『狂気の歴史』(原題: Histoire de la folie à l’âge classique)は、ミシェル・フーコーが精神と社会、そして権力との関係性を再考するために執筆した大著です。本書は、単に医学的な精神障害の歴史を述べるのではなく、西洋における「狂気」という概念がどのように構築され、変遷してきたのかを、社会的・文化的・政治的背景と絡めながら読み解く試みとなっています。以下、主要な論点と構造について、詳しく解説します。
- 1. 狂気の社会的・文化的構築
- 2. 歴史の変遷と「大収容」
- 3. 方法論と分析の特徴
- 4. 狂気の歴史が現代に投げかける問い
- 結論
- 現代の精神疾患・精神障害については、多様化・複雑化しているので、はっきりと線引をすることは難しい場合があるでしょう。フーコーの思想を背景に考え直してみるといいかもしれません。
- 狂気は、未開の状態では、発見されることはありえません。狂気は、ある社会のなかにしか存在しないのです。つまり、狂気というのは、狂気(とされるもの)を孤立させるような感情のあり方、狂気(とされるもの)を排除し、つかまえさせるような反感(嫌悪)のかたちがなければ、存在しないのです。(『ミシェル・フーコー思考集成Ⅰ』筑摩書房より)
1. 狂気の社会的・文化的構築
a. 狂気の概念は固定的ではない
- 相対性と構築性:
フーコーは「狂気」を、普遍的かつ自然な現象として捉えるのではなく、時代や社会、文化の中で定められる「カテゴリー」であると主張します。つまり、何が「狂気」と見なされるかは、時代ごとの知識体系(エピステーメ)や権力関係によって大きく左右されると考えます。
b. 知と権力の関係性
- 知の制度化と狂気:
狂気に関する知識は、医学、哲学、法、宗教など様々な領域によって生み出され、制度的に管理されていきます。フーコーは、これを「知と権力の相互作用」として分析し、狂気が単なる個人の状態ではなく、社会秩序の一部として扱われてきた背景を浮かび上がらせます。
2. 歴史の変遷と「大収容」
a. 中世から近代への移行
- 中世の狂気像:
中世においては、狂気はしばしば寓意的に捉えられ、しばしば芸術作品や宗教的表現の中で扱われる対象でした。狂気は、特定の理論や科学的体系よりも、むしろ象徴的・詩的な側面が強調されることが多く、その意味も流動的でした。 - 近代の合理性と狂気の排除:
17世紀以降、ヨーロッパにおける理性の重視(ルネサンス、啓蒙時代の影響)の中で、狂気は「理性」と対極にあるものとして定義されるようになりました。これに伴い、狂気を持つ者たちは社会から隔離され、専用の施設(収容所・病院)に隔離される運動が進展します。これが「大収容」(Grand Confinement)と呼ばれる現象です。
b. 大収容とその影響
- 制度的抑圧:
近代における狂気は、「正常」との二項対立の中で位置づけられ、理性を持つ者たちによって管理される対象となりました。フーコーは、これを単なる医学的治療の失敗ではなく、近代社会の中で生み出された権力機構の一環として捉えています。 - 権力と監視:
近代の制度は、狂気の「症例」を通じて、個人がどのように社会規範や合理性に従属していくのか、そのメカニズムを反映しています。狂気への対応は、同時に「他者」としての個人の位置づけや、社会全体の秩序維持のための技術としても機能していたのです。
3. 方法論と分析の特徴
a. 考古学的方法(アーキオロジー)
- 知の層の解読:
フーコーは、歴史上の知の変遷を「アーキオロジー」の手法で解読し、時代ごとに変わる言説(ディスコース)の構造とその変容を明らかにしようと試みます。これにより、狂気が社会によってどのように再構成されてきたのかを浮かび上がらせます。
b. 言説と実践の関係
- 表象だけでなく実践:
単なる表象論に留まらず、狂気に対する処遇、例えば収容施設での生活や治療の実際の歴史に踏み込み、その裏に潜む権力技術や監視システムにも注目しています。これにより、言説と実践がいかにしてお互いに影響しあっているかが示されます。
4. 狂気の歴史が現代に投げかける問い
a. 現代の精神医療と社会の関係性
- 現代への問いかけ:
フーコーの分析は、現代の精神医療や社会制度に対しても批判的な視点を与えています。彼の示す視点からは、現代の「正常」と「異常」の区分が必ずしも普遍的な真理ではなく、歴史的・社会的に生成されたものである可能性が再考されるのです。
b. 知の変動と権力の再考
- 権力の意味の問い:
狂気に対する対応を通じて、フーコーは権力の本質、すなわち知を用いて個人の行動や存在をどのように制約・統制しているのかという問題を問いかけます。この視点は、個々の自由や多様性、そして社会全体のあり方を考え直す契機となりました。
結論
『狂気の歴史』は、狂気という現象が医学や単なる精神障害としてではなく、社会全体の知や権力の仕組みの中でいかに再構築されてきたかを浮き彫りにする重要な著作です。フーコーは、歴史の中で狂気がどのような役割を果たし、またどのように排除・管理されてきたかを通じて、現代社会が持つ権力構造や知の制度について深い示唆を与えており、これにより私たちは「正常」と「異常」という二項対立の背後にある歴史的・社会的背景を再評価する必要性を感じさせられます。
