日本的メンタルヘルス言説の階級性
――回復モデルは「新しい空気」ではないか
Ⅰ.前提:回復モデルは「善」である
……という前提そのものが、すでに問いを要する
回復モデル(Recovery Model)は、本来こういう思想でした。
- 症状の消失=回復ではない
- その人なりの意味・尊厳・希望
- 専門家中心主義からの離脱
これは、歴史的には解放的な思想です。
問題は、それが日本に輸入されたときに何が起きたかです。
Ⅱ.日本で回復モデルが「空気」になるプロセス
1️⃣ 「理念」が「雰囲気」になる
日本的導入では、回復モデルはしばしば:
- 理論として理解されず
- 倫理として吟味されず
- 態度・トーン・空気として流通する
例:
- 前向きでいましょう
- 可能性を信じましょう
- 自分らしく
- 主体的に
👉 これらは説明ではなく合言葉です。
2️⃣ 回復が「できる人/できない人」を分ける
ここで階級性が立ち上がります。
回復モデルが前提にしている主体は:
- 言語化できる
- 自己選択ができる
- 希望を語れる
- 支援を使いこなせる
👉 これは
中産階級的ハビトゥスをもつ主体像です。
Ⅲ.回復モデルの階級的前提(暗黙)
整理すると、こうなります。
回復モデルが暗に要求する能力
- 自分の状態を言葉で説明できる
- 将来を時間軸で構想できる
- 支援者と対等に話せる
- 選択肢から選べる
- 「希望」を最低限保持できる
👉 どれも「人間として普遍」ではない。
👉 社会的に獲得される能力です。
Ⅳ.「空気」化した回復モデルの症状
症状①:希望を語れない者が沈黙する
- 「希望は?」と聞かれる
- 答えられない
- 罪悪感
- 「自分は回復に向いていない」
👉 希望が道徳になる。
症状②:苦しみが「努力不足」に変換される
- 前向きになれない
- 主体的になれない
- 活動に参加できない
👉
回復できない=意欲がない
これは、
かつての「怠け」言説と構造的に同じです。
症状③:専門家の沈黙
支援者側も、
- 回復モデルを疑うと
- 「古い」「抑圧的」と見なされる
👉 異議申し立てができない
👉 空気としての正統性
Ⅴ.ブルデュー的診断
ブルデューの言葉に翻訳すると:
回復モデルは、
「正統な生の語り方」を定義し、
それを自然なものとして流通させている。
つまり:
- 回復モデル=象徴資本
- 使いこなせる人=「良い当事者」
- 使えない人=沈黙・脱落
👉 象徴的暴力としての回復
Ⅵ.日本的「空気」との致命的な相性
日本ではもともと:
- 異議を唱えない
- 和を乱さない
- 前向きな顔をする
回復モデルは、これと完璧に共鳴します。
- 希望を語る → 空気に合う
- 苦しみを語る → 空気を重くする
- 回復を拒む → わがまま
👉 回復モデルは
日本的空気の最新版になりうる。
Ⅶ.では、どうすればいいのか
――回復モデルを捨てずに、空気化させない
① 希望を「義務」にしない
- 希望がない状態を
回復の一部として扱う
② 主体性を「能力」として扱う
- 主体性は前提ではない
- 支援の結果、一時的に出現するもの
③ 回復を「語りの形式」から解放する
- 沈黙
- 逡巡
- 後退
- 拒否
👉 これらも回復の現象形態と認める。
④ 臨床家が「空気を破る役」を引き受ける
たとえば、こう言う。
「回復したくない、
という気持ちがあってもいい」
これは勇気が要りますが、
それ自体が治療的介入です。
結語:少しだけ厳しい言い方で
回復モデルが怖いのは、
それが善意でできているからです。
- 誰も傷つけるつもりがない
- でも、語れない者が消えていく
ブルデュー的に言えば、
最も洗練された支配は、
支配として経験されない。
日本のメンタルヘルスは、
いまその地点にかなり近づいています。
