ハン・ビョンチョルの「疲労社会」

ハン・ビョンチョルの『疲労社会(Müdigkeitsgesellschaft)』は、
まさに「自発的服従による支配」の構造を、21世紀型に読み替えた思想です。


1.規律社会から成果社会へ

ハンはまず、フーコーを踏まえつつ、こう言います。

20世紀:規律社会

  • 「〜してはならない」
  • 禁止・抑圧・命令
  • 外部からの強制
  • 典型的病理:ヒステリー、神経症

21世紀:成果社会(Leistungsgesellschaft)

  • 「君ならできる」
  • ポジティブな励まし
  • 自己実現の強制
  • 典型的病理:うつ、バーンアウト、ADHD

ここが決定的です。

現代は「否定の社会」ではなく
**「過剰な肯定の社会」**だ、と彼は言う。


2.「できる」が暴力になる

成果社会では、命令は消えます。

代わりに出てくるのは:

  • 自己最適化
  • 自己責任
  • 自己ブランディング
  • ポジティブ思考
  • 可能性の無限化

一見すると自由です。

しかし実際には、

「できない」は自分の責任になる。

他者に搾取されるのではない。
自分で自分を搾取する。

ハンの有名な一文:

今日の主体は、自己の企業家である。

労働者と資本家が同一人物になる。
これが自発的服従の完成形です。


3.うつは敗北ではない

ハンの挑発的な主張。

うつは「弱さ」ではなく、

過剰な肯定に対する拒否反応である。

常に

  • 生産的であれ
  • ポジティブであれ
  • 成長し続けよ

という圧力にさらされ続けると、
主体は疲労する。

神経症は「禁止」による病理だった。
うつは「可能性の過剰」による病理だ。

これは臨床的にも非常に示唆的です。


4.暴力の形態の変化

ハンは言います。

昔の暴力は

  • 切断
  • 排除
  • 禁止

今の暴力は

  • 過剰
  • 過活動
  • 情報の氾濫
  • 透明性の強制

敵は外部にいない。

敵は“自分の内側の成果要求”になる。


5.「自発的服従」との接続

高度な支配とは、
命令しない支配です。

  • 「自由に働け」
  • 「好きなことを仕事に」
  • 「挑戦し続けよ」

拒否すると、
「怠惰」「努力不足」「やる気がない」とされる。

つまり、

自由の言語が、最も強い拘束になる。


6.日本社会との相性

日本はもともと

  • 空気
  • 同調圧力
  • 恥の文化

を持っていました。

そこに成果主義が重なった。

結果:

  • 過剰適応
  • 燃え尽き
  • 若年層の抑うつ
  • 自己責任論の内面化

ハンの理論は、日本ではむしろ“自然に見える”。

だからこそ、危険でもある。


7.臨床家の問い

ここで重要なのは、

治療が「再び成果要求」にならないことです。

  • 回復せよ
  • 希望を持て
  • レジリエンスを育てよ
  • CBTスキルを使え

これもまた「できる主体」の再構築になり得る。

ではどうするか。

ハンは「疲労」そのものを肯定します。

何もしない時間。
沈黙。
否定。
“できない”という経験。

それは成果社会への静かな抵抗です。


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