このように、フーコーの『狂気の歴史』は、単に精神障害の歴史を記述するのではなく、社会がどのようにして「狂気」を定義し、その枠組みを通じて個人を規律し、統制してきたかという広範な問題を問い直すための知的挑戦ともいえる作品です。
『狂気の歴史』(きょうきのれきし、フランス語: Histoire de la folie à l’âge classique)とは、西欧の歴史において狂気を扱った文化と法律、政治、哲学、思想、制度、芸術そして医学などにおける、狂気の意味の展開の考察であり―そして歴史の理念及び歴史学研究法の理念の批判である、ミシェル・フーコーの1961年の著作である。
社会から正気でない人々を排除する歴史における社会構造の影響の記述のために現象学の言語を彼は用いるけれども、『狂気の歴史』は現象学から幾らか(彼自身が断固として拒絶した彼へのラベルの)構造主義へのフーコーの哲学的進歩である[1]。
フランス語の教師をしていたスウェーデンのウプサラで第一稿が書かれたが(ウプサラ大学図書館の医学文庫が重要な役割を果たした)、スウェーデンにおける博士論文提出を拒否され、その後ワルシャワ、パリで完成された。『狂気の歴史』はソルボンヌ大学に博士論文として提出され(審査員はジョルジュ・カンギレム、ダニエル・ラガーシュ(英語版、フランス語版))、同時に『狂気と非理性、古典主義時代における狂気の歴史』というタイトルで1961年にプロン社(英語版、フランス語版)から出版された。出版された本書に対して、フェルナン・ブローデル、モーリス・ブランショは熱烈な賛辞を送っている。その後、1972年、初版の序文を削除した現在の版『古典主義時代における狂気の歴史』が、ガリマール社「歴史学叢書」から再刊された[2]。
理論
「狂気の歴史」というタイトルは、決して自明のものではない。なぜなら、フーコーの目的は、精神疾患を医学的カテゴリーにおいて説明することではなく、西欧において変容してきた狂気の内実を歴史的な次元においてとらえることにあったからである。それは、彼以前の人間科学が歴史的実践をなおざりにしてきたことへの批判でもあった[3]。フーコーは、その「歴史」を癩病患者が社会的にも物理的にも排除されていた中世まで遡る。そして、癩病は次第に姿を消していき、狂気がそれに代わって排除されるべきものとなったと彼は言う。狂った人間を舟に乗せて送り出したという15世紀の「阿呆船」は、文字通りその排除が一つの形をとったものであった。しかし、ルネサンス期には、狂気がきわめて豊饒なる現象として扱われるようになる。なぜなら、狂人とは、「人は神の理性(Reason of God)には近づきえない」という思想の体現だったからである。セルバンテスの『ドン・キホーテ』にみられるように、あらゆる人間は欲望と異物に弱いものだ。したがって、正常でない人間を神の理性に接近しすぎた存在と見なす考えは、中世社会で広く受け入れられていた。ボッシュやブリューゲルの絵画に表象されているものこそ「狂気」である。それは、死の不安であり、宇宙の混沌である。しかし、ルネサンス以降、この狂気は、それまでのイメージ(画像)から、エラスムスの「痴愚神礼賛」がその典型であるように言語のレベルに移される。そしてこのとき、狂気は、夢想的・宇宙的な強迫観念を離れ、理性との関係においてとらえられるようになった。あるいは、より人間的なものに限定されたとも言える[4]。
17世紀になってはじめて、フーコーが「大監禁時代」と表現したことで知られる潮流が起る。「理解不能な」人間たちが、システマティックに監禁され、収容されていった。18世紀には、狂気は、理性そのものを観察するかのように扱われるようになった。つまり、狂人は彼らを人間足らしめていたはずの何かを失い、動物じみた存在になってしまったと考えられ、そしてまた実際彼らは動物のように扱われた。19世紀にはいると、たとえばピネルやフロイトが登場することで、はじめて狂気が精神の不調であり、治療することのできるものと考えられるようになる。大規模な監禁が行われたのは、17世紀ではなく、この19世紀だと主張する歴史家もわずかに存在するほどだ[5] 。また、こういった事実は、フーコーの理論の土台を揺るがせる批判でもある。つまり、啓蒙時代と狂人の抑圧との歴史的つながりが、危うくなってしまうのだ。
しかし、学者としてのフーコーが示したのは、狂人のために特化した医療施設ではなく、社会的なアウトサイダーを監禁するための施設が造られたということである。そこには、狂人だけでなく、浮浪者、失業者、虚弱者、孤児なども含まれていた。そういった人間たちみなを監禁するための施設が、西欧社会における狂人と狂気の概念にどのような影響を与えたのか。フーコーは、そのことを問題にしていたのである。そこでは、「貧困」にあったはずの聖なる意味(貧者としてのキリスト)が失われ、「狂気」もまた想像力と切り離されて、公共性の問題に結びつけられたのだ[6]。
