「赤の女王」の庭にて
近代の社会科学は、長らく一つの幸福な幻想を抱いてきた。すなわち、人間の文化や制度は、我々の自由意志と発明が生み出した純然たる「文明」の産物であり、生物学的な制約からは免れているという考えである。しかし、広大な時間軸に目を転じ、進化生物学の窓から人間という存在を眺めれば、景色は一変する。我々の高雅な文化も、洗練された社会構造も、その根底においては、三百万年から十万年前のアフリカのサバンナという過酷な条件下で鍛え上げられた「進化の遺産」にほかならない。
そこでの中心的なテーマは、驚くほど徹底して「性」に集約される。生殖こそが、人間という精密な生命装置に書き込まれた唯一の究極的な目標であり、知性も芸術も、あるいは社会的な野心でさえも、その目的を達成するための精巧な「手段」として設計されたものだという視点である。唯物論的というよりは、むしろ徹底して合目的的なこの生命の設計図において、人間の本性は規定されている。
ここで興味深いのは、「普遍的な人間の本性」というものが厳然として存在しながら、同時に我々が一人ひとり異なり、激しく競争する個人であるという矛盾の構造である。性は、個人間に決定的な差異をもたらすと同時に、種全体の均一性を保証する不思議なプロセスとして機能している。男性と女性という二つの側面も、それぞれの性が生存と生殖の成功を最大化させるべく、特定の役割に適した本性を磨き上げてきた結果であろう。
イギリスの生物学者たちが唱えた「赤の女王」という概念がある。ルイス・キャロルの鏡の国で、周囲と同じ場所に留まるためには、全力で走り続けなければならないというあの寓話である。進化の歴史もまた、この相対的な進歩の繰り返しであった。捕食者と獲物、寄生虫と宿主、そして同じ種の雄と雌。協力と衝突はコインの裏表であり、双方が絶え間なく武装を強化し続ける「軍拡競争」こそが、性の、そして人間の心理や行動の驚くべき適応力を生んできた。
進化は、生物学をそれまでの静的な分類学から、偶発的な歴史を孕んだ動的なドラマへと変貌させた。「なぜ」という問いは、我々の本性が現在のようになった核心へと迫る刃となる。進歩も成功も、常に他者との相対的な関係においてのみ定義される。それは、絶え間なく変化する環境という舞台で、遺伝子が自らの存続を賭けて試行を繰り返す、出口のない実験のようにも見える。
現代という時代、我々は自らの知性が自然を克服したと錯覚しがちである。しかし、我々の脳は依然として、かつてのサバンナの風の音を聞き分け、配偶者のわずかな兆候を読み取るように設計されたまま、二十一世紀の都市を彷徨っている。夕陽に照らされた鏡の向こう側で、赤の女王は今も走り続けている。その冷徹なまでの論理を認めることは、決して人間の尊厳を貶めることではない。むしろ、自らの足元を規定する深い淵を直視することこそが、真の自己認識の始まりではないか。私はそのように思うのである。
