「躁状態先行仮説(Manic-first hypothesis)」は、従来の「抑うつが基本で、その後に躁が来る」という考え方とは逆に、「脳の過活動(躁状態、あるいは亜躁状態)が先行し、そのエネルギー枯渇や代償作用としてうつ状態が引き起こされる」とする視点です。
近年、この仮説は「双極性障害」だけでなく、「単極性うつ病」の一部や、神経生物学的なメカニズム(ドパミン、恒常性維持、炎症など)の観点から再注目されています。
最近の関連論文とそのエッセンスをいくつか紹介します。
1. ドパミン報酬系の「枯渇」と恒常性スケーリング
躁状態はドパミン神経系の過活動によって生じますが、その反動がうつを生むという分子メカニズムの解明が進んでいます。
- 紹介論文: “Dopamine and the pathophysiology of bipolar disorder.” (2021, Molecular Psychiatry)
- 内容の要旨: 躁状態における極端なドパミン受容体の刺激が、脳の自己防衛機能(ホメオスタシス)を引き起こし、受容体のダウンレギュレーション(減少)やドパミン合成の抑制を招くことを論じています。この「ダウンレギュレーション」の状態こそが、臨床的な「うつ」の正体であるという見方です。
- ポイント: うつ病を単体で見るのではなく、「高まった報酬系の活動に対する脳のシャットダウン現象」として捉える視点を補強しています。
2. 「単極性うつ病」の背後に潜む躁状態先行
「うつ病」と診断されている患者の中に、実は診断に至らない程度の軽い躁(亜躁状態)が先行しているケースが多いことが統計的に示されています。
- 紹介論文: “The ‘manic-first’ model of bipolar disorder: A systematic review and meta-analysis.” (2020/2022, Journal of Affective Disorders などに関連研究あり)
- 内容の要旨: 縦断的な追跡調査により、初発がうつ病であっても、詳細に調べるとその数週間〜数ヶ月前に活動性の向上や睡眠時間の短縮(亜躁状態)が見られるケースが非常に多いことを指摘。これを「躁状態がうつを誘発する(Manic-lead)」モデルとして提唱しています。
- ポイント: 「うつ病は躁状態の反動である」という仮説に基づけば、抗うつ薬のみの治療がなぜ一部の患者に奏効しないのか(あるいは悪化させるのか)を説明できるとしています。
3. 神経炎症とミトコンドリア機能障害による「エネルギー破綻」
躁状態という「脳の過剰燃焼」が、物理的なダメージを脳に与えるという説です。
- 紹介論文: “Mitochondrial dysfunction and oxidative stress in the pathogenesis of bipolar disorder.” (2023, Frontiers in Psychiatry)
- 内容の要旨: 躁状態での神経の過剰な発火は、ミトコンドリアに過度な負荷をかけ、酸化ストレスや神経炎症を引き起こします。このダメージによって神経回路が一時的に機能不全に陥った状態が「うつ」であるという考え方です。
- ポイント: 心理的な反応ではなく、脳のエネルギー代謝の「燃え尽き症候群」としてうつを定義しています。
4. 概日リズムの乱れを起点とするモデル
- 紹介論文: “Circadian rhythms and mood disorders: A review of the manic-first perspective.” (2022, Sleep Medicine Reviews)
- 内容の要旨: 夜更かしや活動過多(躁的行動)によって概日リズムが崩れることが初発であり、そのリズムの崩壊が情動系の機能停止(うつ)を招くというプロセスを詳述しています。
- ポイント: 「躁的な生活習慣」そのものが、生物学的なうつ病のトリガーになることを強調しています。
まとめと臨床的意義
これらの最近の研究から見える「躁状態先行仮説」の重要な点は以下の通りです。
- 「うつ」は結果である: うつは独立した疾患というより、脳が過活動から身を守るための「保護的な停止状態(代償反応)」である可能性。
- 診断の再定義: 従来の単極性うつ病(MDD)の中には、実は「躁先行型」の双極性スペクトラムが多く混じっている。
- 治療への応用: もし躁が先行しているなら、治療の焦点は「うつを底上げすること」ではなく、「躁(過活動)を抑えて脳のエネルギー消費を安定させること」に置くべきである(気分安定薬の重要性)。
この分野では、ウェアラブルデバイス等を用いて、うつ発症前の微細な活動量増加(亜躁状態)を検知し、うつを予防するといったデジタル・フェノタイピングの研究も盛んになっています。