フーコーの考察の射程は、それに留まらない。彼が示してみせたのは、社会から締め出された人間をこのように「監禁」することが、ヨーロッパではごく一般的だったということである。フランスでも、ドイツやイギリスなど他の国々でも、それぞれ独自にこの監禁は行われ、その仕組みは発達していった。このことは、フーコーが西欧における狂気の歴史を一般化するためにフランスでの事象を取り上げたという批判が当たらないことを示している。ロイ・ポーター(英語版)のような史家のなかにも、そのような反論を退け、フーコーの著作のもつ革新的な本質を認めようとしなかった過去の批判を撤回する者もではじめている[7]。
ルネサンス期における狂気は、社会的秩序の限界を示し、より深いところにある真実を照らし出す力を持っていた、ともフーコーは主張している。それは啓蒙の光の前に沈黙させられていたものだ。近代における、フィリップ・ピネルやサミュエル・チューク(英語版)の手になる狂人の科学的、「人間学的」な扱いの登場についてもフーコーは考察している。彼の主張によれば、そういった近代的な扱い方は、それまでの手法と何らかわるところがない。チュークの国では、狂人とされた人間は、その狂気を手放さないあいだは、罰を与えられるところまで後退していた。同じように、ピネルの狂人の処置もまた嫌悪療法の延長であった。凍えるような水を浴びせたり、拘束衣を用いたりして刺激を与えるのである。フーコーから見れば、このような扱いは、罪と罰の定型が患者のうちで内面化されるまで繰り返される蛮行に等しかった。
意義
「狂気の歴史」は、精神医学への批判として広く読まれ、反精神医学の文脈のなかでしばしば引用された。フーコー自身は、特に回顧録のなかで「狂気のロマン主義」を批判している。「狂気のロマン主義」とは、狂気を近代医学が抑圧した「天才」がかたちをまとったものとしがちな見方のことである。また、フーコーの読者がときに結論づけるような精神疾患の実体について論じたフーコーというのも正しくない。そうではなく、フーコーが探ったのはいかにして「狂気」が知の対象として制度化されていくのか、また一方である種の権力が介入する先となるのかということであった。精神病院という矯正施設にこそ[8]、この暗黙裡に築かれた知と権力の共犯関係がみてとれるのである。さらにまたフーコーは「狂気の歴史」とは「心理学の出現を可能にしたものの歴史」だと述べている。それは狂気が「人間の顔」を持ち、人間そのものを真理ととらえ科学的対象とするにいたった歴史なのだ[9]。
受容
A Rake’s Progress no.viii: the inmates at Beedlam Asylum, by William Hogarth.
批判的な分厚い本のFoucault (1985) の中で、哲学者のジョゼ・ギレーム・メルキュー(英語: José Guilherme Merquior)は、知の営みについての歴史としての『狂気の歴史』の価値は―社会的な力がどのように非正常の意味を決定するのか、そして人の心理的異常についての社会の反応というフーコーの定立を侵す事実の誤りと解釈の誤りによって減少されたことを言った。彼のデータの恣意的な選択は、フーコーの言う社会が狂人を賢人として認めた社会―制度的な慣習が罪よりも狂気の方が悪いと考えるキリスト教ヨーロッパ人の文化によって許された社会―であった歴史的な時代の中で、矛盾するもの、刑務所に入らないことを妨げる歴史的証拠、及び非正常の人々に対する肉体的残忍性を無視した。それでもなお、メルキュールは、ノーマン・O・ブラウン(英語: Norman O. Brown)のLife Against Death(英語版)(1959)のような、フーコーの『狂気の歴史』はディオニソス的な(英語版)原我(英語版)の解放のひとつの召還であり;そして哲学者ジル・ドゥルーズと精神分析医のフェリックス・ガタリのアンチ・オイディプス(1972)についての着想を与えたことを言った[10]。
1994年のエッセーのPhänomenologie des Krankengeistes(‘Phenomenology of the Sick Spirit’)の中で、哲学者ガリー・ガッティングはこう述べた[11]。
フーコーのHistoire de la folie[1961]にたいする職業的な歴史家の反応は、一読したところ、分極しているとは言えなくとも、相反する感情をもつように見受けられる、古典古代の私たちの理解のための中心的な重要性となるであろうひとつの「美しい本」とそれを特徴付ける、Annales d’ Histoire Economique et Sociale(英語版)でのロバート・マンドロー(英語: Robert Mandrou)の初期の査読に始まる、それの将来性のある役割の承認が多くある。20年後、ミハエル・マクドナルド(英: Michael MacDonald)はマンドローの予言を確証した:「初期の近代ヨーロッパにおける非正常の歴史について書こうとする者はミッシェル・フーコーの有名な本、『狂気の歴史』の広がった覚醒の中で旅をしなくてはならない。
