On Depression: Drugs, Diagnosis, and Despair in the Modern World

S. ナシール・ガミー教授が2013年に発表した『On Depression: Drugs, Diagnosis, and Despair in the Modern World』(邦題:『うつ病の真実―診断・薬・絶望の現代を見つめて』)は、これまで解説してきた彼の哲学的な理論を、現代社会が最も直面している問題である「うつ病」というテーマに絞って適用した、非常に実践的かつ刺激的な一冊です。

この本でガミー教授が展開している主張は、「現代人は、本当の意味での『うつ病(病気)』と、人間として避けられない『絶望(心の痛み)』を混同している」という非常に鋭いものです。

主な論点を4つの柱で詳しく解説します。


1. 「病気としてのうつ(Disease)」と「人間的反応としての絶望(Despair)」

ガミーは、現代の精神医学がすべての「気分の落ち込み」を「うつ病」という一つのラベルで処理していることを批判し、以下の2つを厳格に分けるべきだと主張します。

  • メラトコリー(真正のうつ病):
    これは生物学的な脳の病気です。理由もなく気分が沈み、エネルギーが枯渇し、食欲や睡眠が阻害されます。これは「医学モデル」で治療すべき対象であり、薬物療法(特にリチウムなどの気分安定薬)が劇的な効果を発揮します。
  • 絶望(Despair / Sadness):
    失恋、死別、失業、あるいは「人生の意味が見つからない」といった、人生の困難に対する正常で人間的な反応です。ガミーは、これを「脳の故障」として薬で消し去ろうとすることは、その人が人生の課題に向き合い、成長する機会を奪うことだと警告しています。

2. 「診断のインフレ」と製薬会社の影響

なぜ、これほどまでに「うつ病」の診断が増えたのか? ガミーはその社会的背景を暴きます。

  • DSM(診断統計マニュアル)の罪: 症状のチェックリストだけで診断を決めるDSMのシステムが、普通の悲しみを「うつ病」に格上げしてしまった。
  • マーケティング: 製薬会社が「心の風邪」というキャッチコピーを広め、セロトニン欠乏という(科学的に不十分な)仮説を浸透させたことで、抗うつ薬の大量消費社会が生まれた。
  • 結果: 本当に薬が必要な「重症のメランコリー患者」が適切な治療を受けられない一方で、薬が必要ない「人生に悩む人」に副作用のリスクがある薬が処方され続けている。

3. 抗うつ薬への厳しい評価(パーカー教授との共通点)

ガミーは本書の中で、抗うつ薬(SSRIなど)の効果について非常に慎重な、あるいは批判的なデータを示しています。

  • プラセボとの差: 軽度から中等度のうつ病において、抗うつ薬はプラセボ(偽薬)と大差がないというデータを示します。
  • 双極性障害の見逃し: ここでゴードン・パーカー教授の知見と合流します。単なるうつ病と診断されている人の多くが、実は「双極性スペクトラム」であり、彼らに抗うつ薬を与えると、一時的に良くなったように見えても、長期的には気分の波を激しくさせ、状態を悪化(慢性化)させると警告しています。

4. カール・ヤスパースと「実存的アプローチ」

ガミーは、薬で解決できない「絶望(Despair)」に対しては、精神医学はもっと哲学的(実存的)であるべきだと説いています。

  • 絶望の価値: 偉大な芸術家や指導者(リンカーンやチャーチルなど)の例を引き、彼らの「うつ(絶望)」が、いかに彼らの洞察力や共感力を高め、歴史を動かす力になったかを論じています(これは彼の別の著書『A First-Rate Madness(狂気のリーダーシップ)』のテーマでもあります)。
  • 治療のゴール: 治療の目標は「苦痛をゼロにすること」ではなく、その苦痛を通じて「より深い自己理解に到達すること」であるべきだとしています。

この本が現代に問いかける意義

この本は、これまでの流れ(ガミーの多元主義、パーカーの双極性障害論、新しい精神医学)を総括するような内容になっています。

  1. 「うつ病」を疑う: 医者に「うつ病ですね」と言われてすぐに抗うつ薬を飲む前に、それが「脳のエネルギー代謝の異常(病気)」なのか、「人生の危機(絶望)」なのかを問い直すこと。
  2. リチウムの再評価: ガミーは本書でも、抗うつ薬よりもリチウムなどの「真の気分安定薬」が、特に自殺予防や脳の保護において過小評価されていると述べています。
  3. レジリエンス(回復力): 私たちが本来持っている「悲しみから立ち直る力」を、安易な薬物療法で麻痺させてはいけないという倫理的メッセージ。

結論

『On Depression』は、「精神医学を科学(生物学)に戻すと同時に、人間学(哲学)にも戻せ」というガミーの叫びです。

「新しい精神医学(New Psychiatry)」が代謝や炎症という生物学的極北を目指す一方で、ガミーのこの著作は「その生物学的な枠組みに当てはまらない『心』の部分をどう扱うか」という、精神医学のもう一つの重要な翼を提示しています。

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