「外から与えられた近代」と「内から立ち上がる主体」とのねじれ
これが、夏目漱石がもどかしく思っていたものの中心だったのではないでしょうか。
Ⅰ.漱石が感じていた“もどかしさ”の核心
1.近代は来た、しかし主体は育っていない
明治日本は制度としては急速に近代化しました。
議会も憲法も大学も整った。
しかし漱石の目には、
- 思想は輸入される
- 言葉は翻訳される
- だが、それを「自分の言葉」にする精神が未成熟
という状態が映っていた。
これは単なる文化論ではありません。
精神構造の問題です。
外からの価値に反応するが、
内からの必然として生きていない。
ここに彼の焦燥があった。
2.自我が強すぎることでも、弱すぎることでもない
漱石の苦悩は、『こころ』『それから』に描かれたように、
近代的自我の孤独と罪責に満ちています。
しかし彼は単純な自我礼賛者ではありませんでした。
- 自己を確立せよ(自己本位)
- だが自己を絶対化するな(則天去私)
この両義性に、彼の成熟があります。
もどかしさとは、
自我を持てない社会
しかし自我を持てば持ったで壊れてしまう精神
この板挟みだったのではないでしょうか。
3.「責任」を引き受けない精神への苛立ち
漱石は言います。
倒れるのも進むのも自分の責任だと。
彼が嫌ったのは、
- 世間のせいにすること
- 時代のせいにすること
- 権威のせいにすること
つまり 主体なき批評精神 です。
Ⅱ.現代日本はどこにいるか
今日、日本は制度的には完全に近代国家です。
しかし精神的には、
- 承認依存の強まり
- 空気への過敏
- 自己演出の過剰
が見られる。
これは明治的模倣の延長ではなく、
市場と情報環境による他人本位です。
外圧は西洋からアルゴリズムへと変わっただけかもしれません。
Ⅲ.では今後どうすればよいか
漱石的に考えるなら、三つあります。
1.「内発性」の回復
自分が何に怒り、何に喜び、何に耐えられないか。
それを他者の評価から切り離して掘り下げる。
これは精神療法的に言えば、
- 欲望の主体化
- 投影の回収
に近い作業です。
2.責任を引き受ける勇気
自由は「楽になること」ではなく、
結果を自分で引き受けること
です。
漱石の個人主義は、
自己肯定のスローガンではなく、
責任倫理でした。
3.「則天去私」の再解釈
これは自己放棄ではありません。
- 自我を持ちつつ
- 自我に執着しない
自然の流れに自分を位置づける視点。
自己実現が義務化された時代にこそ、
自己を相対化する静けさが必要です。
Ⅳ.核心を一文で言えば
漱石のもどかしさとは、
近代的装置は整ったのに、近代的精神が育たないこと
そして今後の課題は、
内から立ち上がる主体を育てつつ、その主体を絶対化しないこと
この両立です。
もし臨床的に言い換えるなら、
これは「自我強化」と「自我相対化」をどう統合するかという問題です。
