています。このモデルは、真の障害を以下の2つの構成要素を持つハイブリッド概念として定義しています:
- 機能不全の存在: システムが進化した機能を実行できないという生物学的基準に基づいています。
- 害: 機能不全が、一般的な社会文化的基準によって判断されるように、個人に害を及ぼすことです。
このモデルによると、例えば、祖先にとって適応的な目的を果たさず、生殖成功を減少させた形態のうつ病は真の障害となります。一方、通常の気分の落ち込みに近い抑うつ状態は、適応的な目的(例えば、社会的敗北後の危険な敵対的行動を防ぐこと)を果たした可能性がありますが、現代環境では有害と見なされても、機能不全ではないため、真の障害とは分類されません。
資料は、システムの機能状態を正しく特定することは、必要な介入の種類と状態の予後に重要な影響を与える可能性があると強調しています。特定の形態のうつ病が、認識可能な適応的進化の歴史を持つ最近の生活上の出来事に対する正常な反応である場合(例えば、地位の喪失後)、異なる心理社会的介入が推奨されるかもしれません。
また、資料は、真の生物学的機能不全がない場合でも、苦痛を伴うさまざまな状況で医学的および精神医学的介入が正当に提供されることがあると指摘しています。そのような状況は、障害ではなく「精神医学的関心の状態」とラベル付けされています。
進化論的な視点を機能と機能不全の概念に取り入れることで、医学用語の客観的な定義が可能になり、文化的な規範に左右されない判断が促されると資料は主張しています。これは、かつて同性愛が精神障害としてラベル付けされ、後にDSMから削除されたような、非科学的な慣行から精神医学を遠ざけることにも繋がります。
資料は、進化医学と進化精神医学が、機能と機能不全の概念を進化論に根拠づけることによって、生物・心理・社会(BPS)モデルを進歩させることができると結論付けています。これにより、健康と疾病の理解が深まり、より適切な治療と予防の努力が増進される可能性があります.
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