これは双極性障害の病因論および病前性格や初期症状の理解に関連する、重要な精神病理学的仮説の一つです。
躁うつ病についての「躁病先行仮説」
(The Hypomania-First Hypothesis / Mania-Premorbid Hypothesis)
■ 概要
「躁病先行仮説」とは、双極性障害においては、うつ状態よりも先に軽躁状態や躁状態が存在することが多い、あるいは病前から軽度の躁的傾向が見られるという仮説である。この考え方は、単なるエピソードの出現順序にとどまらず、双極性障害の根本的な構造や気質的基盤を理解するうえでの鍵となる視点である。
この仮説は、19世紀末〜20世紀初頭の精神病理学、特にドイツ語圏の古典的精神医学の文脈で論じられたもので、躁的要素こそが双極性障害の核であるという理解に基づいている。
■ 歴史的背景と精神病理学的起源
- この仮説の起点には、**クレペリン(Emil Kraepelin)**が提唱した「躁うつ病(manisch-depressives Irresein)」という疾患概念がある。
- クレペリンは、双極性障害における感情の波動性と反復性を重視し、躁と鬱のどちらも含む病像として理解した。
- しかしその後、躁状態が病理の始原にあるのではないかという着想が、後続の精神病理学者(特にヤスパースやTellenbachなど)によって強調されるようになった。
■ 主な主張内容
1. 躁的気質(cyclothymic / hyperthymic temperament)の存在
- 双極性障害の患者には、社交的・多弁・活動的・自信過剰・楽観的といった躁的な傾向を持つ「躁的気質」がしばしば病前から存在する。
- これは軽躁状態や躁病の前段階的存在であり、うつ病性気質とは対照的。
2. 軽躁エピソードが初発であることが多い
- 臨床的に、初発エピソードが軽躁状態(hypomania)であることが少なくない。
- 本人も周囲もそれを「病的」とは捉えず、むしろ「魅力的な性格」として評価することが多いため、医療的に見過ごされがち。
3. うつ状態は躁的高揚の反動として現れる
- 精神病理的には、躁的昂揚の破綻や反動としてうつ状態が出現するという見方がある。
- つまり、うつ状態は一次的ではなく、躁的状態が本質であり、うつはそれに続く二次的なものと考える。
■ 臨床的意義
■ 診断上の視点
- 軽躁エピソードの見逃しは、双極性障害を「単極性うつ病」と誤診する一因となる。
- 特に双極II型障害(うつ+軽躁)では、軽躁エピソードが患者本人にとって「問題」として認識されていないため、問診で見落とされやすい。
- この仮説に基づけば、「うつ病と思われる症例でも、過去の軽躁的傾向を丁寧に探ることが重要」となる。
■ 治療上の視点
- 初期段階での抗うつ薬単剤使用は、軽躁の潜在傾向を持つ患者において躁転を誘発するリスクがある。
- そのため、うつ病に見える症例でも、躁的傾向(活動性、短時間睡眠、過集中など)を呈していないかを確認し、気分安定薬の併用を検討する必要がある。
■ 神経生物学的・遺伝的背景
- 双極性障害の家族歴や遺伝的要因においても、「躁病寄り」の表現型が親族内に存在することが多いとされる。
- たとえば、**hyperthymic temperament(高気分気質)**を持つ家族がいる場合、その家系には双極性障害の素因が強いと考えられる。
■ 批判と限界
- 全ての双極性障害が躁から始まるわけではなく、初発がうつ状態のことも多い。
- 一方で、うつ状態に引き続いて初めて軽躁エピソードが出現することもあり、必ずしもこの仮説がすべてに当てはまるわけではない。
- DSM診断基準では、エピソードの出現順序は診断要件ではなく、この仮説は臨床補助的視点にとどまる。
■ 結語
「躁病先行仮説」は、双極性障害における病態の構造理解と、初期徴候・気質的背景への注目を促す、重要な精神病理学的視座である。この仮説を臨床に活かすことで、うつ病と診断された患者の中に潜む双極スペクトラム障害を見出す可能性が高まり、より適切な治療介入が可能となる。現代の双極スペクトラム理論や、気質と病態の連続性の理解に通じる、今なお意義深い概念である。