まえがき
アクセプタンス&コミットメント・セラピー(ACT)とその背後にある人間認知の理論は、およそ30年前に始まって以来、認知行動療法、行動分析、そしてエビデンスに基づく治療の分野において、徐々に重要な位置を占めるようになってきました。
本書では、ACTとは何か、そしてどこから来たのかを説明します。その背後にある哲学や理論を論じ、精神病理、人間的繁栄、介入のモデルを提示し、その方法の一部を示し、関連するデータを特徴づけます。全体を通して治療セッションの記録を用いています。それらのいくつかは編集された実際のセッション記録であり、一部は構成されたものです。
ACTは1980年ごろ、スティーブン・ヘイズによって初めて概略が形成され、後に彼の学生や同僚、特にカーク・ストローサールやケリー・ウィルソン(1999年のACTの原著の共著者)によってより体系的に発展しました。本書の共著者であるジェイソン・リリスも元はヘイズの学生です。
この本は読者との対話という形をとっています。読者を「あなた」、著者たち(時には同業の同僚も含む)を「私たち」として語りかけます。読者に未来を想像するよう促し、それに関わるかどうかを考えていただきたいのです。もしうまくいけば、この短い一冊を読み終えるころには、ACTをより深く学ぶ価値があるかどうかが判断できるでしょう。
巻末には用語集もあり、ここでの議論には直接必要でなくとも、他の資料を読む際に役立つことがあります。
我々の目標は、ACTを理解し、それがどのようにクライアントの幸福や成長に貢献できるかを考える一助となるような対話を提供することです。本書では、ACTの知的基盤(頭)、技法的側面(手)だけでなく、その核心(心)にも触れていきます。
ACTは、人間すべてが直面する最も深い問題についてのアプローチです。ようこそ。席におかけください。心理学について話しましょう。人生について話しましょう。人間であることがなぜこんなに難しいのか、そしてそれを少しでも楽にするにはどうすればよいのかを語り合いましょう。
導入:なぜ人間であることはこれほど難しいのか?
この問いは、心理療法の分野、ひいては心理学全体の中心にあります。他の生物と比べて、私たちは物質的には驚異的な成功を収めています。しかし、物質的に恵まれている中にあっても、心理的苦悩の割合は非常に高いのが現実です。人間が「人間として」繁栄するのは簡単なことではありません。
私たちはしばしば「人間は特別だ」と考えがちです。たとえば、「宇宙に他の知的生命体は存在するか?」という問いは、実は「私たちはこれほどまでに特別なのか?」という自己評価を含んでいます。
確かに人間は特異な存在です。私たちは想像力に富み、美しい芸術を生み出し、数理体系を構築し、星々を目指す存在です。皮膚の外の世界では、私たちは問題解決の達人です。
にもかかわらず、私たちは苦しみます。この「苦しみ」は、人間の特異性ゆえに、いっそう際立つのです。外界にあらゆる恵みがあっても、内面の空虚さ、孤独、不安、悲しみは消えません。中には、依存や強迫、妄想に人生を支配される人もいれば、自殺念慮に悩まされる人もいます。最も発展した国々でさえ、精神的苦悩はありふれたものです。
私たちは、精神医学的な「症候群(シンドローム)」が苦しみの原因だと考えがちですが、それは「なぜ」の問いへの答えとは言えません。症候群とは、目に見える兆候(sign)や、訴えられる症状(symptom)の集合に名前をつけたものであり、苦しみそのものの別名に過ぎないからです。名付けただけで、それが他の現象を引き起こすような「原因」であるかのように錯覚することを「実体化(reification)」と呼びます。
真の「病気」と呼べるのは、原因(病因)、経過、治療反応が明らかになったものだけです。たとえば梅毒による精神障害である「進行麻痺」は、明確な感染因子(スピロヘータ)が見つかり、治療法も確立されました。しかし、現代の主だった精神疾患――うつ病、統合失調症、アルコール依存症、強迫性障害など――は、こうした「病気」としての条件を満たしていません。
人間の苦しみの原因を探るには、症候群の分類ではなく、基本的な心的プロセスを研究する必要があります。そこで登場するのがACTです。
ACTとは何か?