もっと遅くの裏づけは、「経験主義的な内容とそれらの強力な理論的視野の両方をもって、ミッシェル・フーコーのその仕事は史学史において特別で中心的な位置を占める、」と言うジャン・ゴールドスタイン(英語: Jan Goldstein)そして「時間は『狂気の歴史』をこれまでに書かれた狂気の歴史において最も洞察力のある仕事として証明した」というロイ・ポーター(英語: Roy Porter)を含む。しかしながら、フーコーは「文化の新しい歴史」の先駆者になったにもかかわらず、多くの批判がある[11]。
ケネス・ルイス(Kenneth Lewes)はPsychoanalysis and Male Homosexuality(1995)の中で、『狂気の歴史』は「1960年代の価値観の全般の大転換」の一部として起きたものである「精神医療と精神分析の制度の批判」の一例であることを言った。『狂気の歴史』でフーコーが提示した歴史のことも同様である、しかしトーマス・スザッツ(英語: Thomas Szasz)のThe Myth of Mental Illness(英語版)よりも意味深い[12]。
反精神医学運動は、伝統的な形態に取って代わる一連のアプローチと処置を提示した。その根本的提案は、既存のアサイラムと精神病棟を閉鎖して、地域医療(community medicine)を選好することであった。この運動にはアメリカのトーマス・サス(T.Szasz, 1971)、フランスのミシェル・フーコー(M.Foucault, 1961)、イギリスのロナルド・D・レイン(R.D.Laing, 1959)などが参画している。アサイラムが全制的施設・全面的収容施設(totalinstitution)であるとするアーヴィング・ゴッフマン(E.Goffman, 1961b)の批判は、社会学の領域で影響力をもった。
1960年代以降は精神病棟からの退出が進み、外来診療の利用が増大した。そのため、現代では精神医学に対する批判はそれほど強いものではない。この脱施設化(de-institutionalization)あるいは脱監禁化(decarceration)が可能となったのは、一つには精神科の薬(向精神薬)が改良されたからである。しかし、精神医学への批判者は、この政策がもたらされたのは入院加療費の増大による社会保障上の理由である、と主張する。
反精神医学は、精神医学による治療の有害性を指摘する[1]。精神療法や向精神薬の服用は、患者の健康問題だけでなく、社会的・政治的問題もはらんでおり、何人かは精神病の精神医学的概念そのものを否定する[2]。なぜなら、精神医学は医者と患者の間に不等な権力関係を生み、主観的な診断に頼っているため、非自発入院など圧制のための道具となる恐れがあるからである。
始まりの非中心的な運動は20年間続いた[3][1]。1960年代、抑圧的で管理的な精神医学的実践の最も基礎である精神分析と精神医学に多くの問題が存在した[4]。トーマス・スザッツ(英: Thomas Szasz)、ジョルジョ・アントヌッチ(英: Giorgio Antonucci)、ロナルド・D・レイン、フランコ・バザリア、セオドア・リッツ、シルバーノ・アリエッティ(英: Silvano Arieti)、デヴィッド・クーパーを含む精神医たちはこの議論に巻き込まれた。他、L・ロン・ハバード、ミシェル・フーコー、ジル・ドゥルーズ、フェリックス・ガタリ、アーヴィング・ゴッフマンも含まれる。クーパーは1971年に反精神医学という用語を造語した[3][1][2]。トーマス・スザッツは『The Myth of Mental Illness』(1961)という本の中で神話としての精神病の定義を導入した。ジョルジョ・アントヌッチは『I pregiudizi e la conoscenza critica alla psichiatria』(1986)という本の中で偏見としての精神医学の定義を導入した。
1970年代以来、医薬品(特にSSRIおよびSNRI)ならびに心理療法が広く普及し、効果的になるにつれて反精神医学運動は衰退したが、処理を与える者その受容者との間の関係の見地から、精神医学と心理学の領域の内外での思考に運動は影響を持ち続けている[1][2]。
反精神医学による批判は以下のとおり。
精神医学は社会的逸脱にある種の精神病というラベルを付与する社会統制(social control)の一形態である。
診断上のカテゴリーが表現しているのは、中立的な科学ではなく支配的な一群の価値であり、こうした診断上のラベルが使用されることによって、精神的に病める人々に烙印が押される(stigmatize)。
狂気がアサイラム(英: asylum)の必要性を産み出すのではなく、アサイラムが狂人の必要性を産み出す。
異常とみなされた人々の強制入院は基本的人権の侵害である。
精神医学が利用する精神外科(ロボトミー手術)、電気けいれん療法 (ECT)のような治療上の処置は、人間の尊厳を傷つけるものであり、その効果も不確かなものである。
中世において、「狂気」は本来、一種の「知」であるととらえられていた。ところが、古典主義時代(17世紀半ばから19世紀初頭まで)において理性が優位となり、狂気は監禁されることとなる。はたして、狂気とは何を基準に決められているのだろうか。
狂気は歴史の中でつくられた!
