暴力、戦争、支配、服従、恐怖、優劣

暴力とは、単に肉体的な力の行使にとどまらず、人間関係や社会秩序の根底に潜む力の構造そのものである。家庭内暴力から戦争に至るまで、暴力は個人や集団の序列を決め、支配と服従の関係を固定化する装置として働く。家庭では、身体的・心理的な暴力によって、加害者が被害者の行動や感情を統制し、沈黙と服従を強いる。そこでは暴力が一種の「言語」となり、正当性の根拠を奪われた者が「悪」として扱われる構図が生まれる。暴力は、恐怖によって秩序を作る擬似的な倫理体系である。

社会や国家のレベルにおいても、構造は同じである。軍事力や経済力を背景にした支配は、国家間の序列を形づくり、戦争はその極限的な表現である。戦争は暴力の「合法化」であり、殺人が正義の名のもとに許可される。暴力を握る者は「正義」を名乗る権利を得る。ここにおいて暴力は単なる手段ではなく、価値のヒエラルキーを創出する原理そのものとなる。

しかし、この序列は常に不安定である。暴力によって得られた支配は、より大きな暴力によって覆される可能性を孕む。したがって、暴力は秩序を保つと同時に、破壊の種を内包する。フーコーが指摘したように、権力は抑圧ではなく生産的であり、人々の行動・思考・欲望を形づくる。しかしその生産の根底には、暴力の脅威が常に潜む。人間は暴力の外に生きることができず、またそれを完全に制御することもできない。

ゆえに、暴力を否定することは、単に力の行使を拒むことではなく、序列そのものを問い直す営みである。真の非暴力とは、暴力を生み出す構造に気づき、支配や服従の図式を越えた関係を模索することに他ならない。ガンディーが説いた「非暴力」は、弱者の抵抗ではなく、人間の尊厳を回復する根源的な力の行使だった。家庭においても、国家においても、暴力に依存しない秩序を築くためには、恐怖や優劣の論理を超え、相互理解と共感による新たな「力」の形を見出さねばならない。暴力の連鎖を断ち切ることは、序列を超えた人間の成熟を意味するのである。

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筋肉も暴力をもたらす。知力も暴力をもたらす。

暴力的支配構造を無力化したいが、それが難しい。
簡単に言えば、より上層の暴力的支配を構造化することしかないともいえる。
たとえば世界政府や世界警察。

しかし一方で、暴力による体や心の痛みが作り出す支配構造を無力化する心の革命ができるはずだとの考えもある。
かなりの難問だけれども。
「痛いからと言って、恐怖だからと言って、服従しない」

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