ACT(アクセプタンス&コミットメント・セラピー)は、「心理的柔軟性(psychological flexibility)」を生み出すために、「受容(acceptance)」や「マインドフルネス」と、「価値に基づいた行動(committed action)」を組み合わせた、文脈的行動理論に基づくアプローチです。
心理的柔軟性とは、思考・感情・感覚・記憶を、その内容に抗うことなく、そのまま経験しつつ、状況に応じて価値に従った行動を選択できる能力です。
6つの中核プロセスがあります:
- 受容(acceptance)
- 認知的脱フュージョン(cognitive defusion)
- 今この瞬間への柔軟な注意(present moment awareness)
- 観察する自己(self-as-context)
- 選択された価値(values)
- コミットされた行動(committed action)
ACTは、「関係フレーム理論(RFT)」と呼ばれる行動理論に基づいており、「文脈的行動科学(CBS)」の一部でもあります。CBSは、人間の苦悩の複雑性に対応しうる、首尾一貫した心理学を目指しています。
ACTは実験的認知心理学とも接続しつつ、体験重視のアプローチであり、その見た目はしばしばゲシュタルト療法、実存療法、人間性心理学的、または精神分析的にさえ映ることがあります。
ACTの特徴は、問題解決志向の思考様式そのものに介入する点です。「正しい解決法」を探し求めるのではなく、「今この瞬間」に価値に沿って生きることを促します。
症例紹介:ジョージのケース
ジョージ(28歳、ヒスパニック系、機械技師)は10年来のパニック障害に苦しんでいました。アルコール依存の父親と住み、職にも就けず、特許のロイヤリティで生計を立てていました。大学での進路選択も父親に決められ、本来は教師を目指していた彼は、エンジニアとしての道に不満を抱いていました。
彼はパニックへの不安から自宅から15km以上離れた場所に5年間出ておらず、常に安定剤を携帯し、対人関係でも嘘をついていました。
ACTでの治療は、創造的無力感、受容、脱フュージョン、価値の明確化、曝露(例:高速道路、森林)などを組み合わせたセッション構成でした。治療の終盤には、以下のような変化が見られました:
- 父の家を出て一人暮らしを始める
- 高校で臨時の工学講師として就職
- 薬を手放す
- 恋人との交際
- パニック発作が起きても、それを「挑戦」と捉え、回避しなくなった
彼の印象的な言葉:
「不安はただの不安。『また来たか、いいだろう、つきあってやる』と思えるようになった」
ACT(アクセプタンス&コミットメント・セラピー)における「創造的無力感(creative hopelessness)」は、治療初期の重要なステップの一つであり、クライアントの「これまでの努力が機能していない」ことに気づかせるプロセスです。このプロセスは、単なる絶望ではなく、新たな選択の可能性を開くための“創造的”な絶望を意味します。
🔍 創造的無力感とは何か?
❖ 定義
「創造的無力感」は、「自分の問題を解決するためにこれまでしてきた努力が、実は問題を強化していたのではないか?」という問いかけから始まります。
これは、いわば「心の努力疲れ」への気づきであり、以下のような構造を持っています:
- 問題解決に必死になる(たとえば不安を消そうとする)
- それが一時的にはうまくいくこともある
- しかし長期的にはその努力が問題を維持・悪化させている
- にもかかわらず、人は**「解決策」から抜け出せない**
そのような「悪循環」に対して、「今までの方法は役に立ったか? どんな代償があったか?」と問い直すことで、「手放す」余地を生み出すのです。
🧠 なぜ「創造的」なのか?
「無力感」と聞くと、希望を失ったような印象を受けますが、ACTではそこに「創造的」という語が加わっています。
それは、「これまでの戦いをやめた時にこそ、新しい道が開ける」という希望が含まれているからです。
❝ 「どうしてもコントロールしたい」という意志を手放した時、本当の自由が生まれる ❞
─ ACTの基本哲学より
この無力感は、単なる挫折ではなく、「これまでとは違う価値にもとづく生き方」へと導く転機なのです。
💬 実際のセッションでの展開(ジョージの例)
ACTの事例として登場するジョージ(パニック障害の男性)も、初期のセッションでこの「創造的無力感」に直面しました。
▷ 彼の問題対処行動:
- 常に安定剤を持ち歩く
- 外出を避ける
- 友人には嘘をついて、生活を偽装
- 父親の家から出ない
→ これらはすべて、「不安を避ける」ための行動ですが、不安を中心に人生を設計していることを意味します。
▷ 創造的無力感のセッションでの問いかけ:
- 「それは役に立ちましたか?」
- 「その代償はなんでしたか?」
- 「あなたの人生は広がったか? それとも狭まったか?」
こうした問いによって、ジョージは初めて「不安を避ける努力」が、むしろ彼の人生を制限し、孤立させていたことに気づきます。
🛠️ 臨床的な意義と介入ポイント
🔑 治療者の意図:
- クライアントが「戦いのゲームを手放す」準備ができるようにする