私たちは、「狂気」と「正常」という基準が大昔から決まっていて、それを正しく線引きしていると考えています。
しかし、フーコーは、狂気というものは、理性との関係で、歴史的に形作られていったと考えました。
狂気が先にあるのではなく、社会が狂気を規定し、意味づけしてきたという視点から歴史を「考古学的」に考察したのです(『知の考古学』)。
フーコーによると、病気や病人の扱い方にそのまま社会のあり方が反映されます。西欧社会において中世までは、狂気の人は神から使わされた者として、常人と区別なしに共存していました。
この時期は、狂気が「神懸かり」のような状態であり、神が人間の意識を訪れたしるしであると考えられました。
この狂気は、現代では精神病と同義のようにとらえられていますが、古代ギリシアの哲学者プラトンは、狂気とは「神がかり」の様な状態であり、理性で認識できないものを認識する一種の能力のようにとらえていたとされます。このように、狂気には人を魅了する要素があったというわけです。
けれども、近代の社会では理性的な人々とそうではない人々(狂気を含めた人々)を分離・区別し、監禁していくという動きが起こりました。
こうして、狂気が精神病という「病気」に移行していくのでした。1656年に絶対王政によってパリに一般施療院の設立が布告され、ここに狂気の人が閉じこめられるようになります。
これは医療施設というよりは牢獄と変わりなかったとされます(大幽閉時代)。
狂気は非理性の側となり、もはや狂気と理性の接点はなくなりました。
どこで正常を線引きする?
その後、18世紀末からは、狂気の人の扱いは保護施設という制度にまかされました。こうして、狂気は精神医学の学説に支配されることになります。
ここでは、近代の理性主義が力をもつこととなり、理性によって、狂気と正常の線引きがはっきりとなされてしまったのです。
フーコーは、このように狂気が歴史的に成立していった過程を分析して、新しい視点を展開しました。
従来の考え方では、近代までは医学がまだ進んでいなかったので、狂気と精神病との区別が診断できなかったとされます。
つまり、すでに精神病患者は存在したのですが、精神医学が未発達だったから、それが病気と判定できなかったのです。
けれども、フーコーの視点によれば、精神医学が科学となったから、狂気が疾患として認識されたのではなく、むしろ、狂気が精神病に位置づけられたことから、精神医学と心理学が成立したというのです。
同じく、同性愛、放蕩などの性的な自由行動をする人たちは、家族や社会から狂気とみなされて監禁されるようになりました。
また、健全な普通の人々も、内面的には非理性的なものが潜んでいますが、それら非理性的なものを、病気や犯罪への芽生えとして、排除していこうとする動きが生まれました。
これが、犯罪心理学や「禁治産」の制度です。
フーコーは現代の精神病理学や、狂気に関する科学的で医学的な知識も、この状態から自由になっていないと考えます。
鎖を解かれて自由になった患者が正気を取り戻すのは、理性を取り戻したわけではありません。
下士官や召使など社会で組み立てられたシステムに当てはまる形で正気を取り戻しているだけだとされます。
社会的な型にはまった行動ができれば正常で、それからはずれれば狂気と判断されるのです。
現代の精神疾患・精神障害については、多様化・複雑化しているので、はっきりと線引をすることは難しい場合があるでしょう。フーコーの思想を背景に考え直してみるといいかもしれません。
狂気の軌跡
構造論的歴史主義の視座
森山 公夫
この問いの後景 笠原 嘉
これは文字通りの労作である。精神科医の手になる最近の注目するに足る仕事の一つであろう。何よりも目次がそのことを示している。第一部思想・芸術、第二部経済、第三部政治、第四部法、第五部自然科学と数学、第六部精神医療といった具合である。取り扱う対象が精神現象だからであろう。精神科医は一般に、医学の枠組みをこえた論議を展開したがる傾向をもつが、私の知る限り人文諸科学へとこれだけ目をくばった書物はわが国になかったのではないか。しかも、多くの文献が丁寧に引用されている。著者の学識に敬意を表したい。明敏な読者はすでにお察しのように、表題はフーコーの「狂気の歴史」をふんでいる。「……狂気のありのままの野性状態は、けっしてそれ自体としては復原されえないので、狂気を捕えている歴史の総体――さまざまな概念、さまざまな制度、法制面と治安面の処置、学問上のさまざまな見解――の構造論的な研究をおこなう」必要があるという指摘をふまえている。おそらく著者のオリジナルな見解なのであろう。