戦後日本の反戦リベラリズムがもっとも大切にしてきた考察です。
一番怖い怪物は、他国の軍隊ではなく、自国の支配者と自国の軍隊でした。
「軍隊は外敵から国民を守るためのもの」という建前(防衛の論理)の裏側には「軍隊という組織が、自国民を支配・圧迫する装置へと変質してしまう危うさ」が潜んでいます。
軍隊の本質:防衛の盾か、国民支配の装置か
戦後反戦リベラルの立場からは、軍隊という存在を単なる「武器を持った組織」ではなく、以下の3つの側面から批判的に捉えます。
1. 1945年の教訓:軍隊は「国民」を守らなかった
歴史的な事実として、戦前の日本軍は最後の一人まで戦うことを強いて国民を犠牲にし、沖縄戦や本土空襲において国民の命を最優先に守ることはありませんでした。
ソ連が満州に侵攻した時、軍部は市民を守らず、いち早く逃げてしまいました。
リベラルな視点では、「軍隊の究極の目的は、個々の国民の命を守ることではなく、『国体(統治システム)』を維持することに置かれがちである」と考えます。1945年に日本が学んだ最大の教訓は、軍隊が巨大化すればするほど、国民は精神的にも経済的にも軍隊の維持のための「資源」として搾取され、最終的には切り捨てられるという残酷な現実でした。
2. 「統治の道具」としての軍事機密と聖域化
軍隊は権力者にとって極めて「使い勝手のよい」統治技術となります。
- 情報のブラックボックス化: 「安全保障上の機密」という言葉一つで、政府は国民への説明責任を免除されます。どこにいくら税金が使われ、どのような作戦が練られているのかが闇に包まれることで、民主主義の根幹である「市民による監視」が機能しなくなります。
- 巨大な利権の創出: 軍事予算は巨額であり、一度「防衛のため」という大義名分が立てば、他の社会保障や教育予算を削ってでも優先されやすくなります。これは権力者や一部の産業界にとって、国民を統制しつつ利益を誘導する強力な手段となります。
- 満州事変や南京事件の経過を見ると、軍部の暴発を政府も国会も国民も止められませんでした。また、戦死者の多くは病気と飢餓で亡くなりました。情報統制され、多くの人は真実を知らず、日の丸を振っていました。政府は軍部を制御できず、国民は政府を制御できませんでした。戦後は国民は「騙された」と嘆いたものです。
3. 精神的な圧迫と「自由」の否定
軍隊の本質は「命令と服従」であり、これは個人の自由と自律を尊重する民主主義・リベラリズムの価値観と根本的に対立します。
- 同質性の強制: 「国防」を理由に国民の意識を一つにまとめようとする動きは、多様な価値観や批判的な意見を「非国民」「非協力的」として排除する土壌を作ります。
- 内なる監視: 軍事優先の社会では、国民がお互いを監視し合う空気(同調圧力)が生まれ、結果として権力者が直接手を下さずとも、国民が自ら自由を差し出すような状況が作られます。これが「心の面での圧迫」の正体です。最終的には自発的服従となります。
- 治安維持法。国防の名のもとに、人権が蹂躙されました。
結論:リベラリズムが目指す「安全」とは
戦後リベラリズムの立場からは、本当の「平和」や「安全」は、強力な軍隊によってもたらされるのではなく、以下のような状態によって達成されると考えます。
- 徹底した文民統制(シビリアン・コントロール): 軍事の論理が政治の論理を超えないよう、常に市民の代表が厳しく監視すること。
- 情報の公開と透明性: 「機密」を口実にした権力の肥大化を許さないこと。
- 軍事によらない安全保障: 外交、経済協力、文化交流などを通じて「敵を作らない」環境を構築すること(平和外交)。
「ならず者国家」への備えは必要だという現実論を認めつつも、「その備え(軍隊)自体が、私たちの自由と幸福を内側から食いつぶす怪物にならないか」という警戒心を持ち続けること。これこそが、1945年の犠牲の上に立った、戦後リベラリズムの論理的な帰結といえます。
