日本の近代化における精神変容を精神分析学的な視点から再構成すると、それは「超自我の外部化」と「分離―個体化の停止」、そして「理想的他者の内面化の失敗」という、極めて臨床的な葛藤のプロセスとして描き出すことができます。
「超越者の内在化」という課題を精神分析の用語で解読し、日本人の深層心理で何が起きていたのかを分析します。
精神分析的考察:未完の「父」と、遍在する「母」の審判
――日本近代における自我の病理的構図
序:自我の誕生と「内的作業モデル」の転換
精神分析学において、自我の確立とは、未分化な依存状態(母子的融和)から脱し、自己の中に「法(ロゴス)」や「規範」を司る超自我(Superego)を形成するプロセスです。
「内的作業モデル(Internal Working Model)」の観点から言えば、これは外部の権威(親、あるいは主君)を抽象化し、自分の一部として「取り込む(Introjection)」ことで、外部の監視がなくても自律的に振る舞えるようになる状態を指します。
日本の近代化は、この「取り込み」のプロセスにおいて、特異な「拒絶反応」と「擬態」を引き起こしました。
第一章:国家神道という「外部に留まった超自我」
フロイトの理論を援用すれば、西欧的近代とは、絶対的な「父(神)」との対決を通じてその規範を内面化し、個人の超自我を完成させる「エディプス的成熟」のプロセスです。これに対し、明治以降の日本が選択したのは、超自我を個人の内面に形成するのではなく、国家の頂点にある天皇に固定し、「外部に超自我を投影し続ける」という道でした。
本来、超自我は「内なる超越者」として自己と対話する存在であるべきですが、国家神道という装置は、その対話相手を「目に見える人格的権威(現人神)」として外在化させてしまいました。これにより、日本人の自我は、内なる良心と向き合う孤独を回避し、常に外部の「父」の顔色を窺うという、「エディプス・コンプレックスの未解決な解決」(外部への依存による安定)を選択したのです。
第二章:「世間」という名の「原始的母性超自我」
一方で、民間信仰や仏教(特に葬式仏教的な変容)が支えていたのは、垂直的な「父の法」ではなく、すべてを包摂し、異質なものを排除する「母性的な包摂性」でした。河合隼雄や土居健郎が論じたように、日本社会の深層には「母なるもの」への強い退行欲求が横たわっています。
この「母性的なるもの」が、近代化の過程で変質した姿が「世間」です。日本人は「内なる神(父)」の審判を仰ぐ代わりに、周囲の視線という「世間」の承認を求めます。精神分析的に言えば、これは個人の超自我が未発達なまま、集団の期待を自己の規範と錯覚している状態(集団への自己の融解)です。
「世間様に対して恥ずかしい」という羞恥の感覚は、罪悪感(内面化された規範への背信)ではなく、母子的な融合状態からの追放(見捨てられ不安)を恐れる心理であり、これは分離―個体化が達成されていない「前エディプス的」な段階の心理機制です。
第三章:夏目漱石の「自己本位」と自己愛の損傷
この精神構造の歪みに、自身の神経症を通じて直面したのが夏目漱石でした。
漱石が苦しんだ「他人の後をついて歩く」ことへの自己嫌悪は、他者の基準を無批判に取り込んでしまう「取り入れ(Introjection)」の病理です。西洋という巨大な「父」の模倣に終始する日本において、漱石は自分自身の内部に「理想的な自己像」を見出せず、深刻な自己愛の損傷に陥りました。
漱石の「自己本位」という宣言は、精神分析的には「自己の再統合」の試みです。外部の権威(西洋、あるいは日本の世間)を一旦拒絶し、自己の内部に「内なる超越者(天)」を再構築することで、断片化した自我を繋ぎ止めようとしたのです。しかし、周囲に「父の法」を共有する他者が不在であったため、その試みは彼を極限の孤独(隔離)へと追い込むことになりました。
第四章:新興宗教と「全能感」の投影
近代化による不安は、多くの新興宗教への入信を促しました。これは、既存の社会(超自我)が機能不全に陥った際に、強力なカリスマ指導者に自身の「全能感」を投影し、その一部となることで安定を得ようとする、ある種の「退行的な癒やし」のプロセスとして説明できます。
超越者が「自分を律する内なる審判者」として内在化される代わりに、「自分を守り、救ってくれる外部の魔法的存在」として対象化されたとき、そこには主体の自律(自我の確立)は生まれず、むしろ「理想化された他者」への幼児的な依存が強化されてしまいました。
第五章:『論語』の変容と「偽りの自己」の形成
「忠」の変質(諫奏の喪失)は、ウィニコットのいう「偽りの自己(False Self)」の形成として捉え直すことができます。
本来の『論語』が教える「内なる義」は、自己の真実(真の自己)に誠実であることを求めます。しかし、明治以後の「忠君愛国」教育は、国家という外部の期待に適応するために、個人の内面的な真実を抑圧することを強いました。
日本人は、外部の権威に完璧に適応する「偽りの自己」を発達させることで近代化を成功させましたが、その裏側で「真の自己」は「内なる超越者」との対話を奪われ、空虚化していったのです。
結び:内的対話の回復という「治癒」に向けて
以上の精神分析的視点から見れば、日本人の自我の確立が未完である理由は、「外部の権威(天皇、国家、世間)を内面化し、抽象的な原理へと昇華させる作業」を回避してきたことにあります。
我々は今なお、SNSの評価という「分散した外部超自我」に怯え、内なる基準を持たない「適応の病」の中にいます。治癒の道は、「超越者の内在化」という苦行に他なりません。それは、外部の視線を遮断し、自分自身の内部に存在する「理想的な他者(超越者)」と向き合い、対話を始めることです。
「内なる超越者」は、自分を裁く厳格な父であると同時に、孤独な自我を支える絶対的な「内的安全基地(Secure Base)」でもあります。この「内的超越者」とのダイナミックな対話が内面で成立したとき、日本人は初めて「空気」という名の擬似超自我から解放され、真に自律した近代的主体へと至ることができるのです。