「精神医療は近代に入ってからほぼ百年を単位として大きな変動を示しており、その百年も二〇年単位のより小さな変動の集積として現われる」。そして著者は全体を二つに分ち、第一篇「ナチュラリズムの時代と現代の始まり(一八六九~一八八六)」と第二篇「新理想主義の時代(ネオ・イデアリズム)と現代の祖型確立(一八八六~一九〇五)」とし、それぞれの二〇年における思想・芸術・経済・政治・法・精神医療のからみを論証する。最後になったが、著者は丁度二〇年前の反乱の季節に「目くるめく時をもった」一人である。この著名な反精神医学のリーダーが、あの反乱は何であったかと問うところがら本書は生れた。前景は精神医療への問いだが、後景は生への問い、生の根元としての歴史への問いである、という。このあたりに本書の魅力の見逃しがたい源泉を見出される読者も少なくないはずである。
はじめに
第一篇 ナチュラリズムの時代と現代の始まり
第一部 思想・芸術における革新
第一章 思想
第一節 ニーチェ
デュオニソス的生と神の死/実証(験)主義とニヒリズム/ニヒリズムの超克と永劫回帰
第二節 マッハ
要素(感覚)一元論=根源現象論と函数的・機能的連関/思惟経済論=適応と「模写」/時空性の変化と力学的世界観の崩壊
第三節 パースとプラグマティズム
第四節 まとめ
第二章 絵画
第一節 一八五〇―六〇年代とリアリズムの展開
リアリズムの確立/リアリズムの転調
第二節 印象主義革命の進行
印象主義の確立/印象主義の転調/印象主義革命の意義
第三章 文学
第一節 一八五〇―六〇年代の「リアリズム」
一八五〇年代とリアリズム文学の確立/一八六〇年代とリアリズム文学の転調/現代詩の始祖ボードレール
第二節 自然主義
自然主義文学の確立/自然主義文学の転調―「デカダンス」の時代/現代詩の出発
第二部 経済――現代経済への離陸
第一章 歴史的発展と「景気循環」
第二章 流通革命と重工業の興隆
第一節 産業資本主義の確立と展開
第二節 未曾有の好況
第三節 「流通革命」と商品化の進展
運輸・通信革命/商業革命/金融革命
第四節 重工業の興隆
第五節 国内統一市場の完成と農業の繁栄
第三章 資本主義の構造変化i株式会社制度と重化学工業の確立
第一節 「大変革」の開始と「大不況」の到来
第二節 重化学工業の基軸化
第三節 株式会社の普遍化
第四節 世界統一市場の成立と組みしかれる農業
第五節 「限界革命」の登場と「近代経済学」の誕生
第三部 政治
第一章 「社会」と政治
第一節 「社会」の構造
第二節 近代の政治構造
第二章 名望家支配―立憲君主体制の崩壊と「現実政治」―国民国家主義の登場
第一節 国内的諸階級・階層の分立と国際的ナショナリズムの矛盾
一八四八年革命の構造/一八四八年革命後の社会変動―「諸階級・階層の分立と大衆社会の胎動」/一八四八年革命後の国際世界―「国民国家主義」の角逐
第二節 自由―国家主義政策と現実政治
第三節 中央集権化の進展と大衆民主主義への胎動
「国家の独立」と監督行政の登場/大衆民主主義への胎動/国益外交と軍隊の現代化
第三章 階級社会の顕現と国民国家の成立
第一節 階級対立と国家間抗争の顕現
パリ・コミューンの乱/階級社会の成立と「集団」の登場/「列強」の登場と「力による均衡」
第二節 国家―団体主義(コレクティヴィズム)政策の登場
第三節 屹立する国家―「大衆民主主義」・「行政国家」・「兵営国家」の確立
男子普通選挙制の成立と大衆統合政党の登場/「行政国家」の成立―「強制」と「中立」の原理の成立/徴兵制の確立と軍国主義の成立
第四部 法i「市民法」から「社会法」へ
はじめに
第一章 市民法の解体と社会法の胎動
第一節 民事法と「取引の安全」の法理の確立
第二節 刑事法における「累進制度」の導入
第二章 社会法の登場
第一節 民事法とコレクティヴィズム
第二節 刑事法における改善主義・社会防衛主義の登場
第三節 行政法の成立と憲法の変質
第五部 自然科学と数学――古典力学的世界観からの離陸
はじめに
第一章 一八三〇・四〇年代におげる諸科学の動向
第一節 一八三〇年代と「近接作用論」=リアリズムの登場
第二節 一八四〇年代の革新
第二章 リアリズム科学の開花と現代科学の開幕
第一節 物理学とエネルギー概念の成立
第二節 化学における分子構造論の成立
第三節 生物学の開花と生気論の放逐
第四節 数学の現代的変貌
第三章 実験主義の進撃と「場」の理論の成立
第一節 場の理論の確立と熱分子運動論
第二節 周期律の発見と立体化学の成立
第三節 微生物学の確立と進化論の進撃
