忠節または信仰の内在化と近代的主体の成立
――丸山眞男・漱石・キェルケゴール・内村鑑三・『論語』を手がかりとして――
要旨
本論文は、忠節の対象が外部の君主から内部の理想的権威へと内在化する過程において、近代的主体が成立することを論じる。この構造は、日本の武士道倫理における諫奏の精神、儒教倫理、『論語』における諫言の義務、漱石の「自己本位」、キェルケゴールの神の前の単独者、内村鑑三の内面的信仰に共通して見出される。忠節の内在化は単なる倫理的変化ではなく、主体の成立条件そのものである。
一 忠節の外在的構造と内在的構造
忠節には二つの構造が存在する。
第一は外在的忠節である。ここでは忠節の対象は現実の君主であり、忠節の内容は君主の意志に従属する。この場合、忠節は純粋に従属関係である。
第二は内在的忠節である。ここでは忠節の対象は、個人の精神内部にある理想的君主である。
このとき忠節は単なる服従ではなく、むしろ現実の君主の誤りを訂正する義務として現れる。
丸山眞男は、日本の武士道において忠誠が単なる服従ではなく、「諫奏」という能動的契機を含むことを指摘した¹。
諫奏は、現実の主君を超えた理想的主君への忠節によって可能となる。
この瞬間、忠節の対象は内在化する。
二 『論語』における忠と諫言
この構造はすでに『論語』に明確に見られる。
孔子は述べる。
「君に事えては忠を尽くし、しかしてこれを諫む」²
ここで重要なのは、「忠」と「諫」が対立していないことである。
真の忠は諫言を含む。
さらに孔子は述べる。
「義を見て為さざるは勇なきなり」³
義は君主の命令より上位にある。
ここにおいて忠節の最終的基準は君主ではなく義そのものである。
義は精神内部の基準として存在する。
ここに忠節の内在化がすでに萌芽している。
三 武士道における忠節の内在化
丸山眞男は、武士の忠誠が人格的関係に基づく能動的倫理であったことを指摘した¹。
主君への忠誠は無条件服従ではなく、主君を理想へと導く義務を含んでいた。
このとき武士は、現実の主君と理想的主君の間に立つ。
彼は理想的主君を内部に持つ。
この内部基準によって現実の主君を判断する。
ここに倫理的主体が成立する。
四 漱石における「自己本位」
夏目漱石は『私の個人主義』において「自己本位」を提唱した⁴。
自己本位とは、外部の評価ではなく内部の基準に従って生きることである。
これは恣意ではない。
内部の理想への忠実さである。
漱石は近代日本人が外部権威に依存していることを批判した。
彼が求めたのは、内部の権威によって生きる主体である。
これは忠節の内在化の完成形である。
五 キェルケゴールにおける単独者
キェルケゴールは「単独者(den Enkelte)」の概念を提示した⁵。
単独者とは、神の前に単独で立つ個人である。
ここでは社会も制度も媒介とならない。
神は精神の内部において現れる。
信仰とは外部への服従ではなく、内部の絶対との関係である。
これは忠節の完全な内在化である。
六 内村鑑三における内面的信仰
内村鑑三は無教会主義を提唱した⁶。
彼は制度としての教会を否定し、個人の内部における神との直接的関係を強調した。
彼にとって神は制度ではなく、精神内部の絶対である。
これは日本における忠節の内在化の宗教的表現である。
七 忠節の内在化と主体の成立
忠節が外部対象に向けられる限り、個人は従属者である。
しかし忠節が内部対象に向けられるとき、個人は主体となる。
なぜなら彼は判断基準を内部に持つからである。
ここに近代的主体が成立する。
主体とは忠節を失った存在ではない。
忠節を内在化した存在である。
八 結論
忠節の本質は服従ではない。
それは理想への忠実さである。
この理想が内部に内在化するとき、個人は主体となる。
この構造は、
- 『論語』の義
- 武士道の諫奏
- 漱石の自己本位
- キェルケゴールの単独者
- 内村鑑三の内面的信仰
に共通している。
近代的主体とは、忠節の否定ではなく、その内在化によって成立した存在である。
注
- 丸山眞男『忠誠と反逆』(筑摩書房、1998年)
武士の忠誠が能動的契機を含むことを論証。 - 『論語』為政篇
忠と諫言の統一。 - 『論語』為政篇
義の優位性。 - 夏目漱石『私の個人主義』(1914年)
自己本位の概念。 - キェルケゴール『死に至る病』(1849年)
単独者の概念。 - 内村鑑三『後世への最大遺物』(1894年)
内面的信仰。
参考文献
- 丸山眞男『忠誠と反逆』筑摩書房
- 夏目漱石『私の個人主義』岩波文庫
- キェルケゴール『死に至る病』岩波文庫
- 内村鑑三『後世への最大遺物』岩波文庫
- 金谷治訳注『論語』岩波文庫