- 自分の行動が「どんな目的のため」だったのかを見つめ直す
- 「コントロール不能なもの」に対して受容を選ぶ空間をつくる
💡 よく使われる比喩や技法:
- 泥の中でもがく犬の比喩: 泥をかいても沈むだけ。もがきをやめれば浮かぶ。
- トラップドア比喩: どの出口を選んでもまた問題に戻ってしまう迷路。
- 問題解決マシンの暴走: 頭は万能ではなく、時に問題を悪化させる。
🌱 その後につながるもの
創造的無力感は、単なる終点ではありません。むしろ、価値の再発見と行動変容のスタート地点となります。
無力さを認めた瞬間に、人は「価値に基づいて生きる」ことを選べるようになる。
このプロセスを経て、人は「不安があるからやらない」から「不安があってもやる」へと進むのです。
✅ まとめ:創造的無力感の臨床的意義
項目 | 内容 |
---|---|
目的 | コントロールと回避のパターンを見つめ、手放す準備を整える |
方法 | 経験的対話・比喩・問いかけ・身体感覚の活用 |
臨床的効果 | 「今ここ」と「価値」に立ち返る足場を築く |
続くプロセス | 受容・脱フュージョン・価値明確化・行動変容へ |
以下は、ACT(アクセプタンス&コミットメント・セラピー)の**「創造的無力感(creative hopelessness)」を扱うためのセッション台本(スクリプト)**の一例です。臨床現場での応用を想定し、心理療法士とクライアントの対話形式で示します。
🧩 セッション台本:「創造的無力感」
■ クライアント情報(想定)
- 名前:佐藤さん(仮名)、30代、男性
- 主訴:社交不安、回避傾向、孤立感
- 既に3年間、認知再構成・行動実験などを受けたが変化乏しい
🗣 台本(Therapist = T, Client = C)
【導入:戦ってきた道のふり返り】
T:「佐藤さん、ここに来られるまでに、ご自身でいろんな工夫や努力をされてきたと思います。それについて少しお聞かせいただけますか?」
C:「ええ…そうですね。人と話すのが怖いと感じるとき、深呼吸をしたり、話す内容を事前にメモしたりしてきました。」
T:「素晴らしい工夫ですね。他にも何かありますか?」
C:「うーん…人が多い場所には行かないようにしたり、無理に会話しないようにしてきました。」
【問いかけ:それは機能してきたか?】
T:「なるほど。今までのやり方は、佐藤さんを守るための大切な試みだったと思います。では、少しだけ視点を変えてお尋ねしますね。――そうした努力は、佐藤さんの人生を広げてくれましたか? それとも、狭めてしまったと思いますか?」
C:「…うーん……。正直、狭くなった気がします。」
T:「そう感じるのですね。たとえば、どんなことが難しくなりましたか?」
C:「友達と会わなくなったし、仕事でも同僚との関係がぎこちないままです。何かやりたいと思っても、どうせ無理だって思ってしまって…」
【名前のない問題解決マシンの発見】
T:「佐藤さんは、すごく頑張ってこられました。人前で緊張しないように、嫌な気分を避けようとしてきた。その一つひとつは間違っていません。でも、もし“問題解決しようとすればするほど、苦しみが増えている”としたら…?」
C:「……そうかもしれません。」
T:「私たちの“頭”は、いつも問題を分析して、解決しようとします。でも、“感じたくない感情”や“不安”に対しても、それを同じように操作しようとする。それが時に、人生を縮めてしまうことがあるんです。」
【比喩の導入:泥水の中の犬】
T:「ひとつ、たとえ話をしてもいいですか?」
C:「はい。」
T:「ある犬が泥水の中に落ちて、なんとか陸に戻ろうとしてもがいていました。でももがくほど、泥に沈んでいってしまう…。ところが、もがくのをやめて浮かんでみると、自然と水面に戻れたんです。」
C:「……その犬、僕みたいですね。」
【新たな方向への提案:違うルールで生きる】
T:「佐藤さんの努力は、全部“正しい”ものでした。でも、それは“今の問題”には効かなかった。そのことを、いまここで一緒に見つめてみるのが、このセッションの意味です。」
C:「……はい。」
T:「ここで大事なのは、“やってもダメだったからあきらめる”のではなく、“別の生き方の可能性を開く”ことなんです。――もし、不安をゼロにするのではなく、不安を抱えながらでも自分の人生を生きるとしたら、何ができるでしょう?」
【セッションのまとめと契約】
T:「これからは、“不安をなくす”ことをゴールにするのではなく、“不安を抱えながらも自分の価値に従って生きる”という方向に目を向けてみませんか?」
C:「……それなら、やってみたいです。」
T:「ありがとうございます。では次回から、“感じたくないものを感じながらも前に進む方法”について、一緒に取り組んでいきましょう。」
🪧 セラピストの留意点
項目 | 内容 |
---|---|
✅ 目的 | コントロール努力の限界を自覚し、新たな行動の余地を開く |
🧭 姿勢 | 否定や説得ではなく、好奇心と共感のまなざしで関わる |
🎭 感情表現 | クライアントの悔しさや疲れにも丁寧に寄り添う |
💬 技法 | 比喩・問いかけ・沈黙を活用し、気づきの空間を育てる |