第四節 集合論革命と幾何学の転換
実数論の成立から集合論へ/幾何学の再編と空間概念の変貌/確率・統計学の興隆と蓋然的世界の出現
第六部 精神医療
はじめに
第一章 一八三〇・四〇年代の精神医療―転換期としての一八四〇年代
第一節 欧米諸国における精神衛生法の成立とマクノートン・ルール
第二節 無拘束運動・州立保護院設立運動・可治性への熱狂
コノリーの無拘束運動/精神病保護院建築様式の確立―「保護」から「治療」へ/保護院設立運動の展開―ドロシア・ディックスの活躍/可治性への熱狂
第三節 精神医学とリアリズムの導入
第二章 一八五〇・六〇年代の精神医療
第一節 保護院病床数の増加
第二節 「無拘束」の浸透度と保護院の肥大化
第三節 精神医学の変容
第三章 一八六七―八六年の精神医療――精神医療・医学の全面的旋回
第一節 貧困狂人の州立保護院への集中
第二節 「無拘束」の浸透・変質と州立像護院の巨大化
第三節 精神医学の神経生理学的旋回と分類の根本的転換・可治熱の消腿
精神医学の神経生理学的方向への旋回/精神医学の対象の拡大と分類の抜本的変化/可治性への熱狂の衰退/精神医学の社会的認知―病院精神医学から大学精神医学へ
フーコーの『狂気の歴史』心理学の誕生
知の考古学者
私たちにとって当たり前すぎて省みられることすらないものの隠れた前提や、その生成の歴史を明らかにすることが、フーコーの目的です。
考古学者のような手際で、隠れたものを推理し、今は見えない過去を発掘していきます。
ニーチェが道徳成立の過程をその系譜学によって描き出したように、フーコーは「人間、心、同一性、真理、主体、自由、身体、性、等々」普遍的で当然とされるものが、実はある特定の条件化において生じた特殊なものでしかないことを教えてくれます。
狂気の歴史~古代からルネサンス
古代ギリシャにおいて狂気は理性を超えた神がかり的なものであり、矮小な人間に対しより根源的なものを啓示する重要なものと見られていました。
その価値観は長い歴史の間維持され、14世紀から16世紀ルネサンス期においても、狂人(狂気)は社会的に受け容れられ、ある程度自由に生き、語ることが許されていました。
むしろ知識人(理性)は狂気との対話のなかに真理の原石を見出し、それを文化へと磨き上げました。
シェークスピアの『リア王』はその典型で、そこにおいて描かれる狂気は精神の病ではなく、理性よりもさらに高い理性の証として描かれています。
狂気の歴史~17世紀
17世紀になると、勤勉な労働をよしとする経済活動を主体とした社会観が台頭してきます。
それに伴い、救貧院や感化院の名の下にあらゆる雑多な貧困者(乞食、放蕩者、老人、身体障碍者、狂人、等々)をひとつの場所に閉じ込めることになります。
マックス=ウェーバーが著したように、宗教改革によって労働というものの価値が根本的に変質します。
労働とは信仰の証しであり、それが救済の道になります。
貧しさを神聖なものととらえるそれまでの感性(清貧)は、ここにおいては道徳的な堕落と観られるようになります。
貧困とは社会に適応できない不適格者の証しであり、怠惰で劣等な道徳の欠如した人間とされ、彼らには真面目な労働者(社会人)となるべく矯正と強制労働が与えられます。
ここにおいて西欧社会は二つの空間「理性的で社会的な正常な人間」と「非理性的で反社会的な異常な人間」に隔てられることになります。
監禁の対象は徐々に広がり、無信仰者、同性愛者、性病患者、自殺志願者、錬金術師など、多くの人々が後者の人間として社会から排除され、隔離されることになります。
この時代において狂気は、雑多な非理性の集まりの中のひとつの部分でしかありません。
狂気の歴史~18世紀から現代
18世紀にはそうした恣意的な監禁が非難されはじめます。
社会的な労働力不足の問題もあいまって、非理性の空間を覆っていた檻の中から彼らは徐々に解放されていきます。
この解放に伴い、雑多な非理性的な人間の集まりは細かく分類され、各々がその分類に従ったしかるべき社会的場所へ移動することになります(例えば病人は医療の場へ)。
しかし、狂人だけは非理性の空間に最後まで残され、危険な者として非人間的な扱いで監禁され続けます。
18世紀末から19世紀初頭にかけてイギリスの宗教家サミュエル=テュークとフランスの医師フィリップ=ピネルによって、ようやく狂人の解放が試みられます。
彼らは狂人の置かれた劣悪な環境が問題であるとし、博愛と治療の精神において、狂人は田舎の田園での共同生活や清潔で解放的な保護施設へと生活の場を移されます。
