弱者攻撃と人間存在
――人間学的精神療法からの統合的考察
1.弱者とは誰か
人間学的精神療法の立場では、
「弱者」は社会的カテゴリーではない。
それはまず、
私の内にある、傷つきやすさ
である。
人間は本質的に有限であり、依存的であり、死に向かう存在である。
この事実を受け入れられないとき、人はそれを外部へ投影する。
精神分析はそれを投影と呼んだ。
社会心理学はそれを下方比較と呼んだ。
しかし人間学的視点では、それは
存在不安からの逃避
である。
2.存在不安と強者への同一化
カール・ヤスパースは、人間は「限界状況」において自己に直面すると述べた。
死、罪、偶然、苦悩。
これらに向き合うとき、人は弱くなる。
しかし現代社会は、弱さを許容しない。
強さ、効率、生産性、勝利。
そこで人は強者に同一化する。
弱者を攻撃する行為は、
強さへの同一化の儀式である。
だがそれは、自己の存在不安を解消しない。
ただ一時的に麻痺させるだけである。
3.身体の次元
モーリス・メルロ=ポンティは、
人間を「身体を通して世界に開かれた存在」と捉えた。
他者の苦痛を見るとき、
私たちの身体はわずかに収縮する。
共感は観念ではなく、身体的出来事である。
弱者攻撃が常態化する社会では、
この身体的共鳴が抑圧される。
共鳴を抑えるために、
嘲笑や理屈や道徳化が用いられる。
だが身体は知っている。
その抑圧は、自己分裂を生む。
4.DNA主義の再解釈
「DNA主義」は、
人間学的に言い換えるとこうなる。
人間は本来的に「関係の存在」である。
利他性は遺伝子戦略である以前に、
存在様式である。
人は孤立しては存在できない。
関係を断つことは、生物学的死だけでなく、
実存的死を意味する。
弱者を排除する社会は、
自己の一部を切断する社会である。
5.破壊衝動と実存的空虚
精神分析は死の欲動を語った。
人間学的視点では、それは
実存的空虚の増大
として現れる。
ヴィクトール・フランクルは、
意味の喪失が攻撃性や虚無を生むと述べた。
弱者攻撃の背後にあるのは、
優越ではなく、空虚である。
意味を失った主体は、
他者を踏みつけることで存在感を得ようとする。
だがそれは、より深い空虚を生む。
6.治療的視点から
人間学的精神療法は、行動を裁かない。
まず、その背後にある存在不安を見る。
弱者を攻撃する人もまた、
存在の脆さに耐えられない人である。
治療とは、
・弱さを語れる場をつくること
・限界状況を共有すること
・依存と傷つきやすさを恥としないこと
である。
惻隠の心とは、
他者への倫理である前に、
自己の弱さを引き受ける勇気である。
7.統合的結論
これまでの構図はこう統合できる。
- DNA主義=関係的存在としての人間
- 脳主義=即時的優越で不安を麻痺させる装置
- 精神分析=投影と破壊衝動
- 社会心理学=短期報酬と長期崩壊
- 人間学的精神療法=存在不安への応答
弱者をいじめる社会は、
弱さを否認する社会である。
しかし弱さこそが、人間の共通条件である。
弱さを排除するとき、
人間は人間であることをやめ始める。
終章
弱者を助けることは、
道徳の問題ではない。
それは存在の構造に忠実であることだ。
他者の弱さに触れるとき、
私たちは自分の弱さにも触れている。
それを否認するか、
引き受けるか。
文明の行方は、
その態度にかかっている。