しかし、これは事実上解放というよりも、より理性的で厳格な「非理性」に対する拘束と管理の技術となります。
彼らが作った狂人専用の施設とは、社会的な道徳規範に従うことを強制された完全な拘束の場であり、狂人たちは終日監視の下に日々の細かい生活規則を遵守することを余儀なくされます。
監禁施設のように鎖で身体を縛るよりも、精神を縛った方が合理的なのです。
治癒とは理性に対しての服従であり、道徳主体となることです。
ここにおいて、狂人(狂気)に対する理性の特権的な地位が確保され、狂気を観察対象とする科学も成立します。
心理学の誕生
この理性と狂気の分断と、さらに狂気を背景化し主体としての地位を奪う従属化によって、社会は狂気を生きながらに抹殺することに成功します。
はじめから狂人(狂気)などいなかったのです。
狂人とは積極的な存在ではなく、単なる理性の欠如した欠陥品でしかないのです。
しかし、裏を返せば、これによって人々は自分が正気であることを、つねに自分は狂人でないという姿見によってしか確認しえない、ある種の疎外状態に陥ります。
人はたえず自らの内の狂気の存在に疑いの目を光らせることになり、この正気と狂気の二重性の反復運動が、必然的に「心の科学」なるものを生み出すことになります。
私たちが心理学(精神医学含む広義の)的な意味でいう「心」というものは、以上のような監禁の歴史の中で生じたいち時代の産物でしかなく、私たちが思うほど普遍的なものではありません。
心理学の誕生によって狂気は疾患と認識されたのではなく、狂気を道徳のサディズムによって治癒すべきものとするこの歴史過程の帰結が、心理学誕生のための成立条件を与えたということです。
狂気は、未開の状態では、発見されることはありえません。狂気は、ある社会のなかにしか存在しないのです。つまり、狂気というのは、狂気(とされるもの)を孤立させるような感情のあり方、狂気(とされるもの)を排除し、つかまえさせるような反感(嫌悪)のかたちがなければ、存在しないのです。(『ミシェル・フーコー思考集成Ⅰ』筑摩書房より)
『監獄の誕生―監視と処罰』: Surveiller et punir, Naissance de la prison)
ミシェル・フーコーによる権力論。
1926年に医者の家に誕生したフーコーは、1946年に高等師範学校に入学し、哲学や心理学を学んで、リール大学で心理学講義の助手となる。博士号の学位論文では、『狂気の歴史』、『臨床医学の誕生』、『言葉と物』、『知の考古学』を発表し、これらが評価されて1970年にコレージュ・ド・フランスの教授となる。本書は、その後の1975年に発表された。この著作では、ニーチェに見られた系譜学アプローチが用いられ、刑罰の近代化の過程が分析されている。本書は、第1部「身体刑」、第2部「処罰」、第3部「規律・訓練」、第4章「監獄」から成り立っている。
フーコーによれば、ヨーロッパにおける刑罰は、人道的とされる観点から身体に対する刑罰から精神に対する刑罰へと移行した。フーコーは、刑罰が進歩したというよりも、その様式が変化し、新しい権力作用が出現したと主張した。近代の刑罰においては、専門家の科学的知見が重要な役割を果たしており、犯罪者の精神鑑定を通じて人間を評価する。このような人間を対象にする学問は、人間諸科学と呼ばれ、これはある規範的観点を分析に導入することで、人間の狂気を規定する。つまり、知識によって刑罰における権力を根拠付け、また相補的な関係を持ちながら共に作用する。これが、フーコー独自の権力概念である「権力/知 (Pouvoir-savoir) 」である。
また、この権力をさらに解剖学的な見地から観察すれば、監獄における権力の技術には、規律という形態が認められる。規律は、恒常的に従順な身体を生み出す方法となる。18世紀後半の兵士たちは、基本教練を通じて、動作や姿勢を矯正され、また命令に服従する従順な身体を作り上げることが可能となった。つまり、規律は、身体の精密な管理と恒常的な拘束を可能とする権力の技術となる。
この著作では、イギリスの思想家ジェレミー・ベンサムのパノプティコンという監獄の構想が紹介されている。この建築物は円形になっており、中心部に監視塔が配置され、そこを中心に円状に独房が配置されている。そして、監獄に対して光が入るために、囚人からは、監視員が見えない。その一方で、監視員は囚人を観察できる仕組みになっている。このような構造物において、監視員は、囚人に対して一方的な権力作用を効率的に働きかけられる。囚人は、常に監視されていることを強く意識するために、規律化され従順な身体を形成する。